private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

継続中、もしくは終わりのない繰り返し(市街地からモールまで2)

2025-01-26 17:23:36 | 連続小説

 客をピックアップしたことをエイキチに伝えるために、サインとして取り決めしてある無線のコール音を一度だけ鳴らす。ピッという電子音がする。
 連絡を受けたエイキチは、目的地までの最新の交通情報を伝達しはじめる。エイキチのデスクまわりには、通行ルートの道路情報を知るために有効な様々な機器が備えつけられている。
 エイキチは必要とされる情報があれば、マリイに伝えるために積極的に話しかけてくる。一方のマリイは客がいる手前、口にしないほうがいいことが多いため、急を要しない限り、ああとか、ウンとか、最低限の言葉しか口にしない。
 もともと口数が多い方でもなく、話すことが苦手でもあり、客が話しかけてこないように、依頼を受けた際に、舌を噛む恐れがあるので余計な口をきいたり、おしゃべりはしないように同意を取ってある。
 走り出せばシートにしがみついたりして、恐怖心と戦うので精いっぱいになり、喋ろうなどという気はなくなるので、そんなことをする必要はなかった。
 それが今日に限って自分から話しかけてしまったのは失敗だった。急ぎの案件でないためスピードを出す必要もなく、普段にはない平穏な車内に沈黙が流れている。
 それが却ってマリイには気になって仕方ない。こんな時こそクルマをぶっ飛ばして、すべてを思考から取り除きたい。それができない。いまはできないのだ。
「駅前の通りにケーサツが出張ってるんだよね。駅前広場の催し物にクルマで出かけた客が、違法駐車してるらしいんだ。途中で行き先が被ってるから、ちょっと遠回りになるけど、西側の小道を抜けて戻って来ればいい。どうせ、、 」どうせ急ぎじゃないのはマリイもわかっている。
 エイキチには、警察がやり取りしている情報や、防犯カメラに介入し、その内容をモニターすることができる。走行する近郊界隈のあらゆる情報を、事前に手中に収めている。
 勿論違法であり、さすがにこの件に関しては国家権力でも黙認してもらえるとも思えず、秘密裏で行なわれている。技術の革新は裏側で最先端が先行することが多い。
 大通りをしばらく流れに沿って進み、言われた小道で左折する。マリイもよく利用しているので、大げさにいえば、目をつぶっても運転できる道だ。
 そしてエイキチの指示を聞きながら運転すれば、本当に目をつぶっていても運転できるほど、情報の正確さと、エイキチの判断能力に限っては絶大に信頼をしている。
 マリイが侵入した小道は、昔は用水路が流れていた場所で、そこを埋め立てて道路にしていた。家屋もそれに合わせて建てられているので、変に曲がりくねった道筋になっている。アルファはその道をスラロームするように軽快に走行していく。
 あれから後部座席の女は黙りこくったままで、乗車してからずっと窓の外をボンヤリ眺めている。最初にこちらから声をかけた手前もあり、気軽に話しかけられると厄介だと心配していた。
 この女性は、おしゃべり好きなタイプでもないらしく、変に話しかけられることもなく、相手をする必要もなさそうでマリイは安心した。
 ここからは緩やかな右曲がりが続き、舵角を固定したままアルファを走らせていた。そこにエイキチから不意にアラートが入った。ある予感がマリイに思い浮かぶ。
 エイキチからの指示が必要な運搬ではないために、オフにしていた無線を即座につないで「なに?」と、小声でぶっきらぼうに尋ねる。
「おう、用水通りの真ん中あたりだな。ごユルりとしているところ申し訳ないが、飛び込みが入ったから向ってくれ」
 マリイはバックミラーで女をチラリと見上げ、「いいのかよ?」と、エイキチに問う。
「その客は急ぎじゃねえ。終わってからでいい」わかっているくせにと、ハナにかけて言う。
「フーン、どこ行けばいいんだ?」あっさりとした言葉の下に、気持ちの昂ぶりを隠している。
「喜べ、『上客』だ。中央通りの先にある公園前にいる。黒いジャケットの初老の男だ。アシストする」
 最後に最大のご褒美を口にするエイキチに、先にそれを言えとばかりにマリイは舌打ちをする。それをモニターで聞き取り満足げにほくそ笑む。
