private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

継続中、もしくは終わりのない繰り返し(パブ・ペニーレインにて2)

2024-12-29 17:07:19 | 連続小説

 ひと通り言いたいことを言って満足したようで、ユキはビールからカクテルに替えて、ゆっくりと飲みはじめていた。店内に静けさが戻った。
 コウがテーブルを拭く時のダスターが擦れる音や、グラスの水気を取る時のキュッキュという音だけが耳に届く。2杯めを飲みはじめたショウは、そんな清音の中で目頭を抑え、考えごとをしていた。
 日中の母親の動向が心配で、一度だけ行政に相談をしに行ったことがあった。担当の人は見るからに多忙そうで、自席と相談者のあいだで行ったり来たりを繰り返していた。
 ひとつの案件を処理するのに30分はかかっていた。これでは自分の番が来るまで有に2時間はかかるだろう。ショウはその日、会社は午前休を取っており、平日にしかできないことをまとめてこなそうと、色々と予定していた。
 2時間の待ち時間の合い間にそれらを片付けられれば効率がよいのに、予約券の発行があるわけでもなく、応対してもらうにはひたすら順番を待つしかなさそうだ。
 この時間を有効に使えればあれもできる、これもできると、そう思えば思うほど、余計にフラストレーションがたまってくる。
 こういった時間の浪費にしても、多くのひとたちの経済活動をどれだけ阻害しているか、誰か真剣に考えた事があるのだろうかと疑問でしかない。 
 それだけでなくショウは、会社で自分のしている業務と比べて、異世界にでも迷い込んだかのような錯覚を覚えた。仕事でお客様の一分一秒を無駄にしていては、競合他社に寝返られてしまう。そして、他社よりスピーディーな対応をすることで、他から顧客を獲得することも出来る。
 それを思うとここは隔世の感がある。他に選択肢がない仕事では、他に頼るところもなく、そんな顧客が従順に従う姿に勘違いすれば、サービスの低下につながっていってもしかたない。
 ただショウの会社にしても、スピードでしか勝負できていないからそうなるわけで、他にオンリーワンの技術とか、他社との差別化出来る部分がなければ、脈々と続くスピード勝負にいつしか疲弊していくだけだ。
 時間に勝ることに執着して、仕事の本筋から外れており、その時さえよければの勝ち負けに一喜一憂していれば、将来への展望を考える余地もなくなる。あえてそうしていように。
 ショウも実際に、ここの仕事ぶりを見て、羨ましさも同時にあったのは否めない。結局待ち続けるしかなかったショウは、他の要件をひとつも片付けることもできずに、順番が回ってきたのは正午に近かった。
 ようやく面談した担当者に言われれたのは、近所の民生委員に相談してみたらの一言だった。そんな人が近所にいるのかわからないし、知っていれば最初からそちらを当たっている。
 もっと行政ならではの取り組みとか、対応場所などへの紹介が合ってもよさそうなものだと、そう食い下がるショウに、もう昼休みだから、続きが話したければ、1時になったらまた来ればと言われた。
 ショウは心の中で煮えたぎる怒りを飲み込んで、平静を装い礼を言って、急いでこの場を立ち去った。ここで行政への不満を述べても何も変わらない。この担当者にしても、こうしてこれまで仕事をしてきただけだ。未来を変えようとしているわけではない。
 グラスのフチを指でなぞりながら、コウの仕事ぶりを眺めていたユキが、不意に問いかけしてきた。
「知ってる? コウちゃん。ミタムラさん、またボクサー育てる気になったみたいよ」
 コウは磨ていたグラスを照明にかざし、透明度を確認してから食器棚に置いた。ユキの問には少し首を捻るにとどめた。
「それが今度は女のコだっていうから嗤っちゃうわよね。どこまで本気なんだか」
 そう言ってため息をつくユキは、頬杖を付いてコウの方を見上げる。コウはさあといった風情で両肩をあげる。興味がないのかとユキは、もうそれ以上を言及することはなかった。
 興味がないわけではない。いくつかの思いがあたまの中を巡って、ユキへの対応が疎かになっただけだ。
 あそこはもうボクシングジムというよりスポーツジムになっていた。それも女性客目当てにボクシングエクササイズを売りにしているだけで、もう本格的な設備は整っていないはずだ。
 ミタムラも経営者というより、生活のために管理人の仕事をしているだけだった。あの日以来、人が変わったようにやる気を失っていたミタムラが、再びやる気を取り戻したというならば、よほどの逸材に巡り合ったのか。
 しかしそれが女となると話しは別だ。あのミタムラが、女をリングに上げるなど想像がつかない。前世の遺物のような人間だ。
 女は男がいい仕事ができるように下支えに徹しろというタイプで、ただでさえ表に出ることを極端に嫌っている。それが女をリングに立たせようなど、コウからすれば天地がひっくり返るぐらいの出来事だ。
 棚からシングルモルトのウイスキーを取り出して、グラスに1センチほどそそぐ。ユキに付き合ってコウも少し飲むことにした。
 グラスをユキのカクテルグラスに軽く当て、乾杯をしてひとくちだけ含んだ。今日はもう客足は期待できそうにない。それに混乱したアタマを鎮めたかった。
「わたしにも、もう一杯ちょうだいよ」
 最後のひとくちを口に含み、グラスの底を指で挟んでコウに差し出す。コウも残りを一気に呷って、おかわりのドライマティーニを作り出す。
「時間外手当にしないでよ」酒を飲みはじめたコウに、ユキは憎まれ口を叩く。
「少々飲んだからって、不細工な仕事はしませんよ」
「ふーん、じゃあ美味しくなかったら、コウちゃんのおごりね」
 お互いにいつものやり取りで、漫才の掛け合いみたいなものだった。飲んでいようがいよまいが、コウの仕事が雑になることはないとユキが一番知っている。
「美味しかったらコウちゃんの分も払うから、わたしのにツケときなさいよ」
 それはユキ流の遠回しな言い方で、少しでも店の利益につながるようにコウを気遣っている。それがユキひとりでは、たかがしれているとしても。
 シェイカーにカクテルの素材を流れるように投入したあと、砕いた氷を少し追加してゆっくりとシェイクしはじめる。派手なパフォーマンスをすることなく、中身の状態を見通すようにシェイクしていく。
 ショウは見るでもなしに、横目でその動きを見ていた。動きや流れに一切の無駄がない美しい所作に見惚れてしまう。
