アオイはショウとは目を合わさないままに、小さな消えゆるような声でそう言った。走行音や、社内アナウンスの中で何とか聞き取れるほどの声だ。アオイの耳元に口先を近付けて、これまた小声で返答をする。
「いえ、せっかく譲って下さったのに、こんなことになってしまい、こちらこそ申し訳ないです」
見知らぬ人とこんな会話をすることになるとは思いもしてなかった。特異な状況下で何か言わなければと口を突いた言葉だ。ショウは周りには会話を聞かれたくはなかった。
電車の中で会話をしている人をたまに見かけ、内輪話しで盛り上がったり、どうでもいい話しが耳に届くと辟易する。聞かなければいいのだが、一度気にしてしまうとそこから離れなれなくなってしまう。
たまに込み入った話しをする人もいて、知らない人が聞いているかもしれないのに、そんな話しがよくできるものだと感心してしまう。
まだ合って間もないと思われる人達の、ぎこちのない会話を聞くのは、その中でも苦になった。様々な理由の中で、行動を共にすることになった人たちの、お互いに気を使ったやり取りがもどかしい。
どんなことに興味があるのか、ないのか。何が好きで、何が嫌いなのか。当たり障りない質問を繰り返しては共通点を探し当てようとする。
どちらかが話しはじめると、無難な相づちを打ったり、必要以上に共感することもあり、一瞬盛り上がったりもする。それなのに胸の内では次に何を話そうか、多分そのことばかりを気にしているような、会話自体には何の中身もないやりとりが続いて行く。
とにかく一緒にいるあいだに、妙な間ができないようにするためだけの会話だ。奇跡的に共通の趣味や、関心事があれば幸運だ。一気に楽しいひとときに変わり、降りる駅があっという間に来たりする。聞いてる方もそんな人達からの呪縛から解き放たれる。
シュウがそういった気持ちでその人達をみているのは、自分も同じ状況に陥るからであり、そのような状況にならないようになるべく配慮してきた。突然降りかかった久しぶりの状況に気持ちが焦っていた。
実は出かけに躓いて、足を怪我してしまいましてね。と言おうかとして思い留まった。距離を詰めるために自分の失敗談を話すのは常套手段ではあっても、そこまでする必要はないし、なにより何の関係もないまわりの人たちに聞かれてしまう。
そういったことを考慮せずに口が軽くなってしまうのは、まさに不穏な関係性に耐えきれず、自己開示をしてしまう失敗例となる。自分の弱みをさらけ出し、チキンレースに負けてしまった結果だ。
「わたしは、どうも間が悪いというか、思い込みが激しいらしくて、、」そうアオイが口にする。
自分のことなのに他人事のように言う。確固たる自分形成がなされていない人が口にする言葉だ。これで主導権を握れたショウは気が楽になった。自分から話す必要がなくなり、相手に話させればいいだけだ。
「よくあるんですか?」と、肘を突く。肯くアオイは、それにつられてスルスルと話しはじめる。
道を聞かれた時に、勘違いしてしまい、一本違う道を教えてしまったこと。落とし物を拾って必死に追いかけたら、その人の物ではなかったこと。そんなエピソードをいくつか話した。
「いつも、あとから間違いに気づくんです」
見事なまでの失敗談だった。まわりにいる人も耳に入っているだろう。その中の何人かは自分にも経験があると同感し、何人かがトロいヤツだと静かに嘲笑しているはずだ。
満員の車内はカラダをまわりに預けられ、想像した以上に楽だった。この人には申し訳ないが座らなくてよかったと、あらためて自分の判断に確証を持つ。あと二駅ぐらい何とかもちそうだ。
シュウは不憫そうな顔を作ってアオイに相づちを打つ。こちらもこれでもちそうだ。
「一番最悪だったのは、、」もちろんアオイはシュウだけに話しているつもりだ。
話すことで贖罪した気にでもなるのか、まわりにも聞かれている感覚はなく、自分の失敗談を懺悔でもしているように話している。シュウは神の代理人でもないし、聞いているのは慈悲深い使徒達でもない。
「、、痴漢をしたひとを間違えてしまったんです」
シュウは目をつむった。まさかの内容だった。確かにそれは、ついうっかりでは済まされない思い込みで、ひとつ間違えば犯罪になってしまう。
どう反応していいかわからず、その人の横顔を見るともなしに覗きこむ。平穏な顔をして、車窓から見える風景を眺めていた。
平穏になれないのはショウの方だった。このタイミングでの突然の巻き込まれ事故だ。
まわりからは自分は知り合いと認識されているはずで、ショウはいたたまれなくなってくる。心なしか冷たい視線がこちらに向けられいる気がする。
せめてもの救いは、痴漢で捕まった側でないことか。そうであれば、すぐさまこの場を離れるたい心境になるだろう。満員の中で、脚を痛めている身でそがれできるのか、はなはだ疑問でしかない。
ここまで話しをして、今さら他人のフリもできず、とは言えこの場から立ち去ることもできず、願わくばこれ以上話しが膨らまないか、別の話題にすり替えたい。
ショウは先手を打つべく、当たり障りのない合いの手を入れる。
「そんなことがあったんですね。まあ、その話は、、」
「学生が困った顔をして、わたしに視線を投げかけてきたんです」
ショウが話しの途中でも、アオイは自分のペースで話し続ける。ショウは万事休すと目を伏せた。
「最初は何か分かりませんでしたが、直ぐに痴漢の被害を訴えているのだと感ずきました。でもどうしていいかわからないんです。学生は今度は視線を後方に向けて、目配せをはじめました。そこには背の高い人が後ろ向きに立っていました。その人に何かされていると、伝えようとしているのだと理解しました」
