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private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

第15章 4

2022-08-13 07:09:09 | 本と雑誌

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R.R
 ナイジがサーキットの裏にある修理工場に着いたのは午後の9時を回っていた。ホームストレートで別れたきりのオースチンに大きな外傷は見当たらず、工場内の天井から吊り下げられたオレンジ色の電球に照らされ、静かに回復の時を待っていた。
 静まり返った工場内に足を踏み入れ、オースチンの前に立ち止まったその時、不意に右肩をつかまれ、そのまま身体を硬直させた。
「なにしてる」
 灰味だったはずのツナギは油とホコリにまみれ、灰色の濃さを増している。同じような色をした軍手がナイジの右肩を抑えたままだ。ナイジは目線だけを男の姿に向ける。その男はナイジを睨みつけていた。
「そうか、オマエ、あのクルマのドライバーか? ずいぶんと… 」
 そこで言葉を止めたのは、いま感じたことを直接的に口にして、会話を続けることに危険がよぎったからだ。突き放すようにして手を離し、他のクルマに寄って行く。
 ナイジはそのおかけで少しよろめくことになった。ふらついてしまうほどの力が加わったわけでもないのに、二日続けて酷使した身体は思ったよりも疲弊がはげしく、その代償として通常の平衡感覚も保つのが難しかった。
 今朝、新たに再生したばかりの細胞は、まだ定着されないまま、すぐに破壊されてしまった。不安定な状態の身体で果たして、次の細胞が萌芽をはじめるのはいつになるのか、これまでこれほど無理を強いたことがなく想像がつかない。
 ナイジは弱った身体を悟られまいと、顔をしかめながらもすぐさま体を立て直す。ただ、この場から動くことははばかられ、その男の次の行動、もしくは言動を待つしかなかった。
 男はわざと見せつけるようにそうしているのか、オースチンには目もくれず、先に修理に入っていたと思われるイタリアの小型車に手を掛けはじめた。
 最初の接触以後はナイジの存在など無かった様な振る舞いで、ナイジの気持ちをいたぶるように作業は続けられ、しばらくのあいだ工場内には金属の擦れる音だけが鳴りつづいた。
 ナイジは自分が焦らされているのか、それとも試されているのかと考えた。それがどちらであっても、いつまでもこうしているわけにはいかない。時間が経てば経つだけ、打つ手の選択肢とともに自分の価値観も消えていく。完全に存在を消失させられる前に行動に移す必要があった。
 それがその流れで行きついたナイジの行動だとしたら、あの男にとっては想定外の成り行きといえ、まさに自ら招いてしまった失敗であった。
 踏み込んだ足に地面の砂と一体化した金属紛や油砂の音が軋み、動きの少ない空気中に乾燥した粒子が舞い上がると、オレンジ色の灯りの中で乱反射してふたたび地表へ落下していく。
 オースチンの前で振り返ると、以外にもその男は作業を止めて立ち上がりナイジの方を見ていた。右手に持ったレンチが鋭く光っているのが一種の狂気を含んでいるのは出来過ぎであった。それがナイジの行動を止める要因にはならなかった。
「オレ、次の週末、このクルマを走らせなきゃならない。だから、すこしでも早く直して欲しい。それに… 」
 『カーン』と、乾いた金属音が響いた。近くにあるパイプ椅子をレンチがかすめる。こみ上げる怒りを音とともに分散させなければ、平常な気持ちで話しをすることも難しいとでもいいたげに。
「もう止めな。オマエが何を言おうが、どんな望みがあろうがオレの範疇じゃない。仕事は受けた、不破さんから話しは聞いている。受けた仕事だから約束通り仕上げさせてもらうがそこまでだ。それ以上、どうのこうの言われる筋合いはない。オマエがこのクルマの所有者だとしてもな。わかったら帰ってくれ。この時間まで仕事があるぐらい立て込んでるんだ。邪魔されると仕事が進まん。そうなれば… アタマの悪いガキだってわかるだろ」