 何故か右手の人差し指は、何をするにも伸ばしたままで、何か不具合があるのか、そうしておく理由があるのかショウにはわからない。
 ユキは知っているのかもしれず、今さらそれについて言及することもない。コウはそれで美味しいカクテルを作り出す。そこに何の理由があろうと知る必要はない。
 何度かこの店で飲んでいたショウも、これまで気にもとめなかったコウの仕事ぶりがやたら気になり、今では気づけば自然と目がそちらに向いていた。
 失礼ではあるがそんなに繁盛しているとも思えない。今日も身内らしき人と、たまたま来店した自分だけしかいない。それでもプロとして仕事に手を抜かない姿勢に感心してしまう。
 同じ仕事中でありながらも、やらされている仕事と、やりたい仕事との差がそこにあるのに、収益に差が出てしまうことに疑問でしかなかった。
 新しいカクテルグラスを取り出し、曇りがないのを入念に確かめると、丁寧にカクテルを注いでいく。ひとくち含んだユキから感嘆の声が漏れる。
「じゃあ、遠慮なくご馳走になります」ニヤリとしてコウはグラスにもう一杯注いだ。
「ちょっと、おごるからって何杯も飲まないでよ」
 ユキは目を細めて抵抗する。コウはそのツッコミには反応しなかった。そしてお互い小さく笑う。
 そんなふたりの親密なやりとりを見て、ショウは疎外感が少なからずあった。グラスは空になり、いい時間にもなっていた。店主に声をかけて精算をお願いした。帰り際にドアを開けて店主は見送りをしてくれた。

「すいません。騒がしちゃって」そう言ってコウはアタマを下げた。
 店主がそんなことを言ってくれるなど思いもしなかったショウは急いで首を振った。
「いいえ、そんなこと。お客さんひとりひとりを大切にしているんですね。すみません。端から見ていていろいろと勉強になることがありました」
「はは、その割には客が少ないし、もうそういう時代じゃないんでしょうね。これに懲りずにまた飲みに来てください」
 そう言ってコウは微笑んだ。ショウもアタマを下げて返答する。
「ええ、久しぶりだったけど、このお店、落ち着くんです。これからはもっと頻繁に寄らせてもらいます。だから、、、」
 だから、店をたたむことなく続けて欲しい。そうショウは言いたかった。これ以上は出てこなかった。いまだ感情を制御しつづけて、そして感情を制御できていない。それでもなにかが変わるような気配があった。
「なので、また来ます。ごちそうさまでした」
 だから、なので。つながらない言葉にキョトンとするコウ。ショウは笑顔だった。よくわからない状態でも、それでコウは満足だった。ショウの後ろ姿に深々とあたまを下げる。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(パブ・ペニーレインにて1)

2024-12-22 16:37:04 | 連続小説

 店のドアを開けると、暗い照明の中で棚に並べられた幾つものボトルが鈍く光っていた。黒光りしているカウンターには無数の傷が入っており、この店の歴史を物語っている。
 止まり木の足元には足を乗せるポールがあり、金色の塗装はくすんだ色に変色しており、ところどころが剥離して地金の銀色が露出している。
「いらっしゃいませ」店主のコウはそう言ってショウを迎え入れた。
 黒いピンストライプスーツのズボンを履いて、白いウイングカッターに棒タイを止めていた。上着は着用しておらず、ズボンと同柄の直着を羽織っている。
 この光景だけを切り取れば、禁酒法時代をイメージしたギャング映画のワンシーンを思い起こさせ、それがコウにはサマになっている。
 ショウは軽くアタマを下げて、なかほどのスツールに腰掛けた。痛めた足を庇いながら着座する。
「久しぶりですね。お客さん」コウにそう声をかけられ、はにかむショウ。
「ご無沙汰しちゃって、すみません」照れくさくそう言うショウ。コウはクビを振った。
「確かお勤め先は、ひとつ前の駅でしたよね? 以前より足が遠のいても仕方ありませんよ」
 ショウはええと微笑んでロックを注文した。さすが客商売をしているだけあり、1年ぶりぐらいの来店になるのに自分のことを細かく覚えている。
 就職前に店に来た時に、就職後は来づらくなるような話しをしたのだろう。それにしてもさすがの記憶力だ。そう思うと迂闊なことは話せなくなると自制が働く。
 おしぼりを渡され手を拭きながら、久しぶりに顔を出した経緯を簡単に話した。先のこともあり支障のない範囲に留めておく。
 朝の通勤の際に一駅乗り過ごしてしまい、ホームの渡り通路を通った時に、この商店街のアーケードが目に入って、久しぶりに寄ってみたくなったと告げた。大筋は間違っていないが、随分と端折った説明だった。
 コウは今はモールって呼ばれてますと、他人事のように言ってグラスを置いた。そう言われてもピンと来ないショウは、そうなんですかと曖昧な返事をする。
 結局、それについてコウが説明をすることもなく、ごゆっくりと言われたあとは話しかけられることもなく、コウも奥に引っ込んで行った。
 ショウにしてみても、店主と久しぶりの再会を楽しむために来店したわけではなかった。家に帰り母親と会うのを避けたかったのと、ひとりで考えごとがしたく、朝の件もありこの店を訪れた。
 店主はいつも来店時には、二〜三の言葉をかけてくれたあと、それ以降は追加をオーダーする以外は、放っておいてくれる。それは今日も変わることなく、グラスを置いてからはショウに絡むこともなく、自分の仕事に務めている。
 店内には優しい女性ヴォーカルの歌が流れている。ショウにとって知っているようで知らない曲であり、そんな環境が考えごとの邪魔にならない雰囲気を醸し出しており、ここに来て正解だったと自己肯定する。
 今日は仕事中に学生時代の友人から電話を受けた。近頃はご無沙汰にしているとはいえ、急用でもなければ仕事中に私用の電話をしてくるタイプではない。切り出しづらそうで、声も若干ではあるが涙声になっており、ただならぬ気配を感じた。
 ようやく口から出された言葉は、ふたりの共通の友人が亡くなったという要件だった。死因は聞かされていないらしく、とにかく突然の訃報にうろたえており、そこまで言うと涙声に変わってしまった。このままでは埒が明かないので一旦電話を切り、仕事が終わったらかけ直すことにした。
 そこで改めて聞いた話では、亡くなった友人の親御さんから、故人の遺物のかたづけをしていたら、友人の連絡先が書かれたメモ帳が見つかり、一番上に書かれていた自分に連絡してきたとのことだった。