アオイはここまでハッキリとした口調で明確に話した。これまでの自信なさげな口ぶりではない。誰かに訴えかけるようにも聞こえる。
ショウは少し安堵した。この話の流れからすると、間違ったのはこの人ではなく、その学生ということになる。
緊張感があった周囲の人たちも、心なしかホッと落ち着いた雰囲気となる。何にしろ早く話しを切り上げたいショウは言葉を押し込んでいく。
「成る程、その学生が勘違いしたのですね。仕方ありませんよ、パニック状態だったでしょうし、後ろ向きなら正確にはわからないでしょうからね。最も間違えられた人にとっては、人権問題になるでしょうが、、」
これで幕引きとするつもりだった。これ以上の深掘りは不要だと、そんなシュウの思いが込められている。
それに今度はアオイはシュウの言葉に被せこなかった。それでシュウも締めてよいと、先ほどの言葉で結ぼうとした。アオイはシュウに話す機会を与えたというよりも、何かを待っているようだった。
「間違っていればですけどね、、」
その言葉は、誰かに突きつけるような言い方だった。自分から間違えたと言っておいて、そんな言い草はないとシュウは呆れてしまう。
もうすぐ駅だ。人が降りたら挨拶して間を取ればいい。いまさら言い合っても仕方がない。聞こえないふりをして時を稼ごうと両腕でつり革に捕まり、視線をアオイから切った。
「、、でも、間違いじゃなければどうなりますか?」
それでもアオイはまだ話し続ける。シュウもいい加減うんざりしてきた。もういいじゃないですかと、言おうとしたとき、シュウの後ろの方で人が動いた。
身動きが取れないほどの車内で、もう次の駅で降りる準備だろうか。次は大勢が降りる駅なので、それほど焦る必要はない。
電車に乗り慣れていない人が、やりがちな行動だと、シュウはその人が近づくと、少し通り道を作ってあげる。
その人はチャンスとばかりに、大柄なカラダをグイグイとねじ込んでくる。ヤレヤレといった面持ちで、シュウはやり過ごそうとする。アオイはまた車窓を眺めている。
電車は駅に止まり大勢の人が降りていった。先ほどのフライング気味の人も、無事降りられたようだ。
ふと見ると、アオイのとなりに学生服の子が立っていた。アオイに何か用でもあるのか、モジモジと何か言いたげに見える。まもなくドアが締まりますとアナウンスがされた時、その子はアオイにアタマを下げて急いで電車を降りていった。その姿を目で追うシュウ。
「知り合いですか?」
何か訳ありなのだろうか。聞いておいて、変にクビを突っ込んだことに後悔した。車内の人は減りはじめたとはいえ、これでまた変なエピソードでも話しはじめられたら目も当てられない。
アオイはクビを振った。なにか緊張感から解き放たれたように、フーッと息をついた。
「間違いでなくて良かった」そうボソリとつぶやいた。
「エッ!?」シュウのアタマの中で何かがつながっていった。
「もしかしてあのコ、痴漢に遭っていたんですか?」アオイは否定も肯定もしなかった。
「窓にあのコの表情が映ってました。なにか辛そうな表情でした」
それで痴漢の話しを切り出したのかと、シュウは悟った。あの時から、この人は自分の失敗談ではなく、その話題をすることでまわりに聞き耳を立たせ、痴漢に対して抑止力を働かせたのだ。
「何の確証もなく、誰かを咎めるほどの度胸はありません。かと言ってあのコを放って置くわけにもいかず、咄嗟に口に出ました。いつもは、それで失敗するんですが、、」
そう言って沈んだ表情でシュウの足を見た。
「いえいえ、これは、わたしの都合で、あなたの所為じゃありませんよ」
なんとも立場がなかった。もし自分があの人の立場だったら、そんな立ち回りができただろうか。できているイメージがわかないし、できるはずがない。
この人は何度も失敗しても、自分が目にしたことに対して正義を貫こうとしている。それがすべていい結果にならなくとも。いやエピソードを聞く限り明らかに失敗が多いのかもしれない。それでも弱気にはならなかった。
誰もが自分さえよければいいといった風潮がはびこる中で、誰かを助けたいという気概を常に持ち続けている優しさがあった。
散々この人のことを小バカにして、空気を読まない言動を迷惑がり、そもそも行為を無にしたからこんなことになっている。自分の小ささだけが浮き彫りになっている。
アオイは何度も首を振り、そして最後にアタマを下げてその場を去っていた。残されたのはシュウの方だった。電車が揺れてアオイは少しよろけていた。シュウはその姿にアタマを下げた。
アキは自分が何をしているのか、よくわからなくなっていた。その人と対面したとたん、言葉が出なくなってしまった。
この人は反対側のドアまで押されて、カサを取れずに次の駅で仕方なく降りてしまったのだと思い、アキも降りる駅ではなかったのに、席を立ちカサを取って後を追いかけてきた。
突発的にそうしなければならないと身体が動いた。カサを取り出すのは大変だった。すいませんと連呼して人をかき分けカサを掴み取り、再び反対側のドアまで進む。
ちょっとっ!と迷惑そうに口に出す人。口に出さなくても険しい顔をする人。そんな人たちに降りますと、アタマを下げてかき分けていく。最後は吐き出されるようにしてホームに降り立った。
電車を降りることが、こんなに大変なのかと身を持って知った。中には不憫そうな顔をして、道を譲ってくれた人もいた。どちらにせよ自分は異端であり、迷惑な存在であるのは間違いない。