 エイキチはカラダに不具合があり、ひとりで外出することができない。若者が日がな一日、部屋にこもりっぱなしで仕事をするなど辛いところだが、エイキチはその条件だから働ける。
 オーナーが、エイキチの才能を活かすために用意した仕事だった。エイキチもその恩に報いるために、オーナーから無茶なオーダーがあっても、ここぞとばかりにやりのけてみせた。
「30分後に駅に着きたい。さっきも言ったけど、駅はいま、違法駐車の取り締まり中だ。近づいたらスピードは出せない。その前までが勝負だ」
 元来、手先が器用で、先端技術に明るいエイキチは、情報収集する機器やシステムも自分で設計し、組み立てた。さらに日々、改良にも余念がない。
 パーツはマリイに頼んで出先で仕入れてきてもらっており、カメラへの仕掛けや、無線の設置は、帽子にカメラをつけて画像を飛ばし、エイキチの指示でマリイが取り付ける。その分担は運転と変わらない。
「わかってる。コッチも飛ばしたくってウズウズしてるんだ」
 『上客』とは時間通りに輸送が終われば、給与とは別に金一封が即金で払われる客だ。かったるい運転を続けていたマリイは、俄然やる気が湧いてくる。
 振り向いて女性と目が合うと、承諾したように肯く。それを見てマリイはすぐに前を向き直し言い放つ。
「寄り道するから飛ばすぞ。舌噛まないように口閉じて、シートベルトしてろ」
 そう告げる先から、アルファはグングンと加速していく。即座に女性は言われたとおりにシートベルトを装着しはじめる。
 後部座席であるのに腰に回すタイプではなく、肩からかけるベルトは、この年代のクルマでは標準装備ではない。この仕事用にエイキチが、やはり後付したものだった。
 女性は胸の前のベルトにしがみついて両脚を踏ん張った。一から十まで説明する必要がなく助かるマリイも、寄り道もすぐに快諾することも含め、少し出来過ぎであると違和感が残る。
 今はそんな仔細なことに構っている場合ではない。思考から排除してドライビングに専念するか、もしくは自然と思考から消え去っていく。その状態になれることがマリイに至極の悦びを与えてくれる。
 エンジン音がこれまでとは違った咆哮をあげる。オイルの焼ける匂いが室内にも漂ってくる。アルファの車体がビリビリと細かい振動を震わす。
 道路の少しのギャップも、タイヤからシートに伝わりカラダを弾く。それがマリイのエンジンの回転速度をあげる着火となる。
 アルファと一体になり、マリイの中にはこれまでとは明らかに違う生命が甦ってくる。鼓動を打つ心音はカムの動きと同期し、そこから送り出される血流は、オイルと共に車体の各部に行き渡る。
 ステアリングに添える指先の微妙な動きが、ラックアンドピニオンを通じてホイールを意のままにする。それは足先を波打つようにしたアクセルワークと相まって、車体を自由自在に制御していく。
 目に入る視覚情報と、エイキチからの無線を含む耳に届く聴覚情報。そしてカラダ全体から伝わってくる、すべての情報をマリイが集約し、的確なアウトプットをおこないクルマを操りはじめた。
 そこに他の何ものも介在することなく、クルマと共に、自分が最速で移動する歓びを満たしていくために。

 マリイは人馬一体ならぬ人車一体になっていく。この時を生きるために、他のすべては眠った時間であり、時の流れを放棄しているといっても過言ではなかった。
 この道の行き止まりとなるT字路が迫ってくる。前に1台クルマがいた。猛スピードで近づくアルファを認識したのか、T字路前の一旦停止もあり、道脇にクルマを寄せながら止まろうとしている。
 無線からのエイキチの指示が欲しいところで、絶妙なタイミングで連絡が入る。「ゼロだ!」その言葉を聞き、マリイは減速することなく、前車が開けた右側のスペースにアルファを滑り込ませる。
 キッカケとなるブレーキを踏んでリアをブレイクさせると、一時停止で止まる前のクルマの脇をすり抜け、カウンターを当てつつ、ほとんどスピードを殺さないままに左折をしていく。
 『ゼロ』はその先に、人もクルマもいないという符丁だ。エイキチが指示した通り、進入した道路はオールクリアだった。
 一旦停止していたクルマの運転手は、スタントまがいにクルマが横滑りしていくのを目にして固まっている。タクシー相手に何度も見せつけたテクニックであり、そんな表情をした運転手を何度も見てきた。