 他に伝えたい友人がいれば、アナタからお願いしますと頼まれたので、最初に思い浮かんだのがショウで、それで掛けたのだと言った。
 ショウと亡くなった人は、学生の頃に同じサークルで一緒だったぐらいの仲だ。卒業してからは顔を合わすことはなくなっていた。彼が故人とどれほどの仲だったのも知れないが、号泣するぐらいだから、それなりの間柄だったのだろう。
 そういった温度差があったからなのか、ショウは電話先の友人のように感情が振り切れることはなかった。それともよくあるパターンで、友人に先を越されたために冷静でいられたのか。
 ひとり首を振るショウだった。そうではない。泣けない言い訳を探しているだけなのだ。
 もちろん同い年の知り合いが、若くして亡くなったことには衝撃があった。死因を知らないことを差し引いても悲しみの感情がわき上がってもよさそうなものだ。少なくとも学生時代に一時期を共にした仲だ。電話口の友人のように思いっきり泣いて、感情を共有しても良いはずだ。
 そうではなく、涙がこぼれることのない自分に愕然としていたのだ。ここ数年、母親との関係もあり、感情を極力表に出さないようにしていた。それが一因であると思いたかった。
 涙を流したのはいつが最後だったろう。数年前に、当時人気絶頂だったF1パイロットがレーシングアクシデントで突然死んでしまったとき、気がついたら涙がとめどなく出ていたことがあった。その数ヶ月前に叔父が死んだときは、一粒も出なかったのに。
 泣かそうという魂胆が見え見えの映画にも簡単にオチて、自分でも驚いたことがあった。以前なら作り物の話しに泣いている友人を小馬鹿にしたものだった。
 自分の感情を出さないようにしている反動で、バランスを取るように、カラダが自分の意志とは別のところで反応しているようだった。そうであれば自分は、そういった感情をコントロールできない人間になってしまったのだろうか。
 笑いたい時に笑う。怒りたい時に怒る。泣きたい時に泣く。そういった行為を遠ざけていたことで、いつしか能面のような表情に凝り固まっていった。
 今の自分の状態をすべて母親のせいにしようとしている。そんな自分が止めどもなく嫌だった。両手で顔をふさぐ。コウが奥からチラリと目を送ったがまだ動かなかった。
「あー疲れたあ!」ドアが開くと同時にそんな声が店内に通った。ピンクのスーツに身をつつんだ妙齢の女性が現れた。
「あらやだ、お客さん。ごめんなさい」ショウの存在に気づき、軽く会釈して口元を押さえる。
 ショウもつられるようにアタマを下げた。ユキは一番奥の席まで進み腰を落ち着ける。カウンターをはさんでショットグラスを念入りに磨いていたコウが振り返りオシボリを差し出す。
「どうしたんですユキさん?」
「どうもこうもないわよ。あっ、ビールちょうだい」おしぼりで手を拭きながらオーダーする。
 コウはフリーザーから中瓶と冷えたグラスを取り出し、栓を抜いてグラスに注ぐ。キレイな泡が2cmほど盛り上がった。プロの仕事だった。
 ユキはそれを手に取ると喉を鳴らして一気に飲み干した「あー、美味しい!」。
 空になったグラスをテーブルに置くと、再びビールを注いだ。今度は泡は持ち上げず、3cmの泡でビールをふさいだ。それがユキの好みだった。
「もう、聞いてよコウちゃん。近頃の若いコときたら、、」ユキはそんな話しをしはじめた。
 ユキの外見からして、自分も十分その若いコの範疇に入ると、ショウはどんな内容か興味を持った。良い話でないとわかっている。
「モールの一斉清掃があるんだけど、全然協力してくれなくてね。自分たちが働いてるところなんだから、自分たちでキレイにするのが当たり前でしょ」
 そう言ってユキはグラスのビールを半分ほど飲んだ。コウはそこへビールを注ぎ足す。きっちりと3cmの泡を作った。
「若いコって、皆んなバイトでしょ? 以前みたいに自営やってる人なら、若いヒトも家族と一緒になって協力したでしょうけど、バイトなら時間外に仕事しろって言ってもね」
 コウの言う通りだとショウは肯定した。ユキは納得しない。
「そりゃ、そうだけど、同じモールで働いている皆んなでやるっていうのが大切でしょ。そうやってお金だけじゃなくて、助け合ったり、仲間意識を持つことが、いざという時に自分のためにもなるのよ。掃除という手段を用意して、そういう連帯感を持つチャンスを提供してるんじゃない。だいたいね、、、」
 止めどなくユキは持論を語りだした。コウは微笑みながらその話を聞いている。それが自分の仕事だとわきまえている。
 ショウは不満が表に出ないように抑えつけていた。それがいけないことだとわかっていたも逃れられない。そして母親のことを思い出してしまう。自分の都合ばかりを押し付けて、コチラの言い分を聞こうとしないのだ。
 例え聞いたとしても自分の若い時はこうだった、ああだった、もっと大変だったと、比較できない対象を持ち出してくる。大変なのは人それぞれの基準であって、誰かと比べて競い合うモノではないはずだ。
「、、だいたいね、わたしたちの若い頃は、目上の人に言われれば二つ返事でしたがったものよ。ああだ、こうだ、口ごたえなんかしようもんなら一喝されて、あとからもまわりの人にヤイのヤイのとお小言をいただくことになって大変だったんだから」
「ユキさん、経験済みですか?」ユキはコウの問いかけに、ユキはピンと来ておらず少し間が空いた「イヤだ、違うわよ。知り合いのハナシよ」。問いを理解して直ぐに否定する。コウはただ肯くのみだ。
 あの人も若い頃は、最近の若い者はと言われたクチだ。ショウはそう嘯いた。比較対象ではなく、自分の基準から乖離があるかどうかで、結局は不条理に懐柔されるか、抗うかの差が出る。
 以前は言えない環境に身を置き、泣く泣く従ってきただけで、声を上げられる今では自己主張が認められているし、しなければ流されて都合のいいように使われる。戦う環境を自分で作ったわけではない。そんな思いがアタマを巡る。
 残り少なくなったグラスを手の中で転がす。お代わりをしようか考えあぐねている。今は目立った行動は取りたくなかった。
 あの人のように、ひとの弱みを立てに取ったようなボランティアを押しつけることで、この国がどれだけの経済的損失を被ってきただろうか。
 掃除をするなら清掃会社に依頼して行い、その費用をモール全体で負担すればいい。そうすれば掃除に駆り出される人達は、自分達の行うべき経済活動に従事できる。
 清掃会社は無償の代行者に仕事を奪われることもないし、お金が動くことで地域の経済が活性する。掃除に来た清掃員が食事などでモールにお金を落とすだろうし、今後のリピーターになったり、知り合いに紹介するかもしれない。