多勢に無勢で、常に多数派が正である空間がそこに創られていた。留まる人側が多ければ、降りる方が反抗分子であり、降りる側が多ければ留まっていては悪になる。
大勢の側に付くことで権力を持ったような意識に支配され、弱者を下位に扱う。誰もがそんな認識を持たないままに、多数派に対して群集心理に飲み込まれていく。狭い車両の中で、そんな強権を発動している人達を見て、アキはどちらにも着きたくないと思うばかりだ。
「あのう、カサを取れずに、降りる羽目になったのかと、、 」
ようやくアキは、恐る恐ではあるがそう口にできた。シンはそれまでの間、ずっとあっけにとられていた。
「あなた、あのカサを取って、わざわざ電車から降りて追いかけてきたのですか?」
それ以外の選択肢はないはずなのに、シンは当たり前のことと思いながらも訊いてしまった。それは確認するというより、この人に自分のしたことを振り返って貰おうとするための言葉だった。
忘れ物をわざわざ持ってきたといった尊大な態度でもなく、困っているひとを助けてあげようといった慈悲の態度でもなく、どちらかと言えば、何かの使命感に突き動かされているようにみえるのもしっくりこない。
それだけシンにとっては考えられない行動であり、何か他の意図があるのではないかとの穿った勘ぐりも混じっていく。
「ええと、わたしが声かけたから、前の駅で降りられず、次の駅でカサも取れずに、仕方なく降りることになったと思い、それで、、」
シンは目を閉じて首を振った。本心でここまでやれば称賛に値する。自分の所為にするにも程があり、これでは相手によっては逆手に取られかねない。
「あのう、ここまでしていただいて大変恐縮なんですが、コレはわたしのカサじゃないんです。最初に声を掛けられた時に、そのように伝えたつもりですが、分かりづらかったら申しわけありません」
シンは苛立ってしまいそうな気持を抑えながら極力丁寧にそう言った。もしかしたら判断能力が低いとか、対話を潤滑にこなせない人なのかもしれない。
この人の言葉を聞いて、またやってしまったとアキは肩をおとした。何時も良かれと思ってしたことが裏目に出てしまう。すぐに思い出されるのが、見知らぬ人を介抱しようとした時だ。
通りを歩いていたら気分を悪そうにしている人が、ビルの壁に寄りかかっていた。まわりには人がおらず自分が何とかしないとと、思い切って声をかけた。
その人はアキを見もせずに、ただ口元を抑えて、今にも崩れ落ちそうだった。近くで見ればやはり顔色も悪く、それなのにアキが声がけしても、その人は何の反応もしてくれず無言であった。
言葉も発せず、反応もできないほど気分が悪いのか、ひとに自分の弱っている所を説明したくなく強がっているのか、アキの存在を消しているように見える。
アキからしてみれば、自分が空気にでもなったような気になった。もしかしたら自分はまわりから見えておらず、この声は相手に届いていないのかもしれない。それならそのほうがアキにとっては気が楽だった。
そう感じることはこれまでも何度もあった。そのくせ厄介事にはよく巻き込まれる。何か都合のいい時だけ、自分は他人に認識されるのだろうかとさえ思えてくる。
だからといって、このまま置き去りにするわけにもいかない。自分から声をかけた手前では、人の道に反する。懲りずに何度も声をかけ続けても、相変わらず無視を決め込んだかのように、何の反応もなかった。
その時、このビルの警備員と見られる人が寄ってきてくれた。ビルの中から自分たちの動向を目にして気になったのだろう。
アキはこれまでの状況を説明した。警備員は何度かうなずいて、ビルの中に医務室が在るから、こちらへどうぞと、その人の肩に手をやった。その人は自ら歩き出し、警備員が寄り添って進んで行った。
残されたアキは安心したとともに、釈然としない思いが残った。確かに自分は大丈夫かと訊くだけで、具体的な対応策を提示できなかった。しかし状況を言ってもらえれば、それに対処する手段を提案できたはずだ。
まったく何も言ってもらえなければ、どうすることもできない。そう憤りながらも、果たしてそんな上手くこなせただろうかと懐疑的になる。
結果だけみれば、自分など相手にせずに、このビルの警備員の助けを待ったことにより、間違いなくスムーズに事が運んだはずだ。
自分ができたことなど、せいぜい救急車か、タクシーを呼ぶぐらいだ。あのひとはそういった大事になるのが嫌だったのかもしれない。
自分なんかが首を突っ込んだところで、事態は何も好転しない。そんなことを見透かされているようだった。相手のためと思ってしていることも、実際には人を助けられない自分が嫌でしているだけなのかもしれない。
折り返しの電車が到着するアナウンスが流れた。シンは良いタイミングと、では、失礼しますと話しを終わらせようとした。
今回は会話になっただけマシだった。アキはそう思うことにして、念のために最後に確認を取ることにした。カサを少し上にして、露先の先端を包むプラスチックに引っ掛かったUSBメモリーを、シンの目の高さに運んだ。
「てっきり、コレはアナタが引っ掛けておいたと思ったものですから、、 」
アキはカサを持ったまま、自分の想い違いを反省している。
青ざめるのは今度はシンの番だった。見覚えのあるUSBが目の前にぶら下がっている。ポケットに手を突っ込むと、ハンカチしか入っておらず、今朝出かけに慌ててポケットに入れたはずのUSBがない。
電車に乗った時には、すでにUSBの存在は忘れており、何度かハンカチを取り出した時に、一緒に引っかかって、外に出てしまったのだろう。
これまでもそんな失敗は何度かしていた。無造作に後のポケットに入れた一万円札を、知らずに落としたときは、何度も通り道を往復して探したが見つからなかった。
今回はたまたまカサの露先に、USBのリングがうまいこと引っかかってくれたようだ。もしこのUSBを紛失していたら、半年間の実習の成果が水の泡となるところだった。
大学と自宅のPCに、バックアップは取ってあるものの、最終データになっているか自信がない。それをイチから確認すれば相当な時間を要するだろう。
大学と自宅でデータを行き来させているので、どちらが最新か分からなくなっている。どちらも一部が最新で、両方をつなぎ合わせて補修をしなければならない最悪の可能性もあった。
いずれにせよ、このUSBだけが最新のデータで、それ以外はそうである担保は取れていない。資料と付け合わせて確認して、データを再構築していくには相当な時間と手間がかかり、想像するだけで背中に冷たい汗が流れる。
先程まで邪険にしていたこの人が、救いの神にまで見えてくる。シンはカサの露先からUSBのみを取り去ろうとする。手が震えて一度ではうまくいかなかった。
「このカサはボクのではありませんが、このUSBはボクの物です。持ってきていいただき、ありがとうございました」
そう言うのが精一杯だった。自分の自尊心を保つための、ギリギリの言いかただった。もっとオーバーに喜んでもいいい場面だったのに、相手の表情と経緯を考えると、とてもそんな気分にはなれなかった。
「ああ、そうなんですね。どうしましょう。コレ」
シンにとってのUSBの価値を幾ばくかも感じられないアキにしてみれば、ポケットに収まってしまうUSBより、手持ち無沙汰になるカサの処遇のほうが心配だった。
電車がホームに入ってくるのが見えた。シンはさすがに、このままこの人を放置して乗り込めなかった。カサを自分のではないと否定してことで、電車を降りられなかったのは自分のせいだ。
さらに次の駅で引き返そうと降りた自分を追いかけて、あの状況でカサを、それもUSBを落とさずに持ってきてくれたことに、それなにり誠意を示したい。
この人は、シンの冷ややかな対応に憮然とすることもなく、かといって恩着せがましくもなく、それどころか何か自信なさげにしている。
それがここまでシンの対応を鈍らせていたのも事実で、もっと積極的に、明確に指摘してくれればこちらも適切な対応ができたのにと思うところはある。
電車は乗降客の動きが途絶えドアを閉じた。シンはホームに立ったままだ。アキがぼんやりと首をかしげる。乗らなくて良いのかとばかりに。
強気に出た時に失敗するパターンに陥ったシンは、謝罪の糸口が掴めない。せっかく大切な物を持ってきたのに、その態度はなんだと窘められたほうがまだ良かった。本心から謝罪して平謝りをすればスッキリするだろう。
それなのに相変わらず、自分が悪いのではないかぐらいの態度を保ち続けられ、どうにもやりにくい。シンはカサを受け取った。
「このUSB、本当に大切な物だったんです。無くしたら取り返しがつかなくなるぐらいに」
そこまで相手に付け込まれるような、自分の弱みを伝えて良かったのか、迷うところではあった。それなのに自分の今の立場を考えると、どうしてもへりくだってしまう。
そして相手の表情を見ると、だからといって何かを要求してくるタイプには見えなかった。どちらかと言えば親身になって話しを聞いていてくれている。シンは自分の目利きに自信はないくせに、今回は変に確信をしている。
「このカサは、ボクがこれから忘れ物として、駅室に届けてきます。どうぞご心配なく」
アキは申し訳ない思いでいっぱいだった。自分の伝え方が悪かったために、電車から降りられず、こうして忘れ物を渡すにも、段取り良くできていれば、折り返しの電車にも間に合っただろう。
それなのに言葉はもどかしく、要領を得ないためにこの人を引き止めてしまった。あまつさえ、この忘れ物のカサの処遇までも任せよとしている。
「あっ、いえ、これはわたしが、、」
後先を考えずに、つい口に出してしまった。これ以上この人の時間を奪ってはいけない思いが前面に出ていた。ムリなことではない。カサを届けるぐらいなら多分できるはずだ。
ふたりでカサを握り、食事のあとの支払いを主張し合う人たちのようになっていた。そしてふたりは譲りあうようにして同時にカサを手放した。カサはふたりのあいだに落ちて慌てて拾おうと手を伸ばす。
同調した動きを続けたふたりは、なんだか照れくさくなってしまい。無言でアタマを下げ合った。そのあとはシンの動きの方が機敏で、カサを持ってそれではと、スタスタと行ってしまった。アキがその後ろ姿を見送っていた。
何となく嫌な予感はしていた。
その人は足を痛めているように見えた。つり革を持つ手に必要以上の力が入っているのが目に見てわかる。電車が左右に揺れるたびに、カーブの前でスピードを落とすとき、そして曲がり終えてスピードが上がるときも、カラダに自重以外の負荷がかかると、バランスを崩さないように腕に力がこもっていた。
本当ならつり革ではなく、手すりに寄りかかった方がカラダを支えやすいはずだ。あいにく別の人がその場を占拠し、反対側の奥のドアの手摺には傘がかかっていた。隣に立っている人の持ち物だろう。
朝の車内は見かけた顔が多い。そこここに座っている人も日々同じ顔ぶれで、それぞれが自分の指定席を持っている。
電車に乗り、自分達がいつも座る席に見かけぬ人が座っていると、玉突きのように座る場所が変わっていく。整然とした車内の秩序は乱れ風景は一変する。
