鳥無き里の蝙蝠☆改

独り言書いてまーす

【日記】ウーパールーパー今までありがとう

2017-06-05 05:39:12 | 日記

友人のところでお粗末に飼育されていたウーパールーパーを引き取ったのがキッカケで、水棲生物どころかペットに関心すら持っていなかったのに水槽を買ったり中の土管を買ったり飼育方法を調べ始めたのが4年ぐらい前だろうか。

環境に順応する力が強いウーパールーパー。絶食状態が1ヶ月続いたとしても生存できる(但し健康を損なう)。暑さに弱いが寒さに強い。真夏には室内温度が27~31℃近くにもなる俺の部屋でも逞しく生き続けてくれた。

ぴくりとも動かず水流にただ身を任せるようにしている姿を見て何度も「・・・これ生きてる??」と思い10分以上眺めていた。しばらくすると動くので「また騙された・・・」というのが恒例だった。

ど素人の俺が飼育したにしてはずいぶんと長生きしてくれたもんだなぁと思った。

またウーパールーパーを新たに飼おうかとも考えた。水槽やポンプなどの環境はある程度整っている。しかしすぐに考えるのをやめた。主が不在の水槽を眺めていると猛烈に悲しさが襲ってきた。同じぐらい可愛がるだろう、ちゃんと世話もするだろう、けどいろんな葛藤をするし、また喪失した時の感情に苛まれるのは嫌だ。だから俺はきっともうウーパを飼うことはない。

今更ながら、いろんなところに飼育するうえで至らないところがあったのでは、と考えた。餌のタイミングが少しずれたことが何度もあった。ちょっとぐらいの汚れは気にしなかった。水換えを怠ったことも何度もあった。決して褒められるような主人ではなかった。それでも投げ出したことはなかった。自分の意志で飼うことになったわけじゃなく、半ば強引に押し付けられたようなものだったが、嫌嫌で飼育していたわけではなかった。飼っているうちに愛着を抱いたし、何か異常が現れれば心配になって夢にも出てきた。

もっとしてあげられることがあったんじゃないか。俺の悪い癖で、人間ではない生き物にはこういう思考をしてしまうのだ。犬であれ猫であれ虫であれなんであれ、対象の願い事を叶えてあげたくなってしまう。ウーパールーパーの願い事とはなんだろうか?きっとこんな狭い水槽の中で生涯を終えたいなどとは思っていなかっただろう。だからきっと自然界にある限りなく広い水源の中で生きたかったのではないだろうか。しかしさすがにそれは叶えてあげることはできない。なぜならきっと生きてはゆけないから。言葉を発することができない者はつくづく不幸だ。このウーパールーパーが願い事を俺に伝える術を持っていたのなら或いはー。

ツンデレよろしく「これで晴れて水流やポンプの振動音に悩まされずに済んでせいせいしてるぜ!ぐすん」って感じだ。いつからかとっくに悩まされずに眠れるようになっていた。あの小さく弱い体で、もしかしたら俺に元気をくれていたのだろうかと思うと胸が苦しくなる。都合の良い解釈をしてしまいたくなる。人間はいつだって自分勝手だ。ウーパの死の結果に勝手なシナリオを書き足して勝手に気持ちよくなろうとしている自分がとても気持ち悪く思えた。

たかだが小型水棲生物の死なのに大袈裟な記事だなと思う人もいるかもしれない。でも俺にとって死にでかいもちいさいも無いと思った。これも死を尊ぶ蠍座の性なのだろうか。蠍座だろうがなんだろうがどうでもいいけれど。

俺が祈ることは一つ。どうか次に生まれてくる時は人間の手の及ばない自由な世界に生まれてきますように、今までありがとう。過酷な環境だったよね、ごめんね。おつかれさま。おやすみなさい。

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【日記】底辺の俺が為替の勉強を始めたらしい

2017-05-27 15:44:49 | 日記

外国為替市場は月曜の朝〜土曜の明け方までが取引時間になる。つまりその間であればいつでもお金を稼ぐチャンスがあるということ。それは言い換えると、稼ぎやすい時間帯か否かという話でなければその中で自分のワークタイムを設定できるということである。組織に属したくない俺にとってこうした仕事は魅力的なので、それが事の発端に該当している。

