安藤の背中が熱くなってきた。審判の時はもう間近に迫っている。5連続コーナーをもうすぐ向かえようとしているのに、いまだオースチンを引き離すことはできなかった。
それどころか自分の動きは完全に読まれ、オースチンに影法師のように後ろに付かれている。あの若いドライバーは前回よりもあきらかに一段階上のドライビングをしていた。
先程までの登りのぎこちない走りから一転して、なぜここまで急変できたのか。安藤には何がどうなっているのか理解できず、引きずったままここまできてしまった。
あの若造は、それこそ若さに起因するであろう伸びシロを、真剣勝負の最中でも目に見えてわかるほどに成長を遂げてきた。自分にない腕を持っていながら、なお走りの中で、さらに新たな力を身に付けていくことに嫉妬さえ覚えた。
とはいえ安藤もこのまま指を加えて、その時を待つだけというつもりもない。相手が雨後の若竹のように成長していくならば、自分もこれまでに培った経験と技術からなる、老練なドライビングテクニックを駆使して、相手にのしかかり、一時的でも成長を止め、さらには凌駕するつもりだ。
下りに入ってから思い通りの走りでなかったとしても、好き勝手に後ろに付かせていたわけでもない。悪いなりにも来るべき時に向けてのタネは蒔き続けてある。
後方のオースチンに見せつけるように、イン側のスペースをコーナーごとに少しづつ広くしており、今は半車体ほどになっている。
これはタイヤのグリップが厳しくて、しっかりとインに付けないところを見せるためのフェイクだ。ロータスのタイヤがズルズルとグリップを失っていくであろうことを考慮し、5連続コーナーの前でオースチンは仕掛け、あとは一気に5連続コーナーを使って撒くってくる算段であろう。
そのタイミングで温存しておいたタイヤのグリップを目いっぱいに使ってインを締め、必要以上のブレーキングをオースチンに掛けさせれば、5連続コーナーを有効に使えるほど加速は戻ってこない。
オースチンがロータスのリズムで走ってくれているのも好都合だった。染み込んだ馴れは咄嗟に別の動きをしようとしても、身体が付いてこないことが往々にしてある。あとはエサ(ロータス)に喰い付くサカナ(オースチン)を静かに待つだけだった。
――自分にない武器なら、使えないようにすればいい。それが対面レースでの闘いだ。さあ、引っかかってきやがれ――
高まる歓声と、クルマの走行音が八起の耳に届き出した。もうすぐ5連続コーナーに出てしまう。先入観を持つことはいけないが、5連続コーナーに入ってしまえば最終コーナースタンドから一望できるため、誰にも気付かれずコースに何か仕掛けるのは不可能だと踏んでいた。
――とすれば、その手前のコーナーまででギリギリか――
もう後戻りはできない。コースラインに目を凝らし、タイヤに伝わる普段ならない変化を感じ取らなければならない。一定のスピードを保ちながらも広い範囲を調べなければならないために、ウォームアップランの時におこなうジグザグ運転をする。ステアリングを握る手に汗が滲んでくる。
最後のマーシャルポストが見えた。もうダメだと八起は内心でホゾを噛んだ。マーシャルがいる所で何かを仕掛けるなんてことは不可能だ。
――見逃しちまったのか。オレとしたことが。これじゃあボスに顔向けできねえ――
万事休す。しかめっ面の八起の目に、マーシャルの動きが挙動不審に映った。何度もこちらを振り向きポストに向かって走っていく。
『ザザッ』
その時ほんの小さな、それこそ微細な感触があった。タイヤから腰に伝わる微動から不安定な動きを捉えた。いつもコースを回るスピードなら直ぐにわかったのだろう。今日のように慎重に走ってコースを確認しているため、逆に捕らえづらく見逃してしまうところだった。
首筋の辺りになんとも気分の悪いモヤが立ち込める。八起はまだクルマを止めずトロトロと流していた。本当にここでいいのか、この先ではないのか。もしここではなく、この先であれば自分は重大な失態を犯すことになる。
先程から耳に届きはじめた2台のスキール音が次第に近づいてくる。クルマを降りて確かめていてはもう間に合わないタイミングだ。ようやくマーシャルポストに位置したコースマーシャルの顔を伺う。
この状況になればすべてを疑ってかかって見えてしまう余計なバイアスがかかる。なにか怯えたような表情にも見えるし、マーシャルカーがこのタイミングで走っていることに何の疑問も持たず、確認をしようとしないのも変だ。
早くこの場から去って欲しいと思っているのか。八起は腹を決めるしかなかった。ステアリングを切り、コースの奥にクルマを止める。見上げたバックミラーに2台のクルマが迫っていた。
「間に合うのか?!」
リズムを刻んでいたステアリングを握る人差し指がピタリと止まって、ナイジの左手が伸びてくる。呼応するマリも素早くギアを滑らせる。3から2速へゲートに沿って瞬時にシフトダウンすると、ブレーキングと共にノーズに荷重がかかり後輪からは抜ける。
行き場を失った車重はリアを外側に押し出し、ナチュラルオーバーステアを保ちながら、インのギリギリを見据えてオースチンはコーナーに飛び込んでいく。
マリも会心のシフトチェンジにしてやったりの表情だ。これまでにないスピードでオースチンはロータスに襲い掛かっていくと、今度はロータスの動きがスローモーションに見えた。
――周りの動きがゆっくりと動いていく。あの時と同じだわ――
