private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

継続中、もしくは終わりのない繰り返し(ボクシングジムで1)

2025-02-23 07:20:07 | 連続小説

 ボクシングジムがそこにあった。
 昔であれば汗くさい熱気のこもった薄暗い室内で、明日のチャンピオンを目指す若者達が、黙々とトレーニングを続けていた場所だった。
 今では明るい室内に、流行りのサウンドが大音量で流れるなかで、女性達がボクシングを原型としたエクササイズを笑顔で楽しんでいた。
 あの殺伐とした雰囲気を知るトウジロウは、隔世の風景が未だに馴染まない。事務室のドアを開けて現場の様子を見る度に、開けるべきドアを間違えたのではないかという、何度も訪れる既視感が未だに拭えない。
 彼女たちは、日ごろのうっ憤を晴らすかのように、奇声をあげながらサンドバッグにパンチを入れ、ダンスを織り交ぜたシャドウボクシングで、気持ち良い汗をかいて明日への活力にしているようだ。
 トウジロウがドアを閉めると直ぐに、すごい勢いでドアが開いた。下がり気味の眼鏡の上から裸眼で目をやる。
「すいません遅くなりました!」と息を切らして膝に手を付きアタマを下げているのは、トウジロウの一人娘のメグだった。
「遅かったな、メグ」トウジロウは席に戻り、少々嫌味を含めて言う。
 そして来週行われるイベントのチラシの刷り上がりを確認をする。確認と言っても何か気になることがあるわけでもなく、おざなりな作業だ。
 大学生のメグは学校が終わったあと、アルバイトとしてここで働いている。大学に行きたかったら自分の金で行け。金を稼ぐならここで働け。それがトウジロウの出した条件だった。
 さすがに以前のジムなら、働くのも二の足を踏んだろうメグも、きれいに改装され、流行りのスポーツジム然とする今ならば文句のつけようもなかった。
「ごめんなさい、どうしてもやらなきゃならない課題があって」と説明する。
「よかったな。ウチのバイトで、、 」トウジロウはそれ以上を訊くつもりもなく、訓戒を込めてそう言った。
 親ということで多少の遅刻は大目に見てもらえると、気持ちのゆるみがあり、ちょくちょく大学の行事を優先しているところもあった。それが行き過ぎてはどちらにも不都合になる。
 返す言葉がないメグは、早速仕事に取りかかる。トウジロウはパソコンなどの機器に疎いため、そういった作業全般をメグが担っており、実質的な運営をしている親会社からの連絡事項などを順序よく処理していく。
「お父さんもさあ、少しはパソコン覚えたほうがいいよ。急ぎの用件があったら困るでしょ?」
 キーを打ちながら遅刻を咎められたことにかけて、自分が居ないと困るだろうと示したい「これなんかさ、早く返事がほしいんじゃないの?」。
 メールのひとつを表示して、画面をトウジロウの方へ向けた。チラシから目を上げて、目を細めて画面を覗き込む。
「ああ、それならちょっと前に電話があった。それで進めてもらうように伝えてある。向こうも心得てるさ、必要なら電話してくる」
「ふーん、じゃあ、回答済で返信しとくね」メグは画面をもとに戻して、パチパチと手早くキーを打ちはじめる。
  トウジロウはメグに、それが終わったらお茶を淹れてくれと頼んだ。こんなことを頼めるのも身内だからで、その点は楽をさせてもらっている。フッと息をつく。
 昔ながらの商店街の一画に、異彩を放つように当時のボクシングジムは存在していた。
 当時は開け放たれた窓からは熱気がほとばしるなか、通行人や買い物客が物珍しさもあって、冷やかしやら、興味本位とかで、鈴なりの人だかりが絶えなかった。
 人目があれば活気づき、練習にも力が入る。練習生の応募もひっきりなしにあった。メグも子供のころ母親に連れられて何度か来たことがある。
 トウジロウはオンナ子どもの来る所じゃないと、ジムの中に招き入れることはなかった。扉先で要件や、頼んだものを受け取るだけだった。
 メグも鋭い眼光の男達が、黙々と鍛練している姿を見て、怖いと思ったことはあっても、楽しいと感じたことはなく、母親がお使いついでに声をかけても行きたがらなくなった。
 商店街が寂れてくると、ジムの練習生も減っていった。シャッター街になった頃には、開店休業状態になっていた。
 ジムを畳もうかと考えていた時に商店街に大手の資本が入り、商店街はショッピングモールに、ボクシングジムは美容と、健康に特化したエクササイズジムに変貌した。
 事前にマーケティング調査を徹底的に行い、女性専用にしたのが功を奏して人気を博しており、かつて女人禁制の場は、今では男性禁制と逆の立場になっていた。
 当時からは考えられないそんな場所にトウジロウがそのまま店長として残ったのは、トレーナーとしての肩書きを必要とされたからだ。
 この道20年の名トレイナーで、誰もが知るチャンピオンを発掘した人物だと、リニューアルされたこのジムのホームページにも掲載されていている。
 その選手が実際にチャンピオンになったのは、大手のジムに移ってからだ。筋を見込んで育て上げて、移籍を申し込まれるまで育てあげたのは間違いない。多分に本人の才能があったからというのは否めない。
 今は本社から練習内容についてアドバイスを求められると、それに回答するぐらいで、それ以外はチラシの確認や、店番兼雑用をしているだけだった。
 ジムにいても生徒に直接声をかけることもなく、本社から派遣されているインストラクターが一切の実務を行っている。入会してしまえば必要とされることはないようだ。
 トウジロウがざっと目を通しただけのトレーニングメニューに、チャンピオンを育てた名トレーナー監修と書かれていた。そういう肩書きだけが必要で、最初は上から、たまにジム内をうろつくだけでいいと言われていた。
 以前、気の強そうな女性に声をかけられて、本格的にやってみたいから、パーソナルトレーナーとして見て欲しいと言われたことがあった。
 何処かでトウジロウのことを耳にして入会してきたらしい。そう言われてから本人に気づかれないように、陰から少し動きを見てみたが、とてもモノになりそうにはなかった。
 格好ばかりでとても身が伴っていなかった。何より貪欲さが少しも見受けられなかった。