 それだけ言うと再び作業に取り掛かりはじめた。あのクルマは不破どころか社長の馬庭からも直々に連絡があった。唯でさえ、急ぎでやるように言われたことで、自尊心をないがしろにされ、不満を感じていたところへ本人の登場。しかもそれが、まだヒヨっ子にしか見えない、ひねくれた若造に生意気な口のきき方をされれば、なおのこと苛立ちが増幅していく。
「オレ、勝ちたいんだ。あのロータスのヤツに。勝つことになんの価値があるかなんていまはわかんない。 …最初のコーナーまでに頭を取りたい。だからいろいろ試しておきたい。それには時間がないんだ。クルマを直したって性能が今より上がる訳じゃない。その部分でドライバーにできることはごく僅かだろ。 …クルマをイジッてるなら、バカでもわかるだろ」
 ナイジは真剣な目つきで男を見据えていた。あきらかに何らかの意図を持って、男を怒らせようともかまわない決意が見て取れる。
 男は深く目をつむり、大きく深呼吸をした。優しくいってわからないなら、身体に教えてやろうかとも考えた。しかし、それでは若造の仕掛けにはまってしまう。
「オマエな、さっきオレが言ったこと… 」
「できないのか? もう安ジイはもう仕事してないし、アンタがやるきがないなら、他当たるよ」
 変に自分を抑えていたため、その反動は予想以上になっていった。もはや思考を飛ばして身体が動いていた。
「なんだと! キサマ! 何言いやがったっ!!」
 濃灰色のツナギがナイジに迫ってくる。微動だにしないその体躯めがけて、大きく振り下ろされるレンチ。しかし、大袈裟なその動きは見切っていた。すると、もう一方の左の拳がナイジの腹部をめがける。すんでのところでナイジの左手がそれを阻み、それが痛めた左手に更なるダメージを積み重ねた。
「ちっ。コイツどこまで… 」思わず悪態が口をつく。
 ナイジの読みではさすがにレンチで人は殴らないと踏んでいた。それをエサにして腹を狙ってくるとも予測していた。腹に入れようとしたのはその方が意識を保ったまま痛みが長引くからだ。興奮したように見せかけても手加減はしていたようで、かろうじて防御することはできた。
 そのままの勢いを持ってふたりは身体をぶつけ合った。ナイジは、すかさず、その男の手首をつかみ身体を密着させ耳元に顔を寄せる。
「こうでもしないとさ、話しも聞いてもらえそうになかったから。オレのこと嫌いでかまわない。でも、オレはどうしても勝ちたいし、そのための時間がないのは事実だ。ソッチにその時間が持てないのなら、お互い無駄を浪費するようなことは止めたほうがいいだろ。ハナッから『誰かに頼まれたからって時間通りに仕事やります』なんて思ってないだろうし。それが、特に服従を強いられる相手なら尚更だろ」
 充血した男の目がナイジを見据える。その時、工場内の事務所から電話のベルが鳴り始めた。男はナイジを見すえながらも電話を放っておくわけにもいかず、目と意識をそちらにもっていかれた。
 ナイジは身体を離し、事務所の方に目を向け、出ないのかとばかりに首をひねる。男は苦々しい顔でナイジに一瞥をくれてから事務所の方へ向かって行く。
 男にとってはとんだ失態となってしまった。ヘタに冷静に対処しようとしたばかりに、かえって無様な姿をさらし、腹を探られるような言葉を浴びることになった。頭に昇った血が治まらないまま取った電話にきつく出てしまう。
「権田だ!」
「なんだ、なんだ。権田。機嫌悪そうだな。仕事中だったか、何度も電話してすまんな」
 相手は、不破だった。
「あっ、不破さん。なんですかあの若造は、てんで口の聞き方も知らない。コッチが仕事中なのに、自分のを先に直せだの、スタートで前に出せとか、あげくにできなきゃ他持ってくなんてほざきやがる。上等ですよ、勝手に自分で探すといい。不破さん、悪いけどこの仕事降ろさせてもらいますよ。不破さんに頼まれようが、馬庭社長に言われようが… 」