 アルファが進入したこの道は、その先にある信号が鬼門となる。大通りに面しているために信号が赤の時間が長い。
 信号に引っかかる前に左折して、大通りに合流しないと2分はロスしてしまう。前にクルマはおらず道はひらけたままだ。
 少しでもスピードを落とさずに進入すして、高いスピードを保ったまま立ち上がり信号までにできるだけマージンを作り出す必要がある。
 遠くに見える信号は、今は赤だ。それを見て、
立ち上がりのスピードを活かしながらさらに加速をしていく。
 マリイでも腰の辺りに浮遊感があるほどで、慣れていないはずの後部席の女も相当な恐怖心があるはずだ。そこに気を配っている余裕はない。
「エイキチッ!!」マリイは、指示を求めマイクにがなった。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(市街地からモールまで1)

2025-01-19 18:07:27 | 連続小説

 クルマを走らせて行くと、そこに若い女性がいた。目印と言われた赤いデイバッグを抱きかかえるように持っている。
 女性がコチラに目をやるのが見えた。スポーツジャージを着た、どこにでもいるような風采をしている。その割には妙な存在感と威圧感があった。
 流しで客は取っていない。迎車専門だ。そもそもこのクルマを見て、タクシーだと判断できるような車種ではなかった。
 稀にコチラが止まるタイミングで手を挙げる通行人がいると、後ろにたまたまタクシーがいたというオチだった。
 もしかしてと念のためにバックミラーと、サイドミラーをチェックする。それらしきクルマは見当たらなかった。
 マリイは指示された場所であると確認して、ウインカーを出しクルマを止めた。カサカサと枯れ葉がタイヤに絡んでくる。
 60年式のアルファはタクシー仕様にはなっていないので、自動ドアは装備されていない。マリイは手を伸ばして左後部座席のレバーを引き、少しドアを開いてやる。
 するとそこに指をかけてドアを大きく開口して、先の女性が乗り込んで来た。見かけより太くガッチリとした指をしている。
 マリイの視線を感じたのか、乗り込むとすぐにジャージのポケットに手を突っ込み窓の外に目をやった。
「よくこのクルマだってわかったね」つい、マリイはそう声をかけてしまった。
 普段なら、客に話しかけることもなく、乗せたら最後、最速で目的地に運ぶだけで、それ以外のサービスはしていない。
 それなのに気になって声をかけてしまったのは、この女性が持つ独特の雰囲気に惹かれたからなのか。マリイはつい触れてしまいたくなった。
「青いヘンテコなクルマって聞いてたから、、」女性は面倒くさそうにそう言った。目線は外を向いたままだ。
 青はいいがヘンテコは余分だ。どうせエイキチがそう説明したのだろう。余計なことを訊いてしまった自分の落ち度と合わせて、マリイは腹立たしくなった。
 エイキチは事務所で配車の指示を受け、無線でマリイに連絡をするオペレーター的な仕事をしている。
 ふたりは違法で配送営業をしており、ウリは約束の時間に客を運び届けることだった。エイキチはその手助けをすべく、あらゆる情報にアクセスしてマリイの輸送をアシストしている。
 違法な白タクまがいの営業も、時間に間に合えばカネは度返しという、切羽詰まった客は少なくない数でいるものだ。
 ただ、誰でもというわけにはいかない。何処かのおエライさんだったり、そのような人たちに関わる人たちが主な顧客となる。時にはその人たちに代わり封筒ひとつを運ぶ時もあった。
 これだけ通信技術が発達しても、人やモノがそこに無いと、どうにもはじまらない事案はなくならないらしく、効率化などの仔細な努力を帳消しにしてしまう費用が発生しようとも最優先される。
 エイキチに言わせれば、自分ならな現地にいなくても会議などができるようなシステムを作れるのに、それをしてしまうと自分の楽しみや、マリイの仕事を奪ってしまうからと豪語する。
 時間をカネで買うこととなっても、それでこの国はまわっていて、これからもこの国をまわしてく。そこにどのような理由があるにしろ、マリイは指示を受けて、時間どうりに輸送するだけだ。
 それ以外のことはオーナーやエイキチの仕事で、マリイが気にすることではない。ひとつの仕事を成功させれば、それに見合ったおカネを手にするだけだ。