 そのことをインストラクターに相談したら、苦笑しながらコチラで対応しておきますと言わた。
 それ以来、あまりジムの中を歩き回らないようにと、本社からのお達しがあった。
 トウジロウにしても、相手を倒し、勝つためのボクシングしか教えてきたことがない。カラダを動かすことを目的とした女性にかける言葉は持ち合わせていなかった。余計な仕事が減って清々した。
「なんか気になるの?チラシ」トウジロウがチラシを見たまま、考え込んでいるようにも見えたメグが声をかけた。手元には淹れたての緑茶が置かれた。
 手刀を切って礼を言い緑茶を啜る。高級な茶葉だった。ジム内で使用する物品はすべて本社から支給されてくる。どれもいい品ばかりだ。
 週に一度、担当者がやってきて内部のチェックをおこない、備品の補充やら、機材のメンテナンスをしていく。清潔感を保っていなければ女性会員の満足度は維持できない。
 これまでのジムなら、ヤカンに入った出涸らしの番茶しか口にしたことがなく、備品はどれもかれもツギハギだらけだった。
 トウジロウにはすべてが贅沢すぎた。それはお茶や備品に限らず、すべての待遇がそうであり、ハングリーさとは無縁の環境が整っている。
 そんな中で、自分を見てくれと言われてもしっくりこない。この環境では真のボクサーなど生まれてこないというのは偏見なのかもしれないが、トウジロウにはどうしても受け入れることができなかった。
 手元のイベントチラシにも、自分の名前と写真がこれ見よがしに載っている。これが今の自分の価値なのだ。実態はなくとも虚空でカネが稼げてしまう。
 自分では思いもつかなかった評価基準を誰かが見い出して、それを商品として売られているのだ。自分のところに金が回ってこない理由がよくわかった。
 買収話しが持ち上がった当初は、トウジロウはジムはもゆ手放して、引退することを考えた。いつまでも過去にすがりついて仕事を続けることを良しとせず、踏ん切りをつけるつもりでいた。
 そんな折に、妻のアヤが事故で急死してしまった。あの時のトウジロウは、とても見ていられないほどに憔悴していた。これから苦労かけた分をつぐなっていくつもりだった。
 その機会をあたえられなかったことに必要以上に責任を背負っていた。家にいても魂の抜け殻のようで、それを心配したメグが会長のユキに相談していた。
 メグも突然母親を亡くしショックを受けていたのに、そんな父親の沈んだ姿を見て、自分が悲しんでいる状況でなくなってしまった。
 何か気を紛らしておかねばトウジロウも落ち着かなかった。ボクシングの他にこれといった特技が他にあるわけでなく、今さら他の仕事をいちから覚えるのも難しい。
 娘のメグと、会長のユキの助言もあり、少しでもボクシングに携わる仕事ととして、スポーツジムの雇われ店長としてこの場に留まることにした。
 メグもバイトをしながらトウジロウの様子伺いもでき、一石二鳥だった。トウジロウもそこは察しており、大学の勉強から、家事の面倒までみているメグに、ある程度の遅刻や早退は大目に見ているところもあった。
 妻の死を紛らわすために続けた仕事であっても、そんな緩やかな働き方をしていてはどうしても物足りなさを感じてしまう。
 少し前まで命を削るように、若者と対峙してきた感覚は直ぐには消えることはなく、生活のためとはいえ、今の働き方に満足できるトウジロウではなかった。
「それでね、、 」メグが学校の話題を色々と話していてもトウジロウには上の空だった「、、 新しい商品価値を提案するために、必修として学んでみたいの」。
 誰もが人を出し抜いてでも、楽な道を進もうとしている。挑戦の先に成長があるとしても、いつまでも気長にそれを待ってはくれない。人が思いつかないことを生み出して、はじめて人より抜きに出られる。
 それもまたトウジロウのこれまでにない価値観と、成功体験の事例だった。自分の思いもしないことが金になる。自分がこれまでにしてきたことは何だったのかと愕然としてしまう。
「ああ、いいんじゃないか、、」トウジロウはそんな言いかたしかできない。
 メグもまたそういった新しい種類の人間になっていくのだ。そういう時代をこれから生きていくためには必要なことなのだ。
 メグはトウジロウに何かを期待して伝えている訳ではない。大学の単位のなんたるかを知るはずもないのはわかっている。自分の将来について少しは気をかけて欲しかっただけだ。
 メグもまたこのジムの変貌に関わって、今後はこういったビジネスが求められていると肌で感じていた。父親には悪いと思いつつも、本社のやりかたなど実践として勉強させてもらえて好都合だった。
 チラシの確認が終わって、手持ち無沙汰になったトウジロウは、生徒の申込書がファイルしてあるバインダーを棚から取り出し、整理をしようとして昨日のことを思い出した。
 メグはメールのチェックを終えて、郵送物の仕分けをはじめているのを見て。トウジロウは一番下の引き出しに突っ込んだ、シワの寄った申込書を取り出した。
 エマとだけ氏名欄に書かれていた。名字なのか、名前なのか判断できない。最終学歴に中卒と殴り書きしてある。生年月日から年齢を計算すると16歳だとわかる。
 トウジロウはあたまを掻いた。――ガキじゃねえか。――


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