 本心ではないにしろ、少しは文句を言って、自分の不満を晴らさなければ気がすまなかった。
「なんだい、馬庭さんからも連絡あったのか? あっ、いやいや、そんなことより、ナイジのヤツもう着いてたのか。いやな、オースチンのドライバーが行くからよろしく頼むって、連絡入れようとしたとこなんだが。アイツもよっぽど心配だと見えるな。いやいや、これが、見ての通り変わりモンでよ、オマエが頭に血ィ昇らないように前もって伝えとこうとしたんだが。どうも、間に合わなかったようだな。それにしてもなあ、ストレートでアタマ取らせろとは、ずいぶんな注文つけてくるもんだ。で、どうだ、できそうなのか?」
 怒りの矛先を背けようと、クルマの話しに持っていく。いくら頭に来ていても、そこは職人肌の気質があるため、どうクルマをイジればどうなるかは常に考えているし、安ジイが仕上げたクルマに興味がないわけがなかった。
「そりゃ、まあ、まだ、運ばれたままで、中まで見てないからなんとも言えないですが。クラッチ板を換装してレスポンスを上げて、エンジンの内部磨いて、後は駆動関係の抵抗を最小限まで抑えて、無駄に空転しないように喰い付きのいいタイヤを用意して… いや、いや、そうじゃないくて、オレはもう、やらないって… 」
 不破の思い通りにはならなかったが、まったく脈がないわけでもなさそうだ。
「なあ、権田、聞いてくれ。ヤツに問題があるのはオレも重々承知してる。そのことでオマエに迷惑かけたならあやまる、オレが変わりに謝るから。いや、たぶん、そういうオレの態度もオマエは気に入らないんだろうが、それでもな、ヤツに走らせたいんだ。ロータスと真剣勝負させたい。これは何もオレひとりの欲望じゃない、今日、レースを見に来た誰もが、そんな想いを持ってるんだよ。でなきゃ、馬庭さんがいちいち電話してくるはずもない。そうだろ」
 権田は、馬庭を出されると辛らかった。だからこそ不破もそれを切り札にはしたくなかった。大企業の修理工場でくすぶっていた権田に、安ジイの工場を紹介したのは馬庭だった。安ジイの目にかかり修行を積んであとをつぐことができた。
「オマエはレース見てないからピンとこねえだろうが。5年振りに舘石さんのコースレコードが破られたんだ。そのロータスの男に、 …ああ、そいつが出臼が連れてきたヨソモンだ。ウチらのツアーズで唯一、そのロータスと互角に渡り合って、第3計測所では最速ラップを出しやがった。最終コーナーでデフかシャフトが… たぶんドライブシャフトだろうけど、壊れなきゃロータスのタイムを上回ったかもしれないんだ。いや、間違いなく削れたろ。あの、最終コーナーの抜け出しは、見た目にわかるぐらいにスピードがのっていた。今日初めて走るコースでその中の誰よりも速く走っちまいやがったんだよ、アイツは、突然にだ。いいか、驚くのはそれだけじゃねえ、クルマを、オースチンをよく見ればオマエも腰抜かすぞ、タイヤは中ブル、エンジンだって、駆動系だってそのまんまドノーマルだ、そりゃそうだろ、安ジイの仕上げたクルマだからな。おまえだって知ってるはずだ」
 安ジイが過度なチューニングアップを好まず、クルマの特性を活かすセッティングを優先する。リクオに連れられてフラっと訪れたナイジは、多くのクルマが置かれたバックヤードからこのオースチンを選んだ。それは安ジイが、アタリの車体であると目をつけ、ひそかに手を入れていたクルマであった。
「今までずっとリザーブで、本戦に一度も出たことがないヤツがな。それが今回、走りたいって言うから試してみたらよ、とんでもない走りしやがって。それに走ったすぐ後に、自分の走行状況を語りだして、その通り走ったら一体何秒出してたんだって、みんな呆れてたぐらいだ。まあ、口でいうように全てがうまくいくわけはないが。でもな、ヤツの走りにオマエの手が加われば、見るものを魅了する最高の走りができるとオレは信じてる。それがわかってて何の手も打たないわけにはいかないだろ」