 そうすれば清掃会社を選択する基準も自ずと変わってくるだろう。単に価格だけで選ぶより、そこをキッカケにして今後の収益が見込めるかも判断材料に加えれば、多少高くても地元の業者を選ぶとか、最終的な利益を考慮すべきだ。
 そういった人の行き交いが循環がする仕掛けを考えたり、清掃自体をイベントとして組み込むことだって出来るはずだ。
 ユキの話しが途切れたところで、コウがさりげなくチェイサーを持って来てくれた。ショウは空のグラスを持ち上げ、コウの方に寄せて人差し指を立てた。おかわりの意だ。
 コウはうなずいてグラスをさげた。こういったあうんの呼吸で意志が伝わるとこがいい。なんのストレスも感じずに物事が思い通りに進んでいく。
 それが酒代の対価に含まれているのは当然だ。サービスではなく日常で自分で行えないことを代替えしてもらっているのだから、ビジネスにおいて正当な対価のやりとりとして成立し、お互いに報酬を得ている。
 その一方で無償で清掃をさせる行為がまかり通っている。それを人情や、人の弱みに付け込むような奉仕を強要し、不払い労働をボランティアなどと耳障りのいい言葉に挿げ替えるから、この国の経済力は下降するばかりなのだ。
 何のアイデアを捻り出さなくても、これまでそうしてきたからという大義を振りかざして搾取している。ショウにはあの人達の無思考や、労力をかけず仕事を消化しようとする行為が許せなかった。
 いつしかショウの不満の矛先は、母親から母親の相談をしている行政の硬直化した仕事振りに向いていった。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(ギター屋の店内3)

2024-12-15 16:05:31 | 連続小説

 アキは差し出されたギターを見て右往左往してしまい目が泳ぐ。オサムは意味深か気にうなずいている。グイグイとユウリに押し付けられて、アキは仕方なく手に取るしかなかった。どうやら捕食されたようだ。
「せっかくだからさ、これでさオサムにギター教えてもらいなよ。中古品だから安心して弾けるでしょ。もし気に入ったら買い取って貰ってもいいし。その時の値段は要相談で」
 屈託のない笑顔でそう言われてしまった。アキはこういうオシに滅法弱い。ここまでされてしまえば、気に入ろうが入ろまいが買ってしまいそうだ。
「あっ、いいねえ。これも巡り合わせかもよ。簡単な曲でも弾けるようになれば、家でも練習できるしよ。オレは全然かまわないよ」
 すでに買う流れになっている。オサムは講師を行うことも意を介していない。そして一度手にすると、脳内で所有願望が高まってくるようで、古びたギターもこうしてみると、自分を待っていたかのような錯覚になり愛着も湧いてくる。
「チューニングできる?」ペグを指さしてオサムが訊いてきた。
 直ぐにクビを振るアキ。そう思えば高校の時に弾いたギターはチューニングなどしなかった。音程があっているつもりで弾いていた。
 もしかして、それが原因でうまく弾けなかったのではないかと疑念がアタマに浮かんでくる。たしかに譜面通りに弾いても弦が変わると、なんだかしっくりこなかった。
 そうであっても自分がヘタだからだと、音程の合わないまま何度も練習を繰り返していた。誰の手ほどきも受けず、チューニングの概念がなかった若い頃の自分が恨めしい。
「そう、じゃあ開放弦で上から1弦づつ鳴らしてみて、、」
 これはもう個人レッスンのはじまりだ。自分基準ではあるが、これほどのギタリストにマンツーマンで手ほどきを受ければ、普通ならいいお値段になるだろう。
 ここまでしてもらって、じゃあ失礼しますでは済まなさそうで、ますます外堀を埋められつつあるアキだ。これまで何かをはじめようとしたとき、誰かに教えを請うことはなく、どちらかと言えばそういう機会を避け続けていた。
 自分のペースで行わないと極度に緊張してしまい、一歩も進めないと知っている。だからあえてその場に身を置こうとは思わない。
 このような流れでなければ、ギターレッスンを受けることなどアキの人生ではなかったはずだ。今は丁寧に教えてくれるオサムを無下にすることもできず、素直に手ほどきを受けられる。
 そうではあっても心臓が高鳴っていく中で一弦目の音を鳴らす。オサムに言われるがまま、ペグを一度緩めてからゆっくりと締めていく。そしてストップと言われたところで止める。手が震えてうまくペグを扱えない。
 もう一度、弦を弾く。よければ次の弦に行くし、もう少し微調整が必要なら繰り返す。それを一番下の弦まで行っていった。オサムは根気よくつき合ってくれた。
 ギターのチューニングが進むにつれ、アキはこれまでにない境地に誘なわれいく。音を鳴らし、息を止めて弦を張っていく。それと同調するように緩んだ心が少しづつ張りつめて、いい緊張感が生まれてくる。
 自分がうまく制御できなく気持ちと身体がバラバラになってしまうことがあると、アキはそれを元に戻す方法がわからなかった。環境と内面と身体が一致して、自然と平静を取り戻せるようになるのを待つしかなかった。
 うまく言語化ができないアキだったが、ギターのチューニングしていくと、なんだか自分の心うちまでも、調和と均衡がはかれるように調節されていった。
「ホントなら、ハーモニクスしたり、音叉使ってやるんだけどな。初心者ならこれぐらいで十分だよ。どうしてもちゃんとしたチューニングしたかったら、チェッカー売ってるから、それ使えば素人でもできるよ」
 自分は撒き餌だと言いながら、しっかりと捕食者にもなっている。この調子でギターは安くとも色々な備品を勧められ、最終的にはソコソコの金額になっていく作戦なのではないか。そもそもこの中古のギターがいくらなのかもわからない。
 これまでのアキであれば、この状態にパニックになっていただろう。次から次へと噴出する不安事項があっても、今のアキは受け止められていた。
 オサムの丁寧で優しい手ほどきや、もしかしてギターが弾けるようになるのではないかといった期待も後押しして、抗うことができないほど追従している。
「じゃあ次はコードね。おさえかた知ってる?」
 そう訊かれてアキは自信なさげにこたえた「主要コードと、マイナーと、セブンスぐらいは何とかですけど、、」。
 思い出しながら押さえられるぐらいで、スムーズに移り変えられる自信はない。
「上等、上等。そんだけ押さえられれば十分だ。今から教えるのは、オレが知る中では世界で一番簡単なコード進行で、世界で一番叙情的な曲だ。いい? ゆっくりでいいから、オレの言う通りコード押さえってって。まずはC」
 オサムはCコードを抑えて、右手で弦を撫でるように鳴らす。キレイなハーモニーが奏でられる。
 アキもオサムの指を見てから、Cのコードを思い出しながら指をおさえる。指先で弦を鳴らしても、オサムのような張りのある音は出ない。途切れ途切れでこもった音がするだけだ。
「オーケー、次はG」
 一番下の細い弦をオサムは小指で押さえたが、アキには小指の握力に自信がないので薬指でおさえる。そうすると、その指を目一杯に畳まなければならず手を攣りそうになる。それでは弦が浮いてしまい、Cよりさらに音がこもった。
「いいよ。次はAm」
 Amは比較的楽だ。ネックを親指と人差指で固定でき、残りの指も無理なく弦を押さえられる。はじめていい音色が出た。それでもオサムの音はもっと深みと重みがある。それがギターの価格の差であり、腕の差なのだ。
 これだけ明確にわかれば仕方がないところで、うまくなればなるほど、その差は微小になっていくのだろう。それを聴き分けられることが、果たして幸せなのかは微妙なところだ。
 どんなプレイヤーの音でも、それが素敵に聴こえれば良いはずで、だったらアキにはそれを聴き分けられる能力は要らなかった。眉間にシワを寄せながら、この音はちょっと違うねなどと、御託を並べても誰も幸せにならない。
「はい、それで、直ぐにF」アキはこれまでにない声を発してしまう「エフ、エッ、エフー」。オサムはそのリアクションを想定していたらしく気にも留めない。
 Amからの流れで親指で1弦目、人差し指で6弦目を押さえるか、音が明確に出やすい人差し指で1フレットをすべて押さえる方法にするか。瞬時に悩んだ挙句に前者を選び、ミュートかというぐらいの酷い音を鳴らしてしまった。
「も一度C」オサムは気にせず先を進める。
 Cに戻ってアキはホッとする。最初よりいい音が出た。ここまで弾いて気付いたのは、この曲は世界で一番有名な4人組のあの名曲だった。
「誰もが思いつきそうな、簡単なコード進行だけど、誰も思いつかず。それを繰り返しているだけなんだけど、飽きることなく聴きたくなる。そしてなによりあのヴォーカルを引き立てる旋律なんだよなあ」
 そうオサムは絶賛した。アキにはそれほど思い入れはなくても、この曲をマスターできれば何度も弾いてみたくなる気がする。
 復習するようにもう一度繰り返してみる。BメロではラクなAmは抜きでFだけになる。それでもサビの部分を口ずさむとそれっぽく聴こえて、もう一度チャレンジしたくなってしまう。
「うん、うん 、いいよ、一回目より断然いい」
 オサムの言葉はリップサービスだとしても嬉しくなってくる。
「スゴイじゃん。もうそんなに弾けるようになったの?」
 またうまいタイミングでユウリが合いの手を入れてくる。背中がこそばゆくなってしまう。
「買っちゃいなよ。そのギター。千円でいいよ」そこでユウリがすかさず金額提示をしてきた。
「千円!」思わず訊き返してしまった。「高かった?」アキは無言でクビを振った。安すぎる。
「ホカしちまう予定だったヤツだけどなあ。かと言ってタダてえのはよくないからね。妥当なとこだね」
 オサムがそう言うと、アキは何度もうなずいた。レッスンまでしてもらって、タダでギターをいただくわけにはいかない。千円が妥当となるかどうかは、これからの自分の行動次第になる。
「値段なんてもんはさ、あくまでも指標でしかないにしてもさ、いくらかでも金は払った方がいいんだよ。自己投資への判断基準となるし、そうでないと自分の意識がないがしろになっちまうからね。満足する演奏ができるようになって、このギターの価値より自分の腕が良くなれば、次はそれに見合ったギターを買えばいいよ。言わばこのギターも撒き餌だね」
 確かに物に金額という価値が付くだけで、その金額に見合った行動を取るようになるものだ。いつしか高額のギターを手に入れられる自分でありたい。それがギターでなくてもいいかもしれない。
「あのう、、」アキはオサムが言っていたチューニングチェッカーなるものがいくらするのか尋ねた。3千500円で、あとギターを持ち運ぶためのソフトケースも、ユウリが再びバックヤードから探してきてくれた。全部で締めて5千円となった。
「チューニングやってから演奏した方がイイよ。絶対に。手の動きと音が一致しないと、どうしても気持ち悪さが出るから、弾いてても楽しくないし、長続きしないんだよねえ」
 オサムがそう教えてくれた。高校時代の嫌なイメージを払拭するためにも必要なアイテムだ。
「なんだかスイマセン。いろいろとしていただいて」
「いいのよ。こうして、ひとりでも楽器に興味持ってくれるひとが増えれば嬉しいし、これがきっかけで、あなたの人生に彩りを添えられるとイイわね。あとは次に高いギター買ってくれれば最高だわ」
 そう言ってユウリは笑った。オサムもそれがホンネだろっと言って笑った。アキはその言葉で逆に安心できた。変に善意だけに凝り固まっていなくて、商売っ気がイヤらしわけでもなく、そう言ってもらった方が信頼感が高まる。
 オサムが次の曲を引き出した。60年代頃から流行った男性デュオが創った、エンディングでライラライのハーモニーが印象的なあの曲だった。チャンピオンだったか、ボクサーだったか。そんな曲名とは余り一致しない、透明感のあるメロディだ。
 タイミングよく店先をシャドウボクシングしながらランニングしていく人影があった。小柄で中学生ぐらいに見えた。もしかしたら女性かもしれない。
 オサムと顔を見合わせて笑った。きっと同じことを考えていたはずだ。お約束で最後のパートはオサムと一緒に合唱した。ライラライ、ライラライラ、ライラライ、、 
 誰もがチャンピオンにはなれない。だが対戦相手がいて初めてチャンピオンが成り立つ。その他大勢もきっと大切な役割なのだ。それがオサムの回答なのだ。アキはそう理解した。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(ギター屋の店内2)

2024-12-08 15:43:36 | 連続小説

「不思議ですよね、、 」
 アキが言いたかったのはこういうことだ。プロの演奏だって聴くのは自分のような素人であり、その人たちが良いと思って聴いているプロの演奏と、同じように良いと思っているのに、プロにはなれなかったひとの演奏と、どこにどれをだけの差があるのか。