アオイは自分がそうなった場合は、まずはプランBとして座る場所を変える。座るところがなければプランCとして、立つ場所をドア横の手摺りにするか、連結の入り口にある手摺にするかを選択するといった具合だ。
今日は秩序ではなく、アオイの心が乱れた。アオイは今日も同じ席を確保していた。いつもと違っていたのは目の前に、足を痛めてそうな人が立ったことだ。
アオイが座っているのは横に長い10人掛けの一番端、ドア横の手摺りの隣りだ。降りる側のドアに近いので、そこをメインポジションにしている。足を痛めている人も多分同じ理由なのだろう。
見かけない顔なので常客ではない。何らかの理由でこの電車に乗り合わせた初見さんだ。もしくは今後は同じ時間と空間を共有し、秩序を守る同志となるかもしれない。
アオイの心が乱れているのは、席を譲るべきか、そうしないでおくか決めかねているからだ。この人が前に立った時からそれははじまっていた。
それは結局のところ、自分がどうしたいかだけなのに、決断に至る理由が見つからず、自分の中で堂々巡りをし続けて、脳の動きが衰えていく。
この人は席を譲って欲しいのか、そこから考えはじめてしまうアオイであった。もしそうでない場合、譲った立場がなくなり、再び座り直す訳にもいかず、その場で立ちすくんでしまうだろう。その後の展開がイメージできない。
快く座ってもらえた場合、近くで立っていても、話が弾むわけでもなく、何か見返りを求めているようで居づらくなるだろう。そんな状況になれば自分の居場所がなくなってしまう。
そうなってしまった時の収まりどころのない自分をまわりに晒したくない。小さな自分を守るのに必死になっている。自分がそうしないことの理由を探して、同時にこの状況下で何もできない自分を赦したかった。
まわりは皆な、多分寝た振りをして目を閉じている。普段なら新聞を広げている人も、新聞をヒザに置き目を閉じていた。アオイも普段なら降りる駅までは、目を閉じているので気づかなかったはずだ。
見えていない世界で何が起きても自分には何の影響も与えない。目にしたとたんにそれについて何かを考えなければならなくなってしまう。
アオイは見るでもなしに前に立った人の足元に目をやったところ、右足を少し宙に浮かせ、左足だけで支えているように見え、その人の顔を見たときに目が合ってしまった。
次は複数の路線が集合しているターミナル駅で、大勢の乗降客がある。せっかくの席を譲れば、しばらく満員の中で立ち続けることになる。
それはこの人にとっても同じで、アオイが席を譲らなければ立ち続けることになるだろう。席を譲るなら今しかない。駅が近づいて来るにしたがって、気持ちばかりが追い立てられていった。
考え出したら動けなる。瞬発的に動かなければ何もできない。脊髄反射だった。咄嗟に立ち上がって声をかけてしまった。声は裏返っていた。
その人は困った顔をして首を振った。続いてつり革を持つ反対の手で制止してきた。その瞬間で顔がカーッと赤くなった。恥ずかしかった。まわりの人が全員が、自分を見ているようだった。そして想像通り、断られたとはいえ、また座り直すわけにもいかず、その人の横に棒立ちしている自分がいた。
善意であれば、相手は必ず喜んで受け入れるわけではない。この人にも事情があり、100人が求めたものを、この人が求めているとは限らない。
そして最大の問題点は、アオイが自分の本心ではなく、善行をすることを自分に強要したことであり、そうすることで身を軽くしようとして、中途半端なまま自我を貫き遂行してしまったことだ。
それが一転、困ったように拒まれて、善行は悪行までは行かなくても、十分にはた迷惑になってしまった。アオイはその急激な落差についていけず、体内でも一気に体温が上昇し、そして見る見ると急降下していった。
駅に着いて大勢の人がなだれ込んで来た。席が空いているのを目ざとく見つけた人が、ふたりを押しのけて座席を確保した。その人は顔を上げようともせずにすぐに寝たフリをした。
すぐにふたりのまわりは人で固められ身動きがとれなくなる。さっきまで赤の他人で、近くにいても何の気遣いをする必要のなかったふたりは、今では気まずい雰囲気の中で、お互いを意識しなければならない存在になっていった。
何となく嫌な予感はしていた。
いつもより家を出るのが遅れたショウは焦っていた。出掛けハナに母親に用事を言いつけられた。預けてある保険の証書を準備しておいて欲しいと言われた。
急がなくてもいいと言われたが、それをどこにしまっておいたか、すぐに思い出せない。そういう頼み事は休みの日にとお願いしていても、気づいた時に言わないと忘れちゃうからとか、今日じゃなくて休みの日でいいからと、だいたい朝の出かける間際に言ってくる。
せめて前日に言って欲しいと伝えるも、そもそも帰りの遅いショウとは時間が合わない。メモに書いて置いておけばと提案しても、それぐらいのことも面倒なのか、どうしても口頭で伝えてくる。
それはふたりのあいだにコミュニケーションが減ったことへの、本能的な行動なのかもしれない。どのみち仕事から疲れて帰ってきて、テーブルにそんなメモが置いてあったら、それはそれでげんなりするだろう。そんな夜の遅くに探し物をしはじめる気にもならないはずだ。
どちらにせよ在処がわかっていれば、それほど時間もかからないことも、仕舞ってから数ヶ月後ぐらいに、ポツンと思い出したように言って来られると、どこに仕舞っておいたのか、思い出せないことはよくある。