 世の中に需要があれば供給がある。需要が満たされるのは、それなりの力を持った者たちだけだ。マリイはこの仕事をしてそう悟り、力を持った者たちからカネを得ることに、何の罪の意識を持つことはなかった。
 通常なら間に合わない状況を間に合わせることで得られる報酬だ。いったい誰がその恩恵を受けているのか知るよしもなく、少なくとも、搾取され側の人達でないのは確かだ。
 時間通りに進行したことで得られた恩恵も、得られなかった不具合も、マリイには今のところ何の関わりもない。
 後からそのために何らかの影響を受けることがあっても、それは自分だけではどうにもならない範疇と割り切っている。
 誰もが誰かの利益の代わりに対価を得ている。その循環が変わらないのであれば、せいぜい自分の好きなことを仕事としてカネを得ればいい。 
 今回の客は時間指定のある急ぎの客ではなかった。そんな案件は年に1~2回ぐらいのもので、だいたいがオーナーの個人的な案件である。
 この一種独特の雰囲気を持つ女と、オーナーがどのような関係なのか、マリイも気にかかるところだ。
 この違法でありながら必要悪の範疇とされる運び屋を動かしているのは、エイキチが事務所として使っている建屋があるモールのオーナーだった。
 事務所は、元は自動車の修理場だったところを、持ち主が隠居したため会社が買い上げた物だ。修理場はクルマのメンテナンスや、改造をするためにそのままにして、事務所をエイキチ専用のオペレータールームにした。
 このオーナーは、モールの親会社の会長という立場にある。表向きには代表社長が経営を取り仕切っている形にはなっているが、すべての判断を下しているのはオーナーであることを、関わっている者は皆気づいている。
 それなのにモールの関係者には一切その姿を見せないし、何でもかんでも代理人を通して連絡を取ってくる。ミステリアスな存在を誇示したいのか、オモテに出れない理由があるのか。
 本当はその存在自体が架空のもので、何時もエイキチたちに連絡をしてくる代理人と呼ばれる者が、なりすましているのではないかと、ふたりは冗談として言っている。
 代表が影武者では会社として成り立たないので、それは行き過ぎた話しであるとわかった上で、この代理人がまた切れ者であり、あながち冗談とも言えない話だった。
 運搬業に問題がおきた時も、迅速に解決してくれて、厄介な相手が出てきてもウラをかいて手玉に取る。いつもマリイたちを手助けしてくれている。そして最後に辛辣なひとことを教訓と称してあびせられる。
 その代理人に、オーナーは大物政治家ともつながっていて、いざという時に重用されており、その分警察からの目こぼしも受けていると言われていた。目立つクルマであるのに捜査に及ばないのはそのためらしい。
 代理人からは、そういった仕事をこなす者がいなければ、世の中は回っていかない、それでマリイたちの稀な才能を世の中のために遣え、ビジネスとして関係が成り立っていると持ち上げた。
 エイキチは自分の才能を評価されていることに感銘を受け、代理人を大いにリスペクトしている。自分の好きな無線傍受や、盗聴、カメラのハッキングなどをして、おカネが貰えているので、それに満足しているだけだ。
 いずれにしても何か事が起きても、真っ先に泥を被るのは自分たちになるわけで、いいように使われているとも言え、本音が見えこない代理人のことを、口先だけだとマリイはあまり信用していない。
 マリイのクルマは警察は目溢ししてくれても、正規のタクシードライバーからは疎まれていた。嫌がらせのようなことは何度も経験していた。
 エイキチがなるべく裏ルートを探ってくれようとも、まったく遭遇しないわけではない。相手が客を乗せていなければ、幅寄せされたり、急な割り込みや、前に入られるとストップ&ゴーのブレーキテストを執拗に繰り返されたりもする。
 はじめの頃は、かわすのに手を焼いたマリイも、何度か交えるうちに相手をするのが楽しくなってきていた。マリイも乗せているおエライサンには悪いと思いつつ、元より時間厳守のための荒い運転は了承済みだ。
 後ろや横を見ながらの運転より、前の動きを視認しながらの方が断然有利だ。コチラに寄ってくるタイミングで、少しでも左右に隙間があれば、一気に加速して突いていく戦術を磨いていった。