ロータスは段々とイン側が苦しくなり、インに着けなくなっている。そこに飛び込むオースチンを遮れない。ナイジの頭の中ではその算段だった。が、次の瞬間ロータスは吸い付くようにインを押さえ、ブレーキライトが目を覆い尽くす。
「くっ!」声を漏らすが、ロータスのオトコにハメられたことを悔やんでいる暇はない。すぐさまステアリングをソーイングしてノーズをロータスの外側に向ける。
一度切り角を決めたステアリングを緩めるには勇気が必要だ。どれほど戻せば次のプランに即したラインに乗せることができるか、そしてコーナーをクリアし加速できるポイントに持っていけるかを読み解かなければならない。
ロータスとの位置関係を見ながら瞬時に決断を迫られた。ほんの少しステアリングを戻しただけでも、クルマにかかるヨーイングとともに予測より大きく外側に振られる。ところがピタリとイン側に付いたロータスは、やはり堪えきれないのか、クリップに付く前に外側へ膨らんできた。
それを逃すナイジではない。少し外に振ったステアをキッカケに、蛇角を与えカウンターをあてると、テールが流れた状態のオースチンは、上手い具合にコーナーの中ほどでノーズがインを向いた。
「なっ?!」再び、ナイジが声を上げる。そこで初めて何故インに付いたロータスが外側に膨らんできた理由を知った。タイヤが厳しかった訳でも、安藤がミスした訳でもない。マーシャルには見えない私服の男がコースに半身を出してオイル旗を振っている。
「どうして今頃、オイルだとっ!」
安藤は後ろのオースチンを待っていた。最終5連続コーナー直前のコーナーに差し掛かる時、これまでより広くインを開けた。当然のようにして勝負を掛けてきたオースチンはそこを突いてくる。
「喰いついたっ!」身震いをして、安藤はインを締めにかかる。
いけるはずのスペースを消されて、必要以上のハードブレーキングをさせ、立ち直りを遅らせる。そのタイミングはピンポイントしかない、遅すぎればインにノーズをねじ込まれ、早すぎてはアウト側から被せられてしまう。
狙い済ました僅かな刹那をつくと、これ以上とない瞬間を制した。オースチンのドライバーに煌々と照らされた赤いテールランプを拝ませる。
しかしオースチンはスピードを殺さない。ブレーキを選択せずにステアリング操作で外に振り、ロータスをかわしにかかる。
「へっ、悪あがきしてもムダだ。もっと外に追い出してやるぜ! うわっ!!」
左側のシート座る西野は、なぜ、安藤が奇声を発したのかわからない。右側の安藤にはクリップにつくはずの場所に、マーシャルとおぼしき男が旗を振っているのを先に捉えていた。
もっとも先に西野が見つける機会があったとしても、恐怖のためほとんど正面を見ることができていない西野の目にそれが止まることはなかっただろう。それほどまで今日の安藤のドライビングは烈しく、厳しく、そして速かった。
「今頃オイルだあ? なにやってんだっ!!」
怒鳴りながらステアリングを修正する。ライン変更を余儀なくされるが、イン側を保ったまま必要以上にアウトに膨らむまいと、スレスレのラインを通過していく。振りかざすフラッグにサイドミラーが擦れ合い、オイル旗は弾き飛ばされ宙を舞った。
続いてインを差してきたオースチンも同じようにリアをブレイクさせアウトに追いやられるところを、カウンターを切った体勢で踏ん張ろうとする。
ナイジの目の先でロータスが横を向いていく。ドライビングシートの安藤はナイジに一瞥をくれ、不敵に先を見た。助手席の西野は頭を抱え込んでいる。
行く手を塞がれた状態のオースチンは、ロータスに合わせて車体を横にするしかない。急激なステアをあて、リアタイヤを滑らせて、ロータスにぶつからないように車体を並行に持っていく。
マリにはもうなにがどうなっているのかわからない。目の前の景色が右から左へと凄いスピードで流れていく。普段目にすることない景色の動きと横からの重力に目が回り、意識が飛びそうになる。
最小限のタイムロスで押さえる手立てを打つナイジは、すかさずクラッチを切り、ギアをニュートラルにもどすためにシフトノブに手をかける。目を閉じてしまっているマリは、ナイジの手が触れてもどこにギアを入れるのかわからない。
ナイジの手が触れてギア操作を求められていることを知る。「あっ」
「まだ終わりじゃないっ!」ナイジは無理やりギアをつかむ。痛みは感じない。アドレナリンが痛みを消している「1に入れるぞ」
正面を向いた時に、ここからヨーイドンのゼロスタートとなる。1速でスタートダッシュするためにギアを入れておく。「はいっ」
二台はそうして縦列駐車の態勢でコースを横滑りしていく。そのまま5連続コーナーにアタマが向くやいなやスロットルを踏み込む。アウトにオースチン、インはロータス。もはやどちらが有利とかはなくなっていた。
最終コーナーのスタンドに陣取る観衆は、いったい何が起こっているのか訳がわからなかった。2台のクルマがコーナーのブライドから、横滑りで出てきたと思ったら再び加速しはじめた。そんなアクロバティックな走行を目の当たりにし、大騒ぎの拍手喝采だ。
一方ホームストレートの観衆には何を盛り上がっているのかわからない。ようやく5連続コーナーを並走してくる2台のクルマが目に入ってきた。コーナーごとに加速してくるのが手に取るようにわかり、加速の勢いのままフルスロットルで立ち上がってくる。爆発する歓声。
「いったいどうなるんだ」「ストレート勝負まで続くのか!?」
甲州ツアーズのピットやガレージ屋上も気が気ではないながらも大盛り上がりだ。
それに反して出臼は舌打ちをする。――アイツ、失敗したな――