 自分だけがオサムのギターを上手いとは思っていないはずだ。メディアで名が売れているアコギ一本で歌う女性ミュージシャンがいるが、同じようにギター1本で演奏している、とある名もなき女性ミュージシャンは、地元のイベントでタダで観れたりする。
 自分には、どちらも同じよう上手に聴こえるし、魅力的にみえる。テレビでしか観れないミュージシャンより、間近で聴く名もなきミュージシャン達の方が、強い熱量や、客に訴えかける力量が強く感じられるぐらいだ。
 テレビに出るようなミュージシャンを、間近で観たことがないからと言われればそれまでではある。
 大勢の観客が集まるようなコンサートの熱狂を観ていると、自分はそれだけで興ざめしてしまうところもある。なにかに囚われるように熱狂する人たちは、ミュージシャンに対してというより、その行為に意味付けをする必要性に追い立てられているようにもみえた。
 それは勝手な自分の憶測で、実際がどうなのかはわかるはずもなく、自分がそういった大勢の仲間内に含まれるのが嫌なだけで、多分に斜めから物事をみているからだろう。
「 、、いったい何が違うんでしょうかね?」
 オサムは次の曲を弾きながら、そんなアキの問いかけを聞き、しばらく考えていた。
「なんだろうね。その差って。オレにもわからねえな。想像だけど、きっと、誰もが誰かに支配されたいんじゃないの? じゃあ誰についていくか。だったら、なるべく大勢が注目しているヤツがいい。だからオレはここにいるんだろうな」
 オサムがそう言った。そう言われて、自分の浅はかな問いかけが恥ずかしくなった。その理屈で行けばアキもまた、大した人物になれない。
 もっともアキの場合は、はじめから自分の器を認識している。誰かから注目されたいどころか、誰からも触れられずに生きていこうとしていた。うまくならなかったのは何もギターだけではなかった。
「あの、最初にこのお店に入って来たときに思ったんですけど、置いてあるギターって、色んな値段が付けられてますよね。でもわたしにはその価値が伝わってこない。50万のギターと、100万のギター。見てもその差が分からないです。だからなんでしょうか? それも同じことなのかと、、」
 こんなことを訊いていいのかと、気に止みながらもギターに絡ませながら、もう少し踏込んでみたかった。オサムはそれを理解してかどうなのか、スッと言葉を吐き出した。
「モノの見方は人それぞれでしょ。キミが今、その売れてないコに、売れっ子と同じような価値を見出すのも、10万のギターに100万の価値を見出すのも、誰かと一緒でなきゃいけないことなんか、何一つないんだから。オレはいいと思うよ。みんながみんな同じ人に価値を見出すより、自分がこれと思ったひとを好きになったら。オレがそのひとりだとすれば、それはそれで嬉しいし」
 オサムの言葉が嬉しかった。それと同時に自分がそれほど深く考えて、誰かを好きになっているわけでないことに申し訳なくなる。
 自分はまわりが価値がないと言っているモノに、価値を見出すことで、自分の存在価値を見出そうとしているだけなのかもしれない。
「オレはね。バイトっていうか、この店の呼び込みみたいなもんなんだよ」
「呼び込み、、ですか?」
「そう、サンドイッチマン。いや、音出してるからちんどん屋さんかな?」
 それなら店内ではなくて、外で行なうのではと、アキはオサムの意図してるところを読み取っていない。
「こうやってギター弾いてると、キミのような子がフラフラ~とやってくる。そうすると、さっきのユウリちゃんが、捕まったエサを食べにやって来る。といった具合だな。こりゃ呼び込みというより生け捕りに近いか。ハッハッハ」
 オサムはそう言って一人でウケていた。生け捕られた立場のアキには、余り嬉しい例えではない。アキは自分が捕食される側になったようで不安が先立つ。
 確かに先ほどのユウリの言動をみていれば、自分など一口で飲み込まれるだろうと容易に想像がつく。こんなに素敵な音色に誘われてやって来たのだ。できればもう少し別な例えが良かった。
「誰が、エサ食べてるってー?」ユウリが店先から声をあげる。
 どこまで地獄耳なのか。アキが慄いていると、オサムはニカっと笑ってどこ吹く風と気にしていない。きっといい関係性なのだろう。
「手ぇ見てみ」そう言ってオサムは、手のひらを差し出した。
 指先が硬そうなのがわかる。ギターの弦と相まみ合ってきた軌跡だ。
「毎日弾いてたら、こんなんになっちまった。別にそれが嫌なわけじゃないよ。ただ、どんなに努力したって報われないことはあるんだよ。オレだってよく思ったさ。どうしてこんなヤツが売れて、オレはダメなんだってね。キミが疑問に思っているのとなんら変わらない、、 」
 オサムはアキに話しかけながらも、アルペジオで美しいメロディを奏でている。聴いたことのない曲だった。オリジナルの楽曲かもしれない。少し哀愁を感じさせる曲調で、心が絞られる。
「 、、売れたヤツに訊いてみたことがある。そいつも言っていた。どうして売れたのかわからないってね。全員がそうじゃないかもしれないけどよ。もちろん誰だって、大勢に聴いてもらいたくって演奏してるわけだ。だけどそうなるかどうかは、誰にもわかんねえのかな」
 アキは物悲しくなってきて瞳が潤んできた。オサムの心境に同調したのかもしれないし、ギターのメロディにやられたのかもしれない。もしくは自分に引っかかっていたトゲが抜けたからなのかもしれない。
 自分でもわからないのだから、誰にもわからないのだろう。
 思い起こせば今朝の出来事もそうだ。良かれと思ってしたことが迷惑にもなれば、しなかったことで後悔することもある。何もしなくても巻き込まれることもあり、ともすれば主導したことで矢面に立たされることもある。
 どれも自分の意思とは別のところで物事は進んでいき。誰か彼かの意図する状況のために、この身を削られていくこともある。
「ごめんなさい、、」アキは指先で潤んだ目先をおさえた。
「オレの演奏で涙してくれるなんてうれしいねえ」
 オサムは気を遣っているのか、そんなふうにはぐらかしてくれた。アキも何か気の利いた言葉でも言えれば良かったのだけれども、あいにくそういった語彙を持ち合わせてはいない。
「もちろん、演奏も素晴らしいです。色んなことが自分の思い通りにならないのはわかってるんですが、だからって誰かの思惑のままにされるのでは、やりきれなくてやるせない気持ちになってしまって」
 アキには自分の真っ直ぐな感情しか口に出てこない。