本格的な学習に臨み始めたのはちょうどひと月前ぐらいだった。CymoVTというデモトレードができるFXアプリをDLして、動画やブログを片っ端から見漁りながら手探りであれこれ試していた。書籍や情報商材は現在数え切れないほどの量が流通しており、その中から良質な情報源を見つけ出すのは困難だったので手を出さずにいたが、基礎の基礎的なことを網羅している書籍であれば質はどうあれまずは一冊読み通すことが、なんだかんだで手っ取り早いらしいという意見を参考に購入。オーソドックスな各テクニカルチャートや、環境認識の重要性に対する認識はすでにネット上で得た知識によって基盤が固まりつつあったので、最初のほうは流し読みで済むレベルだった。

そもそも今回の投稿記事を執筆する理由は、約一ヶ月が経過した今しがたにチャートを眺めていたいろいろと気づいた点が多かったのでそれをまとめたいと思ったからである。

最初はiPhone&iPadで『YJFX CymoVT』を触っていたが、「これってPCのマウスで操作できるツールのほうが便利なのでは?」と思い、ブラウザ上の管理が多機能な『みんなの為替』の高機能チャートを使い始めた。便利ながらも無料会員では、作成したラインや設定がブラウザを一度閉じるとまた一から組み立てなければいけないので、環境認識に逐一時間がかかって勿体ないと感じていた。そこで、口座を開設しなくても設定を維持してくれるツールを探した結果『Trade Intercepter Forex』の存在を知って使い始めたのがつい先日なのだが、これが驚くほど便利で今までのかゆいところに手が届いていて快感ですらある。

この便利な『Trade Intercepter Forex』を触っていて気づいたことがある。もしも自分が他者をFXで稼げるまでに教育する機会が、万が一にも訪れるようなことがあれば、まずはこのツールを使わせたいと思うだろう。なぜならツールを探したり試してみたりという手間が勿体ないからである。勿論、不便なツールを知っているからこそツールの質を見極めることができるというメリットもあるが、初心者であればまずは環境認識に時間を費やすべきだと説きたい。そしてそのためには、ライン描画だったりチャート画面の行き来だったりという、経験値とは無関係な行程に対するコストは最小限であることが望ましいということを言いたかったのだ。

テクニカルチャート分析について。原理は難しくとも視覚的に直感で使用できるものについては慣れたものから利用していけばいいと思うが、脱インジケーターを勧める意見もあるのでテクニカルチャート分析を勉強する比率は今の所少なくていいと感じた。いずれのテクニカルチャート分析にも得手不得手があり、機能する場合と機能しない場合もあり、地政学リスクや大事件などによってはその圧倒的な力の前には抗えないとのことである。とはいえ、ある人によれば「ノウハウコレクティングは必ずしも悪いことではない」らしい。

ひと月の学習によって(今更かもしれないけど)気づいた点。物凄ぉ〜くざっくり言うと「あれ?FXってレジスタンスとサポートを精確に把握できてブレイクのタイミングさえ極めればイケイケなんじゃね??」と思ったのである。無論だが FXのリスクを侮っているわけではない。そこには精度の高い環境認識が要求されることを日々痛感している。現在のトレンドの特徴だったり直近のレンジの長さから市場のエネルギーを把握して次のトレンドの勢いを予想したり、というようにトレーダーの脳内でバチバチと忙しく処理されているやりとりを一つ一つ挙げていてもキリがないのは言わずもがな。そうした処理を潜在意識に落とし込み、無意識かつ迅速に環境認識を行えるようになるのは一朝一夕ではかなわない。これはFXに限ったことではなく、どんな学習プロセスにも言えることだと思う。かくいうイチローも「意識しなければできないことを無意識にできるように、無意識にしていることを意識してできるように」と言っている。

まだたったのひと月とはいえ、正直なところ手応えのない闇雲に手探りな日々が続いていた中で、初めて点と点が繋がった感覚を得たので、これを節目として執筆に至ったわけである。

