何となく嫌な予感はしていた。
傘を手摺に引っ掛けたまま電車を降りようとした人がいる。
急いでいるのか傘のことを忘れているのかと思い、勇気を出して声をかけた。声は上ずっていた。
知らない人が周りにいる中で、知らない人に声をかけるのは初めてだった。カーッとアタマが熱くなっていくのがわかる。慣れないことをするものではない。
その人は降り際に驚いたように振り返った。そして首を振った。それは自分の傘ではないと言っているはずだ。
そして悲しそうな顔をた。それでまたアタマが熱くなった。どうすればいいのかと、少しパニックになりかける。親切心がアダになったようだ。
そんな経験はなんどかあった。それなのに、止めておけばいいのに、言わなかった時の負荷を考えると、つい口に出てしまう。
気づいたことを言わなかったために、相手のその後の不幸を考えると、自分の所為でと考えてしまう性格だった。
でもこれではその人のためではなく、自分のためにお節介をやいているにすぎない。
その人も自分の傘でないならば、無視して降りてしまえばよかったのに、親切心を放って置くことができなかったのか、もしくは傘を置き忘れた間抜けだと、まわりに思われるのが嫌だったのか。
いずれにせよ降りる手前で止まったため、乗り込んでくる大勢の乗車客の波にのまれ、反対側のドアまで押し戻されていった。
何かしてはいけないことをしてしまった申し訳なさだけが残った。自分の間の悪さに情けなさが募る。自分が楽になるために誰かを苦しませてしまった。
何となく嫌な予感はしていた。
シンがこの電車に乗る前からカサがそこに残されていた。シンよりあとに乗ってきた人から見れば、シンがカサを手に持っているのが億劫で、手すりに引っ掛けていると思うだろう。
乗車客の多い駅で降りなければならないシンは、いつもドアの近くの隅、座席の真横に陣取って立っている。
電車での移動をはじめたときに、ご乗車の方から奥に進んでくださいというアナウンスにしたがって素直に奥まで行ってしまった。
電車に乗ろうとすると、やたらと指示を受ける。
やれ、黄色い線の内側を歩け。ホームに入る電車に気をつけろ。駆け込み乗車はするな。必要とする人に座席を譲れ。電車の中は静かにしろ。モノを食べるな。聖人君主になれ、、
そこまでは言われないが、ありとあらゆる人の行動を制限しようとしているようだったる。
どれも社会生活をするうえで当たり前のことで、人に迷惑をかけないようにと、親から厳しく言い聞かされているシンにとっては守って当然の行為だった。
ただ、それを駅から駅のあいだ、際限なく繰り返し聞かされると気持ちが滅入ってくる。
それはそんなにも常識を守らない人がいる裏返しであり、刷り込みのように言い続けられると、却って反発したくなるなるのではないかと心配になる。
それに注意が多いと言うことは、それだけ守らない人が多くいる証であり、そうであれば自分ひとりぐらい守らなくてもいいのではないか、そこに大義名分があればなおさらで、そんな人間心理を増長させると聞いて事がある。
小心者であるシンはそんなことは出来はしない。その時もいいつけ通り、車両の奥で降りる駅を迎えた。そして当然のように降りない人の壁に阻まれて身動きが取れない。これでは声をあげて道を開けてもらうしか降りられない。
アナウンスは乗るときは奥へ行けと言っても、降りる時に奥の降りる方のために道を空けて下さいとは言わない。黄色い線の内側を歩いても、駆け込み乗車をしなくても、、 エトセトラ、エトセトラ、そこは自己責任に転嫁されるようだ。
狭い隙間にカラダをねじ込んで、スイマセン降りますと、アタマを下げながら通ろうとしてみた。
降りるんならこんな奥に居るなよとばかりの冷ややかな視線や、時にはあからさまに今から降りるのかと強い口調で言われた。放送の指示通りにしたのに、、
道半ばでドアは閉じられた。乗車の群集でドア周りは固められていた。強靭なラグビーチームのスクラムを一人で押しのけることはできない。
かくして車両の奥にいたために降りられなかった世間知らずでマヌケ面を大勢のひとに見られた。気まずい空気の中でひと駅やり過ごすことになった。
自分が迷惑をかけた認識もないのに、ことごとく周りからは存在自体を否定されているようで、そのたびに自分の不甲斐なさで気が滅入る。
ここでもまた、人に迷惑をかけないようしていたのに、露骨に邪魔者扱いされ、知らなかった無知と、公共の呼びかけに馬鹿正直に従ったゆえの失態を受け入れることになる。
何か自分は元々そういった負を背負って生きなければならないのか、どれだけ自分としては、まともな行動をとったとしても、まわりからはそのように見られないことが何度もあった。
同じようなことは過去にもあった。このあいだなど、駐輪場を出るときに、取り出した自転車を通路に一旦止めて、サイフの在処を探していた時、どこに入れたのかと、ポケットやらカバンやら、いろんな場所に手を突っ込んでいたら、見知らぬ人にこんなとこに止めるのかと嫌な顔でたしなめられた。
最初は何を文句言われているのか分からなかった。どうやらそれは、奥の空いている場所でなく、出口に近い通路に自転車を止めようとしていると思われたようだ。通路に置かれている自転車は他にも数台あった。