 オサムはゆっくりと、1弦づつ指先で弾いて曲を締めた。硬質化した指先が、この柔らかなメロディを生み出しているならば、この世は多くのことで、実態とその根源には、相反する事象が多いのではないだろうか。
「コラー! オサムー! なにお客さん泣かせてるのよーっ」
 ユウリだった。確かに立場的にはオサムに分が悪い。
「いえ、違うんです。わたしが、その、オサムさんのギターとか、曲に感動して、その、つい、ホロリと」
 珍しく気の利いたセリフが出た。オサムは肯定しづらいのかクビをヒネったり、うなずいたりと挙動が定まらない。ユウリは半信半疑といったところか。
 そんな疑われるような前歴があるのかと、さっきまで関係性を肯定していたのに、人と人との間柄は目に見えることだけでは収まらないこともある。
「あっ、ごめんなさい。いつまでも長居して。そろそろ失礼します」
 そう言って、アキは席を立ちアタマを下げた。今がそのタイミングだと考えた。ユウリはその肩を抑えて、アキを再びイスに座らせる。座面のビニールカバーに穴が空いているのか、クッションの空気が抜ける音がした。
「いいのよ、気にしなくも。アナタさえよければいつまでいても良いから。どうせオサムは1日中こんなんだし。あっ、そうだ。ちょっと待ってて」
 そう言ってユリエはバックヤードに入って行った。オサムは笑顔でうなずいてアキを見ている。
 今日の目的は達成されてしまった。あとは特に何か用事があるわけでもない。好きなだけ居て良いと言われるのは嬉しいが、ただこのまま対面していても、間が持ちそうにない。そこへユウリが戻ってきた。
「あった、あった。これこれ」そう言って差し出されたのは一本のギターだった。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(ギター屋の店内1)

2024-12-01 17:22:17 | 連続小説

 多くのギターがその店内に展示されていた。金額は10万から50万までの品揃えが幅広く、高いものだと100万を超えるものまであり、アキは度肝を抜かれてしまう。
 何がその金額の差になっているのか、見ているだけでは判断基準に見当がつかない。店の奥でギターの弦をチューニングしながらメロディを奏でている人がいる。
 一度、喉を鳴らしてからその人に近づいていく。この人が自分のお目当てのヒトか。そうだとすれば自分の存在を気づかせてはならない。
 今日は会社が休みの日で、通勤途中にあるモールに近い駅で降りた。朝早くから開いているような店ではないと知ってはいても、気持ちを抑えきれずにいつもの通勤時間に合わせて家を出ていた。
 電車を降りる時にちょとした出来事があった。最初は自分の勘違いで、相手に迷惑をかけてしまったのかと肝を冷やした。
 最後は丸く収まって安堵したが、やはりこんな日ぐらいゆっくり家を出ればよかったと、またしても自分の判断が面倒に巻き込まれる要因になっており、せっかくの日なのにと気持ちが落ち込んだ。
 気を取り直して午前はブラブラとモールを見てまわり、お目当てのこの店の開店時間も確認した。そのあとはコーヒーショップに入り時間までゆっくりしていた。
 ドリッパーのヒトが入れてくれたコーヒーは、普段飲むモノより酸味が弱く、優しい舌ざわりだった。気持ちを落ち着かせたいアキにはピッタリで、飲み干すころには心身ともにスッキリとしていた。
 また寄ろうと帰り際にレジに置いてあったカードを手にしていた。ひとりで店をキリモミしているその人は、嬉しそうに微笑んでいた。
 気持ちも入れ直したところで、満を持して店に向かっていく。店に近づいたところであの音色が聴こえてきた時は、良い意味で総毛が立った。
 店内に入って行くにつれ、音響設備が整っているかと思うほど、音が奥深くなっていく。その人は作業に集中していて、幸いにもアキが近づいているのに気づいていないようだ。
 接客の観点からすれば誉められた状況ではないにしても、アキにすればこのまま気づかないでいてほしかった。
 空気を伝わってアキに届くその音は、カラダに当たり、耳から侵入してくるとアタマの中で残音となる。アキが全然知らない曲でも、聴き心地が良く、次に弾かれる音に常に期待していた。
「何か気になるギターあったら、弾いてみていいよ」
 ななめ後方から、気づかれないようにその姿を見ていたのに、その人はアキに声がけしてきた。アキの心臓が跳ね返った。このままギターの音色を聴いていたかったのに、これでおしまいかと観念した。
 それなのに、その人はそれだけを言って、引き続きギターの音合わせを続けた。
 もしかして自分に話しかけたわけではないのかとまわりを見た。ここにはアキ以外には誰もおらず、やはりこの状況ではアキに言っているとみるのが正しいだろう。
 そう言われても何て答えればいいのか、すぐに反応できない。それに気になると言われても、なにが自分の気に入るギターかわかるはずもない。
 そもそもが、アキはその目的で店内に入ったわけではない。おいそれと数十万するギターを手にするなど恐れ多すぎる。万が一にキズでも付けて、買い上げることになったら、今の手持ちでは間に合うはずもなく、少ない貯金を切り崩さなければならないだろう。
 言うだけ言って、躊躇しているアキを気にかけるわけでもなく、その人は美しいメロディを奏でていく。
 チューニングが終わったようで、これまでは途切れ途切れだったメロディは、曲のアタマから通しで演奏されていった。

 それは何処かで聴いたことのある、懐かしいメロディだった。思わず口ずさみたくなりそうでも歌詞が出てこない。歌えたとしてもギターの音色のジャマになるだけなのでその気はない。
 サウンドはさらに厚みを増していき、左右の五本の指が休むことなくうごめき、アキが知っているメロディの合間を縫って副音も複雑に絡んでおり、ボーカルのメロディに対して、音を深めるサブメロディ重ね合わせていき、ベース音が織り交ざっていた。
 高校の時にうまい奴が演っていた奏法で、自分もやってみようと何度も練習したものの、どうしてもできなかった演奏だった。それを見ている分にはいとも簡単に、それも高校の時に見た以上の正確さ、音のハリ、流れるメロディを奏でていく。
 この人はアキに自分の腕前を披露しているわけでもなく、弾いている内に熱中しだして、自然とそうなっているようだった。
 アキは前に回り、食い入る様に指の動きを凝視した。もしかして名のある演奏者なのだろうかと、そんな期待もしたくなるほどのテクニックだ。
 以前モールをブラついていた時に耳に届いたギターの音色。音源から流れてきたものではなく、生の音のダイナミックさと、ヒリヒリとする危うさに耳を奪われた。
 どこから流れているのかと、あたりを見渡す。楽器屋の看板が目に入った。ギターのイラストの下に、カタカナでカノウと書かれているだけのシンプルなモノだ。
 およそモールにある他の店とはかけ離れた、前世の遺物といった佇まいだった。アキにはそれが却って好印象となった。
 その日は約束の時間があり、店の前を素通りするしかなった。店の前に立った時には、すでに音は止んでおり、店内も薄暗く中の様子は伺いしれない。
 本当にここでいいのか確信が持てないまま、後ろ髪を引かれる思いでその場を離れた経緯があった。

 次に弾き出した曲は、アキにとって苦い思い出の曲だった。仲間内のひとりの彼女が良い曲だと勧めてくれた輸入盤で、今では世代を超えて大ヒットした曲だ。
 アキも直ぐにレコードを買って何度も聴いた。そして友だちに無理を言ってギターを借りて、前奏だけでも弾けるようにと、指先がボロボロになるまで練習した。
 それでも演奏するというより、何とか音が出るというレベルから抜け出せず、彼女と友だち以上になることを諦めると同時に止めてしまった。そしてギターに触ったのはその時だけだ。
 そんなこともありしばらく避けていた曲だった。もはやラジオでも滅多に聴かなくなった今、このタイミングで耳にするとは何の偶然か。
 間近で聴くと、さらに空気の振動がビンビンと肌に響いて、心の奥まで振動してくる。アキがこんなふうに弾けたらいいなと望んでいた弾き方をしている。
 最後のAメロが終わり、前奏と共に世界で一番有名と言っても過言でない、ギターソロに入ろうとした。アキはそのリフを想像するだけで肌が粟立った。
「オサムーっ!」元気のいい声が店内と、アキと彼に響き渡り、ふたりは同時にビクリと背筋を正した。
 黒のTシャツに、緩めのデニムパンツ。紺地のエプロンをした店員が胸を張った。Tシャツの背中とエプロンの腹の部分に、店の名前がプリントされている。
 倉庫から弦や、ストラップなどの在庫を取り出してきたあとで、手に幾つもの商品を抱えていた。商品の隙間から胸のネームプレートが見え、そこにはユウリと書かれていた。
 ダメでしょう。お客サン来てるのに。ギター弾くのに集中してちゃと、オサムをたしなめ、アキに振り向き、ゴメンナサイ、いつもこんな調子でと、アタマを下げた。
 店の客と言われ恐縮してしまう。オサムのギターが聴きたかっただけで、ギターが欲しい訳ではないアキは返答に困り、ただアタマを下げるしかない。
 買う予定で来ていないので、資金も持ち合わせていない。押しに弱いアキなので、こういったタイプの店員にグイグイと言い寄られると、ローンとかカード払いでとか勧められて買ってしまいそうだ。
 何か言ってこの場を取り繕わねばと焦っていると、余計に言葉が出なくなる。素直にギターの音色に釣られて入店しただけで、買う予定はないんですと伝えたかった。
「なんだよ~、ちゃんと接客したぜ。気になるギターがあったら手にとって弾いてみてって。なあ?」
 そう、オサムに同意を求められ、首をコクコクと振るアキ。
「そう言うのは接客って言わないの。手に取ってって言われても困るよねえ?」
 今度はアキは、引きつった笑顔で応える。肯定も否定もできない。それにしても一応客であるアキに、何故かふたりは一切の敬語はなく、以前からの友達のように話しかけてくる。
 それが別に馴れ馴れしいという感じではなく、初めての店なのにアキを優しく懐柔していく。それで随分と気持ち楽になって言い訳の言葉も出てきた。
「あの、店長さんのギターがすごく上手で、聴き惚れてしまったというか、、」
 店のふたりは、アキの言葉が終わらないうちに、声をあげて笑いはじめた。何がおかしいのか戸惑うアキ。ユウリに笑われるのはまだしも、上手だと誉めたはずのオサムにまで笑われてしまい、自分ごときが上手などと言うのも憚れるのかと焦ってしまった。
「ゴメン、ゴメン。オサムのこと店長だって言うから。そんな勘違いしたのアナタがはじめてよ。このヒトたんなるバイトよ」
「バイト?」オサムはウンウンとタテに二度クビを振って肯定した。
「そう、バイト。なんだったらわたしは店員だから、格付けとしてはオサムより上だし」
 ユウリは満面の笑みでそう言った。オサムは若い子に呼び捨てされて、そんなことを言われているのに一緒になって笑っているだけだった。
 アキは焦って、ユウリにアタマを下げた。それは気づかず、失礼しましたと平謝りする。店員だからといえ、そこまで卑屈になることもない。案の定、また大声で笑われることになる。
「やっだ、何それ。アナタ面白いわねえ」
 全く言われる通りで、自分でも迷走しているのがわかる。ただ、そういった流れを作り出したのはユウリであって、どちらかと言えば、乗せられただけだと言いたいところだ。
 とは言え反論できるはずもないアキは、引きつった笑顔をするだけだ。オサムはひと通り笑ったあとで、アキに近くのイスに座るように勧めてくれた。
 ユウリは、アブラばっかり売ってないでちゃんと商売してね、と言って商品の陳列をはじめた。オサムはクビをすくめて聞き流す。
「キミは、この曲好きなの?」
 アキにそう聞きながら、先ほどの曲のイントロを弾き出す。五本の指から弾き出されるメロディは、やはり複雑に絡み合って奥深いサウンドを創り出していた。
「どうしてわかるんですか?」アキは素直に疑問を問う。
 オサムはニヤリとするだけで、理由は言わず演奏を続ける。とても一本のギターから紡ぎ出される音源とは思えない。自分が弾いていたメロディとは全く別物だった。
「凄いテクニックですね。もしかしてプロの方ですか?」おだてるつもりもなく、そんな聞き方をしていた。
 オサムは目を見開く。これはまた笑われる流れだ。そう心配するアキをよそに、オサムは表情を緩めるに留めていた。アキの天然っぽい言動を可笑しがるよりも、自分の過去を思い起こす思考が勝った。
「プロになろうとしてた。でもよ、オレぐらいの腕のヤツはいくらでもいるんだよ」
 この人のウデを持ってしてもそうなのかとアキは愕然とする。そういう話はいろんなところで耳にしていた。そしてその言葉を聞くたびに、彼らをほめたたえている自分の存在がより小さくなっていく。
 これほどの演奏ができても、かの世界では平凡であり、下界に降りてきてはじめて、自分のような耳の肥えていない者から、唯一崇められるに留まっている。
 それが現実であるとわかっていても、すぐには受け入れがたいアキは、以前より引っかかっていた疑問を、勢いでオサムにぶつけてしまう