 一気にそこまで話したのは、権田に口を挟む隙を与えたくなかったからだ。はたして、いま言ったことが、どれだけ耳に届いているか不破は不安のままだ。
 権田は、技術屋としてドライバーの望むクルマを作りこんでいき、実際に走らせてぐうの音も出させない、完璧なセッティングでドライバーを唸らせるのが何よりのやりがいであり、打てば響くような走りをするドライバーを好んでいた。
 一度なりともナイジとそのような経験があればと不破は悔やんだ。そうすれば権田もナイジのことを認めるだろうと。なににしろ、権田の首を縦に振らせる理由はいくつあっても多すぎることはない。たたみかけるようにして続けた。
「それによ、どうやら、ロータスのヤツ三味線引いてたらしくってな。ヤツも、もう2~3秒は現状で詰められるらしい。添加剤入りの胡散臭いオイル使ってるって話しも耳にした。そのオイルメーカーが後ろだてして、出臼とよろしくやってるってことだ。このままヤツラのいいようにされるのもどうにも収まらねえしな。どうだい、力かしてくれねえか」
 不破の説得が功を奏したと思われるのは癪だが、トップタイムと遜色のない走りをしたあの若造が、いったいこのクルマに何を求め、どういじってやればどれぐらいの走りをするのかは興味がある。それはクルマをいじる者にとっての偽らざる本能だ。
 しかし、このまますんなりとあの若造の前でオースチンに手を出せば、現状では屈服を意味し、今のままではどうしても受け入れることができそうにない。
 悶々としている権田の心を読み不破は、なんとか気持ちを入れさせようと泣き落としにかかる。馬庭社長に逆らって本気で仕事を断るとは思えないが、いい仕事をしてもらうためにも、お互い納得できる着地点を見つける必要はある。
「なあ、頼むよ、権田。オマエの腕に勝るヤツをオレは知らない。安ジイにイチから叩き込まれたその技能は、そこらの修理屋とは訳が違う。ロータスとやりあうためにはオマエの力が必要ないんだ… いいや、キレイごと言うのはよそう。本音を言っちまえば、多分、ナイジこそ、オレの立場を救う最後の切り札なんだ。オレが今の立場を覆すことができる、これが最後のチャンスかもしれない。どうやら、それは馬庭さんも同じらしいんだ。やけに、からんでくから気にはなっていたんだがな。あの人も、それなりにラクじゃないってことだ。とんだ下世話な話しでオマエには関係ないことだがな、それだけ、オレは… オレたちがアイツに真剣に賭てるって事はわかってくれ。オレも今からソッチへ向かう。ナイジにはもうゴタゴタ言わせねえから、ここはひとつオレに預けて、クルマの面倒を見てくれ。な、頼んだぞ。馬庭さんからの頼まれたモノも持ってくから。癇癪、起こすんじゃないぞ」
 そこまで言うと、勝手に電話を切ってしまった。中途半端な状態で放置されたままの、権田は受話器を何度も見直し、しかしそのままにしていても埒があかないので、放り投げるようにして受話器を戻すと安っぽい音を立て納まった。
 胸ポケットからラッキーストライクを取り出し、口に咥え、ズボンのポケットを一通りまさぐったあと、最後に別の胸ポケットに入っていたマッチにようやくたどり着き火を点けた。
 一気に紫の煙が事務所内に広がり、モヤの向こうにはオースチンにもたれかかり、権田が戻るのを待っているナイジの線の細い影が見える。
 次はどんな手で自分を揺さぶろうと考えているのか想像すると、すこし笑ってしまう。権田は自分自身が望まないうちに、いつのまにか回りはじめた渦の中に取り込まれていることを感じていた。
 不破の話を聞き、オースチンもさることながら、そこまで言わしめるあの若造にも関心がでてきたのは確かだ。手段のために自分をも翻弄しようとした言動は、そう捉えれば確かに若いわりにはなかなかのやり手ともいえる。
 ただ、それが鼻に付くのはいかんともしがたい。数回吸っただけの煙草を、点火部分だけ丁寧に揉み消しすと灰皿の溝に横たえる。


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