private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

第15章 6

2022-08-21 15:57:01 | 本と雑誌

Cimg3530
R.R

「おい、ナイジ。いつまで寝とるんじゃ。そろそろ起きろや」
 懐かしい声を耳にして覚醒をはじめる。陽の入らない工場内では、照明が落されていれば朝になっても薄暗いままで、まわりの様相もうかがいづらい。
「どこでも寝れるのは変わっとらんのう。器用なやっちゃ」
 ナイジの目覚めはオースチンのシートで迎えた。さすがに座ったままでは長いあいだ眠ることはできず、自分でも無意識のうちに助手席を倒してもぐり込んでいた。
 なんとかできたのはそこまでで、背もたれに体をあずけたままドアを閉めることもせず、それだけを見れば、不気味に飛び出た二本の足に遭遇することになり、殺人現場を思わせる光景だ。
 スルスルと足が引っ込んだかとおもえば、アタマからゆっくりと姿を現す。霞む目を擦ると、コーヒーを入れたマグカップを持つ安ジイの姿が目に入る。久しぶりの対面で、あいかわらずのしわくちゃな顔は表情もなく、きっとそれはあきれた面持ちをしているのであろう。
「アンじい、なんだ、まだ生きてたんだ」
「朝イチにからその言い草か、減らず口も変わらんな。せっかくコーヒーまで淹れたやったのに、やらんぞ」
「年寄りが二杯も飲んだらカラダに悪いから。もらっとくよ」
 手元に引いたマグカップを奪い取るようにして手にすると、ひとくちふたくち流し込み一息ついた。
「あー、うめえや。アンじい、コーヒー淹れる才能もあったんだな」
「ぬかせ、ただの即席だ。近頃は便利になったもんでな。湯さえ入れりゃ、ワシのような老いぼれでも、うまいコーヒーが淹れられる。そんなことよりオマエ、昨日、えらく活躍だったそうだな。ワシのとこまで伝わってきたぞ。まったく、レースに出るなら出るって連絡ぐらいしろや。オマエのオースチンはワシが最後に仕上げた大仕事だ。これでようやく日の目を見ることになった。半分諦めかけとったが、オマエも少しはやる気になったみたいだな」
 両手でマグカップを囲い込み、口につけたまま、しばらくその状態で止まった。コーヒーから上がる湯気が優しく顔をなでていく。やる気になった動機はいろいろあっても、それがよこしまなものでは口に出しづらい。ついつい憎まれ口と、言い訳に終始してして安ジイの訊きたい部分をはぐらかしてしまう。
「なんだよ、サボんないでレースの日ぐらい足を延ばせばいいだろ。年寄りが家にこもってても、いいこと無いぜ。今回は突然だったからさ、オレが不破さんに無理言ったんだ」
「ふん、そうらしいな。しかし、オースチンを壊したのは旨くなかったな。なにやらかしたんだ?」
 そこを言及されると当然想像がついていた。安ジイであっても自分の特異な体験をどこまで理解してもらえるか自信はない。
「やらかした… それはレースの前のことで、走る前に気にはなってたんだ。それなのにとどまることができなかった。コイツには悪いことした。理由や原因は色々あるけど、それはすべて自分が飲み込まれていたからなんだ。サーキットに覆い尽くされた流れの中に。やらかしたことより、オレにはそれがどうにも… 」
 安ジイは深く目を閉じた。多くのシワと一緒になって、どこが目のあったシワなのか探すのが困難なほどだ。
「ふんっ、らしくないのう。オマエはいつだって、そういうものから一歩引いた場所に身を置いとった。何があった? こんな老人を引っ張り出したのは、あながちオースチンを壊しただけの理由だけじゃないはずだ」
 ひとつひとつの出来事が、頭の中で写真がめくられるように映し出される。それらは時の流れとともに、記憶の映像が薄まっていき、やがて彩度を失ってしまのに、忘れたくないものに限って鮮明に残ってしまう。そうなれば、ふるいに掛けられ底に溜まった残滓は、振り返りたくない記憶だけになっていく。
 そんな経験を継続していくことなど誰も望んでいない。ナイジがこの状況から一日も早く脱出しようとしているのは明らかで、安ジイもクルマのことだけでなく、そこにも手を貸してやりたいのは山々だ。