金融関係なので今回は目星はついている。ところが以前にそう思って探した時に、どうしても見つからず、他の案件の場所もひっくり返して、見直ししても無かったことがある。念のため母親の片付け場所を探してみたら、そこにちゃんと仕舞ってあった。
その時の損失時間やら、徒労感は思いだしただけでも腹立たしい。母親はあっけらかんと、ああここに仕舞っておいたのね。と笑った。そんな経緯もあり、なるべく早く解決したかった。このまま仕事に行っても、気になってしまい集中力が削がれそうだ。
思い当たるファイルブックを取り出し、ペラペラとめくっていく。なんの書類か分からないものが、幾つもファイリングされていた。
開ける度に整理しなければと、その時は思っても事が片付けば、またいつか時間を作ってからとファイルを戻して、そのまま放置されたままだ。
今日もそうであり、そういった日々の積み重ねが、最終的には急いでるところで大切な時間を奪っていく。ようやくお目当ての証書が見つかりホッとする。
時計を見るといつも家を出る時間より2分過ぎていた。慌ててクリアファイルに入れてテーブルに置いたあと、イヤイヤと首を振る。
母親に声をかけずに置いておけば、見ていないなどと言われて紛失の元だ。部屋まで行って声をかければ、ますます家を出るのが遅れてしまう。取り出したファイルブックにクリアファイルごと戻して、元ある場所に戻し急いで家を出た。
遅れを取り戻すべく、少し早歩きで駅に進む。駅までの所要時間は歩いて8分なので、少し急げば間に合うはずだ。ショウは駆け足をはじめる。
普段なら走って駅に向かう人を見ると、時間管理がなっていないズボラな人に見えるため、自分が急いでいる姿を人目に晒したくはなかったが、今日はそんなことを言ってられない。
急いで家を出ると、そのあとで色々な心配事がアタマをよぎる。冷蔵庫の扉を締め忘れていないか、水を出しっぱなしにしていないか、灯りは全部消したか、コンロの火を消してガスの元栓を閉じたか。
こういう時に限って何ひとつ記憶に残っておらず、思い出すことができない。心配は募っても早まる足は止まらない。きっと大丈夫と、なんの確証もない安心感を植え付けようとする。
家には母親がいる。何か忘れていても対処してくれるはずだ、、 火の消し忘れ以外はと、新たな心配事を作ってしまう。
時計を見る。なんとか電車に間に合いそうだ。それでも歩みは緩めない。少し汗ばむ。朝から下着を汗でぬらしたくはないと少しスピードを落とした。そして目の前が真っ暗になった。
ショウは、あっと声をあげて地面に伏せていた。右ヒザに激痛がはしった。すぐにまわりを見る。幸い誰もいない。側溝のミゾのわずかな段差で躓いていた。
早く立ち上がらなければと急いだ。こんな醜態は急いで駅まで走る以上に、絶対に人に見られたくはない。ましてや誰かに手助けされるなど絶対に嫌だった。
右足では踏ん張れなかった。左足を曲げて両手をヒザにつき何とか立ち上がる。スラックスは破れてはいなかったが血が薄っすら滲んでいた。
恐る恐る右脚を前に出す。やはり力が入らない。仕方なく左足を軸に、右脚を引きずるように前に出す。自分では目立たぬようにしていても、周りから見ればぎこちなく歩いているのが一目瞭然だろう。
あのとき間に合うとスピードを緩めたばかりにと、後悔しても時は戻って来ない。せっかく挽回した時間も吐き出してしまった。もう間に合わない。駅に着いて、いつもは使うことのないエレベーターを待った。
自分のような若者がエレベーターなど使えば、周りに楽をしていると見られるだけで、使うことはこれまではなかった。幸いショウ以外に待っている人はいなかった。
エレベーターに乗り込みホームへのボタンを押した。いつも乗る電車は行ってしまった時間だ。歩くスピードも考慮して、会社に着く時間が10分から15分は遅くなってしまう。会社に着いてからの、しなければならない優先順位を変えなければとアタマを動かす。
ホームに着くと、すぐに次の電車が進入してくるところだった。ツイている。これなら5分ぐらいで何とかなりそうだった。まだ天に見放されたわけではないようだとショウは電車に乗り込む。
座席は全て埋まっていた。いつも乗る電車ならば、座ることができたのに、一本違えば顔ぶれも変わり、座席はすべて埋まっていた。
座りたい気持ちもあるが、ヒザの曲げ伸ばしで痛みが出る。座ったり立ったりに時間がかかりるし、座ってもヒザを曲げられそうになく、足を投げ出していては、満員になったときにまわりの客に迷惑だ。
そう思うと席に座るより、このまま立っていたほうが負担がない。立っていても右脚に力を入れなければ痛みも少ないので支障はなかった。
方向性が決まり、気持ちも落ち着いたところで、視線を感じ思わず目をやってしまった。目の前に座っている人と目が合ってしまった。
すぐに目を切ったが、その人は何か収まりが悪いように見え、ショウはすぐに悟った。席を譲ろうかとしているのだ。声をかけられるのは避けたいが、場所を移動するわけにもいかない。もうすぐ電車は駅へ着こうとしている。
突然その人は立ち上がった。どうぞ。アシ、イタイんですよね? 上ずる声でそう言った。
足を痛めている人に、席を譲らなければならないという道義心だけが、この人を突き動かしているようだった。そのために想像力とか、思考は停止し、このまま受け入れられること以外が発生した時に、対応できなくなっていた。
ショウは空いている右手で目を覆った。そのまま首を振った。言葉で拒否することができなかった。拒否のゼスチャーだと理解されないといけないので、席に戻ることを促すために手を振った。