シンは駐輪場から出るところで、探し物をしているだけだと言いたかったが、言葉が出てこなかった。なによりコチラの言い分も聞かず、見た目だけで通路に自転車を止める人間だと思われたことがショックだった。
結局それを即座に否定しきれず、スイマセンとアタマを下げて駐輪場の外に移動した。その人は未だ憤懣やる方ないといった感じで、フンッと鼻息荒く自転車を止めに行った。
我は物言えぬ庶民の代表であり、悪人を退治した英雄気取りだろうか。うがった見方をすれば、あの人は今日こんなことがあったと、家族や知り合いにのたまうのだろう。自分がそこにいなくても、自分が貶められている想像が繰り返される。
次の駅ではさすがに気の毒に思ったのか、まわりが気づかいしてくれて道を作ってくれたおかげで降りることができた。そんな経験を経て、それ以降はドアに近い場所を確保するようになった。
今日は朝方に一時激しく雨が降っていた。今はもう止んでおり、朝日も零れている。早朝の雨の中に出かけたひとが降りる時には止んでいたため、引っ掛けておいた傘の存在を忘れて降りてしまったのだろう。
自分がその立場なら、あっという間に忘れ去るだろうと思われることへの共感で、この状況下では逆に気になって仕方なく、カサのことばかり考えている。
普段からそうであれば、忘れ物などしなくなるはずで、そうであれば、いまのシンのように忘れ物以外の思考がストップしてしまい、それはそれで様々な支障を及ぼすだろう。
そう思えば忘却は理にかなっているのか。手から放たれたモノは、その時点で自分の所有物では無くなってしまうと仮定すれば、そうした忘却が新しい叡智を生み出してきたのかもしれない。
そんな思いにふけっていると、次の駅に到着するアナウンスが流れ出した。
シンはカサを見ないように、さりげなくドア脇から横にズレて行き、降りようと並んでいる人の後ろに付いた。そんな行動は余計に怪しまれそうであっても、カサを凝視しながら場所を移動するよりはマシだろう。
車窓からホームが見えてきた。今日も大勢の乗車客が、エサを待つ野獣のようにして待ち構えている。少なくともシンにはそう見えた。ドアが開いてモタモタしていれば乗車客に丸呑みされてしまう。
最初の頃に、降りたあと立ち並ぶ群集を前に、どこを進もうかとオロオロしていたら、乗る人達のジャマになり舌打ちを食らった。ドアの隅から横手に降りていくお作法を知らなかった。
電車がホームに侵入し、スピードを落とし停車の準備にはいる。カサとの距離も自分の持ち物と思われないぐらい十分とれた。電車が止まりドアが開こうとするとき声をかけられた。
心臓が跳ね上がる「傘、忘れてますよ」。震えた声が届いた。
シンは無視すればいいのに振り向いてしまった。向こう側で座っていた人が心配そうな顔をしてカサを指差していた。同時に大勢がシンの方に目を向ける。見なければ良かったとすぐに後悔する。
その人の身になれば、傘を忘れて電車を降りようとする自分を気遣い、勇気を持って声をかけたのだ。それを無視することはシンには出来なかった。
その一瞬の躊躇が命取りになった。
怒涛の如く乗車客がなだれ込んできて、シンはあっという間に反対のドアまで押し込められた。降りますと声を出すことができない。これまでと同じだった。
今さらそんなことを言い出しても多勢に無勢、どうすることもできない密集の状態の中で、通り道を空けてもらえるとは思えない。シンは約束の時間に間に合わなくなるかもしれないと心が痛んだ。
次の駅は押し込まれた側のドアが開いたので、そのまますんなりと降りられた。カサのことはもう忘れていた。それを指摘してきた人のことも。
急いで反対側のホームに行くために階段を駆け上がった。普段の運動不足も響いて半分ぐらいで息が切れてくる。登り上がった通路の窓から、新旧混在した建物が立ち並ぶ商店街が目に入った。
上から見るその風景は、カラフルな屋根と、古い甍の波が散りばめられたちょっとしたテーマパークのようにも見えた。ひと駅すぎるとこんな場所があったのかと、一瞬だけ気に留めて今度は階段を駆け下りる。
反対方面に向かう電車はまさに出発するところで、大きな警告音と共に、駆け込み乗車はおやめくださいとがなり立てている。
シンは心が怯んだ。自分の利益を優先するために、公序に逆らおうとしている。それでも待っている人のために急がなければならない。
降りた客が階段を上って来る。数人だがその人たちをかき分けて進む。スイマセン、通りますと声を出す。そんなことこれまでしたことがなかった。
ホームに着く。ドアが閉まりかけていた。シンは駆け寄った。ドアの前には駅員がいてシンを止めようとする。シンは制止する駅員をすり抜けて、閉まろうとするドアに手を突っ込んで無理やりこじ開ける、、、
シンは止まっていた。そんなことはどうしたってできなかった。駅員がそれでいいとでも言うように微笑んでいた。シンは愛想笑いして息を整える。目の前を電車が走り出していった。
「あの、、 」そんなシンに声をかける人がいた。振り返るシン。それは自分にカサを忘れていると声をかけた人だった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます