private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

継続中、もしくは終わりのない繰り返し(駅までの経路2)

2024-11-10 17:13:52 | 連続小説

 何となく嫌な予感はしていた。
 その人は足を痛めているように見えた。つり革を持つ手に必要以上の力が入っているのが目に見てわかる。電車が左右に揺れるたびに、カーブの前でスピードを落とすとき、そして曲がり終えてスピードが上がるときも、カラダに自重以外の負荷がかかると、バランスを崩さないように腕に力がこもっていた。
 本当ならつり革ではなく、手すりに寄りかかった方がカラダを支えやすいはずだ。あいにく別の人がその場を占拠し、反対側の奥のドアの手摺には傘がかかっていた。隣に立っている人の持ち物だろう。
 朝の車内は見かけた顔が多い。そこここに座っている人も日々同じ顔ぶれで、それぞれが自分の指定席を持っている。
 電車に乗り、自分達がいつも座る席に見かけぬ人が座っていると、玉突きのように座る場所が変わっていく。整然とした車内の秩序は乱れ風景は一変する。
 アオイは自分がそうなった場合は、まずはプランBとして座る場所を変える。座るところがなければプランCとして、立つ場所をドア横の手摺りにするか、連結の入り口にある手摺にするかを選択するといった具合だ。
 今日は秩序ではなく、アオイの心が乱れた。アオイは今日も同じ席を確保していた。いつもと違っていたのは目の前に、足を痛めてそうな人が立ったことだ。
 アオイが座っているのは横に長い10人掛けの一番端、ドア横の手摺りの隣りだ。降りる側のドアに近いので、そこをメインポジションにしている。足を痛めている人も多分同じ理由なのだろう。
 見かけない顔なので常客ではない。何らかの理由でこの電車に乗り合わせた初見さんだ。もしくは今後は同じ時間と空間を共有し、秩序を守る同志となるかもしれない。
 アオイの心が乱れているのは、席を譲るべきか、そうしないでおくか決めかねているからだ。この人が前に立った時からそれははじまっていた。
 それは結局のところ、自分がどうしたいかだけなのに、決断に至る理由が見つからず、自分の中で堂々巡りをし続けて、脳の動きが衰えていく。
 この人は席を譲って欲しいのか、そこから考えはじめてしまうアオイであった。もしそうでない場合、譲った立場がなくなり、再び座り直す訳にもいかず、その場で立ちすくんでしまうだろう。その後の展開がイメージできない。
 快く座ってもらえた場合、近くで立っていても、話が弾むわけでもなく、何か見返りを求めているようで居づらくなるだろう。そんな状況になれば自分の居場所がなくなってしまう。
 そうなってしまった時の収まりどころのない自分をまわりに晒したくない。小さな自分を守るのに必死になっている。自分がそうしないことの理由を探して、同時にこの状況下で何もできない自分を赦したかった。
 まわりは皆な、多分寝た振りをして目を閉じている。普段なら新聞を広げている人も、新聞をヒザに置き目を閉じていた。アオイも普段なら降りる駅までは、目を閉じているので気づかなかったはずだ。
 見えていない世界で何が起きても自分には何の影響も与えない。目にしたとたんにそれについて何かを考えなければならなくなってしまう。
 アオイは見るでもなしに前に立った人の足元に目をやったところ、右足を少し宙に浮かせ、左足だけで支えているように見え、その人の顔を見たときに目が合ってしまった。
 次は複数の路線が集合しているターミナル駅で、大勢の乗降客がある。せっかくの席を譲れば、しばらく満員の中で立ち続けることになる。
 それはこの人にとっても同じで、アオイが席を譲らなければ立ち続けることになるだろう。席を譲るなら今しかない。駅が近づいて来るにしたがって、気持ちばかりが追い立てられていった。
 考え出したら動けなる。瞬発的に動かなければ何もできない。脊髄反射だった。咄嗟に立ち上がって声をかけてしまった。声は裏返っていた。
 その人は困った顔をして首を振った。続いてつり革を持つ反対の手で制止してきた。その瞬間で顔がカーッと赤くなった。恥ずかしかった。まわりの人が全員が、自分を見ているようだった。そして想像通り、断られたとはいえ、また座り直すわけにもいかず、その人の横に棒立ちしている自分がいた。