「 …なんだかいろんな人と関わった。この二日間はそれが集中したんだ。暗躍する何者かの的になったみたいに。ある意味それはオレのために用意されていたようでもある。オレがもう行き場がなくなってなんともならなくなっていた時に、それは現れたんだ… 」
 その起因になったのはマリとの遭遇であった。だからこそ引けない想いもある。自分がそこを拠り所にしたのは否めない事実だ。
「いつのまにか危険な領域に入っていると感づいていたけど止められなかった。何者でもなかった自分が、何かに変わろうとした。これが最後のタイミングなのかもしれないって焦ったとこもある」
 誰かに胸の内を聞いて欲しかった。しかしそれが誰でもいいわけではないし、正解や助言なんてものはいらず、ただ聞いてくれるだけでよかった。
 その部分をマリに託すのはお互いに荷が重く、とはいえ安ジイにその役目を担って欲しいと口に出すのも言いづらい。向こうから振ってもらえたことでタガが外れたのか、思いは一気に流出する。
「オレはそんな状況をまったく求めていないわけじゃなかった。もうそろそろ、なんらかの結論を出さなきゃって機をうかがっていた。そうでなきゃ、もう身体の中の澱みがそのまま腐っていくだけだ。自分でも驚いてる。動きはじめたら連鎖反応が起こったみたいに扉が開いていくし、何か行動を起こせば次々と誰かに関わり、誰かが関わってくる。まるでビリヤードのホールショットだ。ひとつの出来事が次の事象を呼び、それが次の展開へつながっていく」
 安ジイの顔を見る。最小限の動きで息をしているその表情は、話しを聞いているのか、いないのか。それでもナイジは構わない。
「そうしてオレは最後にはレースに出て、どうやら多くの人に影響を与え、次の思惑へと乗せられようとしている。不思議じゃないか、オレがもし何かひとつでも別の判断をすれば、例えば、あの土曜の夜、ロータスとやりあわなきゃ、今とは違う世界が進んでいたんだ。オレはあいかわらずリザーブやってて、オースチンもこわれることなく、アンじいと次に合うのは… どうかな、葬式の日とか」
 安ジイは表情も変えず、葬式に来る気あるのかと訊いた。ナイジはどうかなとあいまいに答える。
「例えだよ、例え。だからさ、大なり小なり世の中はそうやって回っていくんだろうけど、自分を中心に振り返っていけば、そういうことになる。他のヤツラからみれば、オレの判断はなんの意味も持たないし、かえって迷惑な関わり合いでしかない。リクさんだって、ここのオヤジだって、安ジイだって、 …そうだろ?」
 安ジイは2ミリほど眉をあげた。孫ほどのナイジに人生を知ったように語られても、それを軽んじたりするつもりはない。それをみてナイジはコーヒーを口にする。昨日からの流れを反芻しながら、翻弄されているちっぽけな自分を披露するのは安ジイだからこそ言えることだ。
「自分がどこかで求めてたんだ。だから、呼び込まれて、迎え入れた。乗っかるつもりはあったけど、飲み込まれちまったのは自分でも意外だった。一線を引いているはずだったのに、そうじゃなかった。結局、オレも、誰かが仕組んだサーキットの歴史の一部に組み込まれるたったひとつのカケラなんだ」
 ナイジの言葉が出きったところで、安ジイの顔の、シワの下の部分から言葉が漏れてきた。
「ナイジよ、現実ってヤツは、ひとつっきりだ。あーしてたら、こーしてたらなんて、ワシぐらいになってから後悔してればいい。すべてには理由があって今につながっている。オマエが判断してきたことは、そうしなければならない理由があり、それ以外は在り得ないはずだ。周りで関わったヤツラだって同じことだ。選択できる道はいくつもあるがたどり着く場所は、誰にだってひとつだけだ」
 安ジイの言葉だけを耳でとらえて、ナイジはマグカップに揺れるコーヒーの表層を見つめていた。安ジイの言うように割り切らなければならないのはわかっていても、いまはまだ素直に認められない。
「せっかく、開けた扉だ、結論を出せ。そして、オマエ自身の行動がサーキットの歴史に刻まれるようになれば、ものの見方も変わってくる。不思議だがいまその手札はオマエの手の中にあるんだ」
「 …そう言われてもな。オレにはなにひとつ実感できていない。次の闘いでそれが実感できるなら、オレにはもうその選択肢以外なにも考えられない。オレの手の中にあるのは手札じゃなくて手詰まりだ」