バイナリーオプション(以下:略BO)には手を出したことがなく知識もないのだが、バイナリーオプションがAT自動四輪だとすればFXはMT自動四輪というところだろうか。BOは上がるか下がるかの二択。FXも極端に言えばそうなのだが、注文して終わりではないよね。なんか我ながら馬鹿っぽい言い方で笑う。

フィボナッチリトレースメントとは、フィボナッチ数列をチャート分析に用いたテクニカル分析である。黄金比率というのはそもそも自然界に存在していて、調べてみたらあらびっくり人間が最も美しいと感じやすいものの多くには黄金比率である可能性が高いらしいのだが、それがどうしたかといえば、為替レートというものは意図的な介入を除けば人々の動向や欲求を反映していると言えなくもないという点とフィボナッチ数列の関係に、気づいたことがあるのだ。一人の人間が対面している相手にお金を支払って物を買ったり、物を売ってお金を得たりする。それが海や国境を挟んだり、多人数になったり、大きな物の売買になると、小さな集団の集まりは大きな集まりとなり、その集団が集まれば大きな大きな集団となる。わけがわからんことを言い始めたと思うかもしれないがもうちょっと待ってほしい。「生物濃縮」という言葉をご存知だろうか。マグロを大量に食べると、同時に水銀のリスクに脅かされるという話である。これはプランクトンの体内に海中のメチル水銀が取り込まれ、そのプランクトンを小魚が食べ、食物連鎖の上位に行くほどその作用が強まり、結果的にマグロに含まれる水銀の量が高くなって我々のもとへ届くというのが一般教養だろうか。それがどうしたかといえば、人間一人一人がいわばプランクトンのようなもので、為替レートというのはマグロだったりクジラのようなものに思えたのだ。体がとても小さいプランクトンの小さな口で行う食事が、巡り巡って為替レートの動きや流れを築き上げたものだからこそ、自然界の法則であるところのフィボナッチ数列に当てはまっているのではないかと思ったのだ。説明とか比喩が下手すぎてワロエナイ。。。無駄に長い気がするし。。。

さて。環境認識の勉強をしていてもう一つ気づいた点がある。トレンドラインを引いていた時のことである。ブレイクにはダマシがあり、何によってか規則性の外にはねたとしても、いずれはレジスタンスよりも下にかえってくる。相場には本命の流れがあり、環境認識をする際にはそれをまず把握することが重要になる。どれがメインストリートで、どれがイレギュラーなのかを判断する。人はみな別々の道を行くが最終的には同じ場所に辿りつく、みたいな言葉があるでしょう?学習プロセスにおいても似たようなことを感じたことがあって、今回のFXにしても、みんなブログに書いてたり動画で喋ってることは違っても、メインストリートがあるなあって。最初は正解がどれかはわからないんだけど、イレギュラーを削ぎ落としてみると、同じ答えに辿り着いている人達には似たような傾向つまりはメインストリートを通っているような感じがある。早く目的地につくために細い路地に入ることを勧める人も中にはいる。何が言いたかったかもうわかりませーんww


気づいたら習慣化していたのでひと月という時間を長いと感じたりしんどいと感じなかったのだが、成果を感じられるのはいつになっても気持ちがいいものだ。今回の気づきが良いものなのかどうか定かではないがw

おーわりっ
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【日記】GW豪遊、そして切り替え

2017-05-06 21:43:57 | 日記

食べたいものを食べたいだけ食べて、酒を飲みたいだけ飲んで、気がすむまで騒いだ。お金と時間とエネルギーをフルに消費して、刹那的な快楽にひたすら向かい続けた。

それはもう紛う事なき刹那的な快楽で、それ以下でもそれ以上でもなく、文字通りなままの意味である。そこから生まれる何かがあるわけではないのでそのちょっとした時間の前と後ろで変わることも何も無い。

そのへんに放っておいた向上心と焦燥感を拾い上げてまた体内に戻す。以前より重みを増しているような気がして足がよろめく。後悔背徳感罪悪感も加わってなお重くのしかかる。

でもすでに意識は切り替わって快楽に向かおうとする心はすっかり鎮められている。

そこそこな年齢になってきた俺である。人生はきっとこういうサイクルの連続なのだろうと感じた。切迫感や焦りや使命感ばかりの日々から解放される瞬間は、短くとも訪れてくれるようになっていて、年を重ねるごとにその波を巧く乗りこなせるようになっていく。