 善意であれば、相手は必ず喜んで受け入れるわけではない。この人にも事情があり、100人が求めたものを、この人が求めているとは限らない。
 そして最大の問題点は、アオイが自分の本心ではなく、善行をすることを自分に強要したことであり、そうすることで身を軽くしようとして、中途半端なまま自我を貫き遂行してしまったことだ。
 それが一転、困ったように拒まれて、善行は悪行までは行かなくても、十分にはた迷惑になってしまった。アオイはその急激な落差についていけず、体内でも一気に体温が上昇し、そして見る見ると急降下していった。
 駅に着いて大勢の人がなだれ込んで来た。席が空いているのを目ざとく見つけた人が、ふたりを押しのけて座席を確保した。その人は顔を上げようともせずにすぐに寝たフリをした。
 すぐにふたりのまわりは人で固められ身動きがとれなくなる。さっきまで赤の他人で、近くにいても何の気遣いをする必要のなかったふたりは、今では気まずい雰囲気の中で、お互いを意識しなければならない存在になっていった。
 何となく嫌な予感はしていた。
 いつもより家を出るのが遅れたショウは焦っていた。出掛けハナに母親に用事を言いつけられた。預けてある保険の証書を準備しておいて欲しいと言われた。
 急がなくてもいいと言われたが、それをどこにしまっておいたか、すぐに思い出せない。そういう頼み事は休みの日にとお願いしていても、気づいた時に言わないと忘れちゃうからとか、今日じゃなくて休みの日でいいからと、だいたい朝の出かける間際に言ってくる。
 せめて前日に言って欲しいと伝えるも、そもそも帰りの遅いショウとは時間が合わない。メモに書いて置いておけばと提案しても、それぐらいのことも面倒なのか、どうしても口頭で伝えてくる。
 それはふたりのあいだにコミュニケーションが減ったことへの、本能的な行動なのかもしれない。どのみち仕事から疲れて帰ってきて、テーブルにそんなメモが置いてあったら、それはそれでげんなりするだろう。そんな夜の遅くに探し物をしはじめる気にもならないはずだ。
 どちらにせよ在処がわかっていれば、それほど時間もかからないことも、仕舞ってから数ヶ月後ぐらいに、ポツンと思い出したように言って来られると、どこに仕舞っておいたのか、思い出せないことはよくある。
 金融関係なので今回は目星はついている。ところが以前にそう思って探した時に、どうしても見つからず、他の案件の場所もひっくり返して、見直ししても無かったことがある。念のため母親の片付け場所を探してみたら、そこにちゃんと仕舞ってあった。
 その時の損失時間やら、徒労感は思いだしただけでも腹立たしい。母親はあっけらかんと、ああここに仕舞っておいたのね。と笑った。そんな経緯もあり、なるべく早く解決したかった。このまま仕事に行っても、気になってしまい集中力が削がれそうだ。
 思い当たるファイルブックを取り出し、ペラペラとめくっていく。なんの書類か分からないものが、幾つもファイリングされていた。
 開ける度に整理しなければと、その時は思っても事が片付けば、またいつか時間を作ってからとファイルを戻して、そのまま放置されたままだ。
 今日もそうであり、そういった日々の積み重ねが、最終的には急いでるところで大切な時間を奪っていく。ようやくお目当ての証書が見つかりホッとする。
 時計を見るといつも家を出る時間より2分過ぎていた。慌ててクリアファイルに入れてテーブルに置いたあと、イヤイヤと首を振る。
 母親に声をかけずに置いておけば、見ていないなどと言われて紛失の元だ。部屋まで行って声をかければ、ますます家を出るのが遅れてしまう。取り出したファイルブックにクリアファイルごと戻して、元ある場所に戻し急いで家を出た。
 遅れを取り戻すべく、少し早歩きで駅に進む。駅までの所要時間は歩いて8分なので、少し急げば間に合うはずだ。ショウは駆け足をはじめる。
 普段なら走って駅に向かう人を見ると、時間管理がなっていないズボラな人に見えるため、自分が急いでいる姿を人目に晒したくはなかったが、今日はそんなことを言ってられない。
 急いで家を出ると、そのあとで色々な心配事がアタマをよぎる。冷蔵庫の扉を締め忘れていないか、水を出しっぱなしにしていないか、灯りは全部消したか、コンロの火を消してガスの元栓を閉じたか。
 こういう時に限って何ひとつ記憶に残っておらず、思い出すことができない。心配は募っても早まる足は止まらない。きっと大丈夫と、なんの確証もない安心感を植え付けようとする。
 家には母親がいる。何か忘れていても対処してくれるはずだ、、 火の消し忘れ以外はと、新たな心配事を作ってしまう。
 時計を見る。なんとか電車に間に合いそうだ。それでも歩みは緩めない。少し汗ばむ。朝から下着を汗でぬらしたくはないと少しスピードを落とした。そして目の前が真っ暗になった。
 ショウは、あっと声をあげて地面に伏せていた。右ヒザに激痛がはしった。すぐにまわりを見る。幸い誰もいない。側溝のミゾのわずかな段差で躓いていた。
 早く立ち上がらなければと急いだ。こんな醜態は急いで駅まで走る以上に、絶対に人に見られたくはない。ましてや誰かに手助けされるなど絶対に嫌だった。
 右足では踏ん張れなかった。左足を曲げて両手をヒザにつき何とか立ち上がる。スラックスは破れてはいなかったが血が薄っすら滲んでいた。
 恐る恐る右脚を前に出す。やはり力が入らない。仕方なく左足を軸に、右脚を引きずるように前に出す。自分では目立たぬようにしていても、周りから見ればぎこちなく歩いているのが一目瞭然だろう。
 あのとき間に合うとスピードを緩めたばかりにと、後悔しても時は戻って来ない。せっかく挽回した時間も吐き出してしまった。もう間に合わない。駅に着いて、いつもは使うことのないエレベーターを待った。
 自分のような若者がエレベーターなど使えば、周りに楽をしていると見られるだけで、使うことはこれまではなかった。幸いショウ以外に待っている人はいなかった。
 エレベーターに乗り込みホームへのボタンを押した。いつも乗る電車は行ってしまった時間だ。歩くスピードも考慮して、会社に着く時間が10分から15分は遅くなってしまう。会社に着いてからの、しなければならない優先順位を変えなければとアタマを動かす。
 ホームに着くと、すぐに次の電車が進入してくるところだった。ツイている。これなら5分ぐらいで何とかなりそうだった。まだ天に見放されたわけではないようだとショウは電車に乗り込む。
 座席は全て埋まっていた。いつも乗る電車ならば、座ることができたのに、一本違えば顔ぶれも変わり、座席はすべて埋まっていた。
 座りたい気持ちもあるが、ヒザの曲げ伸ばしで痛みが出る。座ったり立ったりに時間がかかりるし、座ってもヒザを曲げられそうになく、足を投げ出していては、満員になったときにまわりの客に迷惑だ。
 そう思うと席に座るより、このまま立っていたほうが負担がない。立っていても右脚に力を入れなければ痛みも少ないので支障はなかった。
 方向性が決まり、気持ちも落ち着いたところで、視線を感じ思わず目をやってしまった。目の前に座っている人と目が合ってしまった。
 すぐに目を切ったが、その人は何か収まりが悪いように見え、ショウはすぐに悟った。席を譲ろうかとしているのだ。声をかけられるのは避けたいが、場所を移動するわけにもいかない。もうすぐ電車は駅へ着こうとしている。
 突然その人は立ち上がった。どうぞ。アシ、イタイんですよね? 上ずる声でそう言った。
 足を痛めている人に、席を譲らなければならないという道義心だけが、この人を突き動かしているようだった。そのために想像力とか、思考は停止し、このまま受け入れられること以外が発生した時に、対応できなくなっていた。
 ショウは空いている右手で目を覆った。そのまま首を振った。言葉で拒否することができなかった。拒否のゼスチャーだと理解されないといけないので、席に戻ることを促すために手を振った。
 その人は完全に浮足立っていた。顔が赤らみ、この先の身の振りどころを見失っている。それはショウも同じだった。何も起きて欲しくなく、そっとしておいて欲しい時に限って、思わぬところから横槍が入る。
 それが善意から来ていれば、文句は言えない。それを呼び込む弱い自分を晒した代償だ。ふたりは次の駅まで身動きが取れないまま、やり過ごさなければならなくなった。
「スイマセンこんなことになっちゃって」なにか話さなければならないと、ついそんな言葉が出てしまった。
 車窓からは線路と垂直に伸びた商店街が見えた。それもいつもなら目にすることのない風景だった。秩序が乱れていた。


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