「ふん、オマエも相当に追い込まれてたんだな。追われるようにあがき出したら、ここまで来たがそこに自分の意思がどれほど関わっていたのか疑心暗鬼だ。オマエは従属されることに対して、過剰に反応しすぎるきらいがあるからな。どこかで根強く植え付けられたのか、もともとがそういうタチなのか知らんが、余り深く考えるのも善し悪しだ。人の業は複雑だ、一面では計り知れん。張り巡らされた無数の意図がからみあって現実を形成していく。オマエもその一部なのは間違いない、もちろんワシもだ、かなりフチの方に追いやられたけどな。今のオマエがなんの干渉も無い日々を過ごそうとするには、その才能がジャマをするだろう。手の内に置いておきたいとする、鼻の効くヤツラが放ってはおかんだろうからな」
「才能って… だからオレは自分の才能なんか信じちゃいないんだよ」
「それでいい。そんな奴は身を亡ぼすだけだ。ただな、人と絡むのが怖いのなら何もするな、そうすれば世間はあっという間にオマエを死人にしてしまう。それはまだ無理なハナシだろう。そう思えば、何かに組み込まれていけばいいだろ」
 丸まった言葉で多く伝えようとする安ジイに、ナイジは抵抗しながらも心は落ち着いていく。必要以上に言葉を補填しなくても会話が成り立つことがさらに口を軽くしていく。
「そうだな、縁側でアンじいの茶飲み友達になるにはまだ早過ぎるし遠慮しとくよ。オレもアンじい以外にかみ合う相手がいないけど… いや、ここのオヤジとは全然かみ合わなかった。それどころか、かなり嫌われっちまった」
「権田か、アイツは一本気で真面目なヤツだからな。もう少し遊び心があってもいいんだが、オマエのようなクソ生意気な若造は相容れんのだろ。しかし、腕は超一流だ、ワシが目をかけて直々に仕込んだんだからな。まあ、後のことはワシが上手いことやっとく。手は出さんが、口は出すのが老人の悪いところだ」
「頼りにしてるよ、アンじい。どのみちオレじゃクルマのこと何の言葉にもできないし、あの人を動かすすべもない」
 安ジイにお礼を言ってすぐにアタマの中は別のことを考えていた。深くアタマを下げたかと思えば、顔を上げ横目で何かを探している。そのまま、しかめっ面になり再びアタマを下げる。
 安ジイは変に焦らせることも無く、ナイジの表情を観察し、心の動きを注意深く読み取って、口が開かれるまで静寂で応えた。何度も開きかけた口から、ようやく空気を震わせ安ジイの耳に伝わってきた。
「あのさ、オレがレースに出たのは、自分のこと以外に、いやそれ以上にもうひとつ理由が… 理由っていうか。オンナなんだけど」
 ナイジが言いあぐねた言葉でも安ジイは微動だにしない。言いづらそうにしているのは未だ自分の中でも整理がついていないからだ。安ジイの眠っているような表情は静かに時を待った。
「アンじい、昨日、アンじいを頼らずにすんだのも、そのコがいたからなんだ。取ってつけたような言い分だけど、突然、ほんとに突然、彼女が現われて、オレはかなり救われたんだ。オレも彼女の言い分が良くわかったし、彼女にも自分のことを話せた。オレの言いたい言葉が吸い取られていったんだ。もう少しで腐蝕してしまうところだったオレは、つい、いい気になって自分の膿を放出していった。そうしてくれるマリを、彼女の善意だと決め付けて… なんだよ、アンじい、笑うなよな」
 照れくさいナイジではあるが続けないわけにはいかない。
「まあ、それで、オレはずいぶんと楽にはなれたんだ。勝手な思い込みなんだろうけど、しょせんはそうやって延命を繰り返していく、彼女に自分の引き鉄を任せたんだ。そうでもしなきゃ、どっちに進めばいいのかわからなかったのも事実だったし。ずるい考えだ、結局、大事なところを人に委ねている」
 口の中の水分が一気になくなり、コーヒーの残りを飲み干す。
「その娘、志藤先生の親戚の娘みたいで、医務室でパートして働いてるんだって。知ってる?」
 最後は照れを隠すつもりか、どうでもいいような情報を継ぎ足していた。安ジイはゆっくりと首を横に振り口元のしわを伸ばした。