昔から遊びと仕事をあまり明確に区別していない俺だ。物事は楽しいかつまらないか、合理的か非効率かで判断しているから、その呼称である仕事とか遊びとかいうのは単純な分類用の名称でしかない。友情や愛情とかも一緒で、呼称にこだわるから本質を見失うのだ。とはいえそんな俺も「働きたく無いでござる」の徒ではある。時間と労力を合成して金銭を得ているだけであり、その選択が合理的である以上は作業が苦痛だろうと働かざるを得ないだけなので、苦痛な作業をしなくて済むのであればそんなものは一切したくない。

遊びも同じで、相手に合わせることが対価に見合わないのであればそれは苦痛な作業である仕事と大差がない。もっと言えば、金銭を得るという長所がある選択肢に対して主に消費活動である遊びは仕事よりもタチが悪い可能性すらある。

このように、何を失い、何を得るか、で物事を見るようになると呼称なんてどうでもよくなるのは先述したとおり。そして何を得るかを重要視するようになると、学ぶことや知ることや記すことや磨くことに対する報酬回路が再配線されていく。言わずもがな、それは焦燥感や向上心の強さに比例して強化されていく。

稼ぎは少なすぎずあればあるだけ嬉しいが、自分の快楽追求度に見合う以上の過剰分を無理して稼ごうとは思うわない。少し余るぐらいで気づいたら貯まるぐらいあれば十分。必要なのはやる気と質だ。

誰もが快楽、あるいは幸福、または安心感だとか陶酔という同じものを求め、人間がそれぞれ自身の回路に従うだけである以上は、義務だとか倫理だとかを気にせずに好きに生きて良いものだと思っている。

相も変わらず主旨のわからん内容になりましたな。まあ日記なので問題無いか。

おーわりっ
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【日記】カードゲームの自作奮闘記

2016-10-16 15:40:13 | 日記

ある時舞い降りた衝動に身を任せて、ゲームデザインに思考を巡らす日々。



カードゲームを自作する。これは世間からすれば少し根暗な印象を与えるかもしれない。

用紙やカッターナイフやクラフトボードが散らかる部屋の一角に、背中を丸めてああでもないこうでもないとPCや書類やノートとにらめっこしている姿がそこにはあるのだから、まあ当然華やかではないよね。

とはいえ、素晴らしいものができるのであれば、そこには商業的なチャンスがあるわけで、落書きをする習慣や、料理を効率化する習慣が、その果てにイラストレーターや料理教室の講師という職に結びつくこともあるわけだ。ちなみにだが、俺自身は一儲けしようだなんてことは微塵も考えていない。

トランプのようなカードゲームは、四則計算さえできればほとんど一切の特別な能力をプレイヤーへ要求せずに興じれる遊びだ。これがTVゲームやスポーツだったらどうだろう?体力や運動神経のないものは除外され、TVゲームの基本知識がないものは除外され、さらにその中から好き嫌いも含めると、とても気軽に参加させられるような娯楽ではない。趣味や性格を問わずにできる遊びの中でもトランプは、ほとんど場所を選ばず、そして人を選ばずに遊べる。数字の概念と四則計算さえできればあとはルールを覚えるだけである。

トランプの優秀さには到底かなわないが、数行のテキストと少しのルールだけで誰でも遊べるシンプルだが、それなりの駆け引きを楽しめるカードゲームがあったらいいなと俺は思った。そこで、今回のカードゲームの自作に至ったわけだ。おそらくスパ帝さんの「ナショナルエコノミー」には歯が立たないが、あれよりもプレイする条件(テーブルが必要だとかチップが必要だとか)を減らして、とっつきやすいゲームを作りたいなと思って、カードセット一つだけあればできるカードゲームを考案中である。