その人は完全に浮足立っていた。顔が赤らみ、この先の身の振りどころを見失っている。それはショウも同じだった。何も起きて欲しくなく、そっとしておいて欲しい時に限って、思わぬところから横槍が入る。
それが善意から来ていれば、文句は言えない。それを呼び込む弱い自分を晒した代償だ。ふたりは次の駅まで身動きが取れないまま、やり過ごさなければならなくなった。
「スイマセンこんなことになっちゃって」なにか話さなければならないと、ついそんな言葉が出てしまった。
車窓からは線路と垂直に伸びた商店街が見えた。それもいつもなら目にすることのない風景だった。秩序が乱れていた。
何となく嫌な予感はしていた。
傘を手摺に引っ掛けたまま電車を降りようとした人がいる。
急いでいるのか傘のことを忘れているのかと思い、勇気を出して声をかけた。声は上ずっていた。
知らない人が周りにいる中で、知らない人に声をかけるのは初めてだった。カーッとアタマが熱くなっていくのがわかる。慣れないことをするものではない。
その人は降り際に驚いたように振り返った。そして首を振った。それは自分の傘ではないと言っているはずだ。
そして悲しそうな顔をた。それでまたアタマが熱くなった。どうすればいいのかと、少しパニックになりかける。親切心がアダになったようだ。
そんな経験はなんどかあった。それなのに、止めておけばいいのに、言わなかった時の負荷を考えると、つい口に出てしまう。
気づいたことを言わなかったために、相手のその後の不幸を考えると、自分の所為でと考えてしまう性格だった。
でもこれではその人のためではなく、自分のためにお節介をやいているにすぎない。
その人も自分の傘でないならば、無視して降りてしまえばよかったのに、親切心を放って置くことができなかったのか、もしくは傘を置き忘れた間抜けだと、まわりに思われるのが嫌だったのか。
いずれにせよ降りる手前で止まったため、乗り込んでくる大勢の乗車客の波にのまれ、反対側のドアまで押し戻されていった。
何かしてはいけないことをしてしまった申し訳なさだけが残った。自分の間の悪さに情けなさが募る。自分が楽になるために誰かを苦しませてしまった。
何となく嫌な予感はしていた。
シンがこの電車に乗る前からカサがそこに残されていた。シンよりあとに乗ってきた人から見れば、シンがカサを手に持っているのが億劫で、手すりに引っ掛けていると思うだろう。
乗車客の多い駅で降りなければならないシンは、いつもドアの近くの隅、座席の真横に陣取って立っている。
電車での移動をはじめたときに、ご乗車の方から奥に進んでくださいというアナウンスにしたがって素直に奥まで行ってしまった。
電車に乗ろうとすると、やたらと指示を受ける。
やれ、黄色い線の内側を歩け。ホームに入る電車に気をつけろ。駆け込み乗車はするな。必要とする人に座席を譲れ。電車の中は静かにしろ。モノを食べるな。聖人君主になれ、、
そこまでは言われないが、ありとあらゆる人の行動を制限しようとしているようだったる。
どれも社会生活をするうえで当たり前のことで、人に迷惑をかけないようにと、親から厳しく言い聞かされているシンにとっては守って当然の行為だった。
ただ、それを駅から駅のあいだ、際限なく繰り返し聞かされると気持ちが滅入ってくる。
それはそんなにも常識を守らない人がいる裏返しであり、刷り込みのように言い続けられると、却って反発したくなるなるのではないかと心配になる。
それに注意が多いと言うことは、それだけ守らない人が多くいる証であり、そうであれば自分ひとりぐらい守らなくてもいいのではないか、そこに大義名分があればなおさらで、そんな人間心理を増長させると聞いて事がある。
小心者であるシンはそんなことは出来はしない。その時もいいつけ通り、車両の奥で降りる駅を迎えた。そして当然のように降りない人の壁に阻まれて身動きが取れない。これでは声をあげて道を開けてもらうしか降りられない。
アナウンスは乗るときは奥へ行けと言っても、降りる時に奥の降りる方のために道を空けて下さいとは言わない。黄色い線の内側を歩いても、駆け込み乗車をしなくても、、 エトセトラ、エトセトラ、そこは自己責任に転嫁されるようだ。
狭い隙間にカラダをねじ込んで、スイマセン降りますと、アタマを下げながら通ろうとしてみた。
降りるんならこんな奥に居るなよとばかりの冷ややかな視線や、時にはあからさまに今から降りるのかと強い口調で言われた。放送の指示通りにしたのに、、
道半ばでドアは閉じられた。乗車の群集でドア周りは固められていた。強靭なラグビーチームのスクラムを一人で押しのけることはできない。
かくして車両の奥にいたために降りられなかった世間知らずでマヌケ面を大勢のひとに見られた。気まずい空気の中でひと駅やり過ごすことになった。
自分が迷惑をかけた認識もないのに、ことごとく周りからは存在自体を否定されているようで、そのたびに自分の不甲斐なさで気が滅入る。
ここでもまた、人に迷惑をかけないようしていたのに、露骨に邪魔者扱いされ、知らなかった無知と、公共の呼びかけに馬鹿正直に従ったゆえの失態を受け入れることになる。
何か自分は元々そういった負を背負って生きなければならないのか、どれだけ自分としては、まともな行動をとったとしても、まわりからはそのように見られないことが何度もあった。