「へっ、そりゃよかったな。老人とおるよりオナゴとイチャついとった方がええに決まっとる。男が何かやろうとする唯一無二の理由はオンナだ。オマエもご多分に漏れんと見えて安心したぞ。ワッハッハッ、しかしオマエの言葉を受けるたあ、なかなかのオナゴだな。なるほど、それで、随分と埃も払われたみたいだし。ただクルマに関してはそうはいかんからワシを引きずり込んだな。随分と簡単に使いまわされる身になったもんだ」
「妬くなよ、週末までピッタリ一緒にいてやるからさ」
「たわけ、老体なんじゃから、そんなに働けるか。ほっときゃコキ使おうとするなオマエは。まあいい、それでクルマの何が気になった?」
 そうしてナイジは、やはりレース前の感じた引っかかった感覚について話さなければならないと意を決した。
「さっきも少し言いかけたんだけど、ああ、ここのオヤジさんにも伝えたら、変人でも見るような目でみられて寝言扱いされたけどね。オレ、いつも走る前にさ、オースチンのことを脳内に浮かべてみるんだ。いろいろとね。そうするとあらゆる接地点から今のクルマの状態が伝わってくるんだ」
 安ジイのシワがピックっと動く。ナイジは言葉を止めても安ジイは続けろとばかりにアゴをしゃくる。
「ステアリングから伝わるときもあるし、スロットル、ブレーキやクラッチの場合もある。シフトノブ、シートの奥からだって。あのときはどこからか忘れたけど、リアのデフかドライブシャフトの辺りでほんの少し、引っかかる感じがあった。継続的じゃなかったし。そこで、クルマを出すタイミングになっちゃって。オレもいつも以上に入りこんでたんだ。不破さんに急き立てられ、頭が走るほうに切り替わっていた。それで、そのことを閉じ込めてしまった」
 横目でチラリチラリと、それからの安ジイの反応を確かめながら話していった。最初の反応以外は微動だにしなかった。
「厄介な話しだな。普通なら気付くこともなかったことをオマエは気付いてしまった。そいつはな、結果が出なきゃ、結論は出ないハナシだ。自分以外、誰もまともにとりあっちゃくれねえよ」
 素直にうなずくナイジ。それは安ジイがなんらかの結論を導き出してくれるという信頼感があるからだ。
「なあ、ナイジよ、この歳まで生きてるとな、大概のものは目にしてきた。なにが起きても不思議じゃあない、すべてが現実だった。ワシは人の持つ能力には、突き当たりは無いと思っとる。どうやら、凡人では本当に使える能力の1割も使かっとらんそうだからのう。この奥に秘めた能力ってやつは、繰り返し鍛練していくうちに尋常ではない力を発揮するらしい。そのくせに普段から無意識のうちにやっとることを、ひとつ順序を変えただけで同じことができんようになるからおかしなモンだ。頭で考えようとすることで、多くの経路を伝いその分抵抗が増え、瞬発的な力に変わらんくなるんだろう」
 何度も相づちを打ち、聞き入るナイジ。
「なんかわかるよ、それ。リクさんの電話番号とか回す時なんか、いちいちアタマで考えなくても手が勝手に動くのに、番号を教えてって誰かに言われたとき、数字が出てこなかったんだ。空でダイヤル回す真似して、番号思い出して。そんな感じ?」
「フッ、ややこしい例えだが。まあそんなようなもんだ。自分の持つ能力の最初の熱量を減らすことなく、全身に行き渡らせることができれば、人間の可能性はもっと限りなくなるんだろ。それとは別になるが、オマエもまだまだだったな、自制心が欠落しちょる。危機回避能力がドライバーに取って何よりも優先されるんだ。そこを切り捨てるようじゃあ、その能力も宝の持ち腐れだな。せっかくクルマが教えてくれたのに、それを活かせれなんだとは」
 そう言って嗜める安ジイではあるが、そこまで行きついている能力には舌を巻いていた。自分でも機械の声が聞こえるようになったのは晩年になってからだ。ナイジが出来ている範囲がどれほどまでかは知らないまでも、この若さでは驚異的な能力といっていい。
 日ごろからの反復練習の繰り返し、果敢に攻めることで失敗してもそこから導き出した次なる一手、そして極限まで高めた集中力が身を削ることになろうとも突き詰めていく。そういった学習経験がナイジに他人よりは数段速くその能力を植え付けていったのだろう。
――本人はそれをふつうのことだと思ってやってるだけだろうがな。――


最新の画像もっと見る

コメントを投稿