とはいえカードゲームの自作なんてものはもちろん初めてやるので、試行錯誤の最中である。はっきり言ってかなり楽しいので、裁断機やラミネーターが手に入るのであれば欲しいと思っているほどだ、金がないので遠い夢だが。そう思うのも、プロトタイプの製作ができなければ、テストプレイにさえ辿り着けないのが非常に悔しい。できれば厚紙が望ましいが、ペラペラの紙に書いても良い。しかし手書きで、そしてカードサイズにリサイズというのはなかなか恐ろしい手間である。1日3時間の内職を1週間続けてやっとテストプレイできるプロトタイプが1つ完成するような手間だ。それならばハンコなり印刷機なり裁断機を買ったほうが、今後もやるだろうから何倍も得である。そこで俺は脳内でカードゲームのプロトタイプ作成を効率化するための方法を考え中である。

人力だが、ハサミなどの刃を固定する仕組みを作って、あとは紙をセットして刃を何度か滑らせれば2分前後でカードが8枚ぐらい作れる工作機械を設計するのもアリだ。

面白さに自信があるのであれば、毎日コツコツとプロトタイプなり本番用なりを作るのもありだが、先述したようにプロトタイプでのテストプレイを重ねなければ、面白そうなルールを思いついても一切それがわからないのだ。

PCの前だけでできることをいくら積み重ねても、カードゲーム自作の工程はテストプレイがメインだと考えている。ゲームは面白さが全てだからだ。

そんなこんなで執筆中だが時間なのでこのへんにて。

おわりっ。
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【日記】絵空と星空

2016-10-06 02:18:45 | 日記

台風が埃を洗い流したばかりの澄んだ星空。豪雨と暴風にめげなかった人たちを、労うかのように静かに煌めいている。


星々の地表がとんでもなく高熱だとか、猛烈な砂嵐が吹いているとか、恐ろしく寒いとか色々。俺たち庶民にとってそれは、TV画面の向こう側や、本や雑誌から以外は伝わらない。どう頑張ったところで「そうなのかもしれないね」って。

TVドラマ、映画、アニメ、漫画、小説、都市伝説、噂、妄想。日常には「そうなのかもしれないね」が溢れてる。

俺たちの頭上で瞬いて美しい星空は、確かにそこにあると実感する。絵空ではない星空が、そこには間違いなく存在している。



家の外で台風一過の夜空を見た。綺麗だった。働いた後の一杯目のビールみたいに格別だった。詩は書けないけど、この気持ちを言葉にしようという欲求が湧いてしょうがないので執筆。お洒落に韻とかふめたらイイのにね。



自然を守るのは良いことだ。でもそれが過剰になると何が大事だったのかわからなくなる。長い間俺は、緑の大切さがわからなかった。そびえ立つ高層ビルと蟻が作る蟻塚にどれだけ差があるのかわからなかった。人間も自然から生まれてる。自然から生まれた人間が作るものもまた自然のモノではダメなのだろうかとよく疑問に思っていた。俺は馬鹿なので最近やっと気づけた。植物達は、地球上にあるもののうちで消費しているのは水と土壌の栄養だけなのだということ。それも、自分の根が張ったところにあるものだけで生きていく。それ以外は太陽光だけ。

人間と違うのは、植物が地球内部のエネルギーをむやみやたらに消費しないということだ。植物達は地球の外からエネルギーを得ている。対して人間は、地球内部のエネルギーを枯渇するほどにまで使おうとしている。人類の抱えるエネルギー問題は深刻を極めている。害が少なく利用が容易なエネルギーを求めている。永久機関があれば万々歳だ。そこで植物達、または木々達だ。ソーラーパネルも良いかもしれないが、あれは本来土に降り注ぐはずの光を遮ってしまっている。クリーンで害のない永久機関とは植物達のことだ。管理なんざしなくとも勝手に増殖して巨大化していく。

花が咲き、招かれた虫が集まり、餌にする鳥が集まり、その種が胃袋で運ばれ、果実を食べる獣達も増え、土壌に降りた栄養は川に混ざり、その先の海に流れ出る。

そのシステムを人類のメインに据えるとしよう。おそらく人類が住める場所は半分以下になるよね。



ってそんな話をしようと思ってたわけじゃないんだよぅ!

太陽光をエネルギーに変える植物と、星空に心を打たれてこうして文章を書く人間(俺)とでそんなに違いがないんじゃない?って話をしたかったのよ!!

ろくな日記じゃないね☆

おわりっ
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