同じようなことは過去にもあった。このあいだなど、駐輪場を出るときに、取り出した自転車を通路に一旦止めて、サイフの在処を探していた時、どこに入れたのかと、ポケットやらカバンやら、いろんな場所に手を突っ込んでいたら、見知らぬ人にこんなとこに止めるのかと嫌な顔でたしなめられた。
最初は何を文句言われているのか分からなかった。どうやらそれは、奥の空いている場所でなく、出口に近い通路に自転車を止めようとしていると思われたようだ。通路に置かれている自転車は他にも数台あった。
シンは駐輪場から出るところで、探し物をしているだけだと言いたかったが、言葉が出てこなかった。なによりコチラの言い分も聞かず、見た目だけで通路に自転車を止める人間だと思われたことがショックだった。
結局それを即座に否定しきれず、スイマセンとアタマを下げて駐輪場の外に移動した。その人は未だ憤懣やる方ないといった感じで、フンッと鼻息荒く自転車を止めに行った。
我は物言えぬ庶民の代表であり、悪人を退治した英雄気取りだろうか。うがった見方をすれば、あの人は今日こんなことがあったと、家族や知り合いにのたまうのだろう。自分がそこにいなくても、自分が貶められている想像が繰り返される。
次の駅ではさすがに気の毒に思ったのか、まわりが気づかいしてくれて道を作ってくれたおかげで降りることができた。そんな経験を経て、それ以降はドアに近い場所を確保するようになった。
今日は朝方に一時激しく雨が降っていた。今はもう止んでおり、朝日も零れている。早朝の雨の中に出かけたひとが降りる時には止んでいたため、引っ掛けておいた傘の存在を忘れて降りてしまったのだろう。
自分がその立場なら、あっという間に忘れ去るだろうと思われることへの共感で、この状況下では逆に気になって仕方なく、カサのことばかり考えている。
普段からそうであれば、忘れ物などしなくなるはずで、そうであれば、いまのシンのように忘れ物以外の思考がストップしてしまい、それはそれで様々な支障を及ぼすだろう。
そう思えば忘却は理にかなっているのか。手から放たれたモノは、その時点で自分の所有物では無くなってしまうと仮定すれば、そうした忘却が新しい叡智を生み出してきたのかもしれない。
そんな思いにふけっていると、次の駅に到着するアナウンスが流れ出した。
シンはカサを見ないように、さりげなくドア脇から横にズレて行き、降りようと並んでいる人の後ろに付いた。そんな行動は余計に怪しまれそうであっても、カサを凝視しながら場所を移動するよりはマシだろう。
車窓からホームが見えてきた。今日も大勢の乗車客が、エサを待つ野獣のようにして待ち構えている。少なくともシンにはそう見えた。ドアが開いてモタモタしていれば乗車客に丸呑みされてしまう。
最初の頃に、降りたあと立ち並ぶ群集を前に、どこを進もうかとオロオロしていたら、乗る人達のジャマになり舌打ちを食らった。ドアの隅から横手に降りていくお作法を知らなかった。
電車がホームに侵入し、スピードを落とし停車の準備にはいる。カサとの距離も自分の持ち物と思われないぐらい十分とれた。電車が止まりドアが開こうとするとき声をかけられた。
心臓が跳ね上がる「傘、忘れてますよ」。震えた声が届いた。
シンは無視すればいいのに振り向いてしまった。向こう側で座っていた人が心配そうな顔をしてカサを指差していた。同時に大勢がシンの方に目を向ける。見なければ良かったとすぐに後悔する。
その人の身になれば、傘を忘れて電車を降りようとする自分を気遣い、勇気を持って声をかけたのだ。それを無視することはシンには出来なかった。
その一瞬の躊躇が命取りになった。
怒涛の如く乗車客がなだれ込んできて、シンはあっという間に反対のドアまで押し込められた。降りますと声を出すことができない。これまでと同じだった。
今さらそんなことを言い出しても多勢に無勢、どうすることもできない密集の状態の中で、通り道を空けてもらえるとは思えない。シンは約束の時間に間に合わなくなるかもしれないと心が痛んだ。
次の駅は押し込まれた側のドアが開いたので、そのまますんなりと降りられた。カサのことはもう忘れていた。それを指摘してきた人のことも。
急いで反対側のホームに行くために階段を駆け上がった。普段の運動不足も響いて半分ぐらいで息が切れてくる。登り上がった通路の窓から、新旧混在した建物が立ち並ぶ商店街が目に入った。
上から見るその風景は、カラフルな屋根と、古い甍の波が散りばめられたちょっとしたテーマパークのようにも見えた。ひと駅すぎるとこんな場所があったのかと、一瞬だけ気に留めて今度は階段を駆け下りる。
反対方面に向かう電車はまさに出発するところで、大きな警告音と共に、駆け込み乗車はおやめくださいとがなり立てている。
シンは心が怯んだ。自分の利益を優先するために、公序に逆らおうとしている。それでも待っている人のために急がなければならない。
降りた客が階段を上って来る。数人だがその人たちをかき分けて進む。スイマセン、通りますと声を出す。そんなことこれまでしたことがなかった。
ホームに着く。ドアが閉まりかけていた。シンは駆け寄った。ドアの前には駅員がいてシンを止めようとする。シンは制止する駅員をすり抜けて、閉まろうとするドアに手を突っ込んで無理やりこじ開ける、、、
シンは止まっていた。そんなことはどうしたってできなかった。駅員がそれでいいとでも言うように微笑んでいた。シンは愛想笑いして息を整える。目の前を電車が走り出していった。
「あの、、 」そんなシンに声をかける人がいた。振り返るシン。それは自分にカサを忘れていると声をかけた人だった。