 そこに相手との駆け引きとまでは言わなくとも、動きを見極め、どちら側から攻めるかを瞬時に判断し、相手を手玉に取った時は、心に燃え滾る熱量が充満するほどの達成感があった。
 クルマが横並びになれば、相手も本気でぶつけるつもりはないので慌てて避けてくる。マリイはタクシードライバーが見せる様々な表情を横目に、してやったりの顔を伏せてパスして行った。
 今では国家権力からタクシー会社に圧力があったのか、マリイのクルマを見かけても、近づくどころか避けて通るようになってきた。
 エイキチは、オーナーがおエライさんに口利きしたんだろうと嘯く。それはそうだろ、ジャマされて迷惑するのはおエライさんで、マリイは楽しんでいるだけだ。
 最近は刺激が足りなくて、必要以上に速度を上げてしまい、約束時間に余裕で間に合うので、敢えて時間調節する羽目になる。
 エイキチ曰く、この仕事は絶妙な塩加減が肝で、時間に遅れるのは論外でも、早く着きすぎては価値が薄れると宣う。
 顧客に間に合うかどうかとハラハラさせたところで、ギリギリで間に合わせることで、ありがたがれてお手当も弾むわけだ。
 なので時間配分を考えて、到着したら顧客が飛び出して行けば間に合うぐらいに着けるのがベストだと、偉ぶって言ってくる。
 それは代理人からの受け売りであると、マリイは確信している。ギリギリを狙いすぎて遅れたり、他車の妨害が無くなったと油断して、足元を掬われないようにと口うるさく言われる。
 いつも的確な指摘や、先読みするような注意喚起をしてくるので、こういう一言をおろそかにできない。ドライビングの最中にふと、アタマに引っかかってきて自制すると、それでことなきを得たこともあった。
 マリイは自由に好きなことをやらせてもらえているようで、実はその裏で細かくコントロールされている感覚が面白くなかった。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(パブ・ペニーレインにて4)

2025-01-12 20:16:31 | 連続小説

 ユキは商店街の時代から長年に渡って組合の会長を担っていた。日々すたれていく現状をどうにかせねばと、若い時にメディア関係の会社に勤めていた伝手で、昔馴染みが勤める広告代理店に相談案件として持ち込んで交渉の扉を開いた。
 丁度そのような物件を探していた大手の商社が興味を持って話しが進んで行き、ユキは海老で鯛が釣つれそうだと、予想以上の成果に小躍りしたまではよかった。
 その後の会合を重ねるにつれて、ユキはジリジリと追い込まれていった。コチラの要望を受け入れられ喜んでいると、その奥に様々なオプションが条件規定として盛り込まれていた。
 そして最後に、総合的に考慮すれば、商店街ごと身売りして、商社の傘下となり、モールとして再構築していくことが最良の選択となっていた。
 自分では有利に交渉を続けているつもりであっても、そのように仕向けれていたのかもしれない。そうして最終的には商社に買い上げられてしまったのは目論見外だった。
 相手側の交渉の術中にはまってしまった。それは会社としてチームで仕事をしてくる商社側において、ユキひとりで対応しなければならなかった商店街は余りにも非力だった。
 ユキが困っているときには誰も手助けせずに、商店街の身売りを知りユキを詰る者も少なくなかった。そんなときコウは、何もできずにいた自分を責めた。
 最終的には希望者にはそのまま残ってもらえるように便宜が図られ、高齢で後継ぎがなく潮時とした店は、それに応じた売却費を支払い、新しいテナントに差し替えられていった。
 これほどまで商店街側に寄り添った選択ができるように取り計ってもらえたのは、ひとえにユキの尽力のおかげだった。最後まで先方と粘り強く話し合いを進めた成果だ。
 商店街時代の経営者に顔が利くユリは、そのまま管理責任者として、新規出店者とのパイプ役としても重宝されていた。それもユキが好条件を引き出すために自分の身を削ったことのひとつだ。
 今は既存旧店舗と新規店舗の割合は半々といったところで、新旧混成のハイブリッドなモールは、真新しさと物珍しさもあり、滑り出しは上々となった。
 そんな中でもユキがいつも心に残ることは、本当にこれで良かったという結論が出せていないことだった。既存の店がひとつ畳まれるたびに心が押し潰されるようで、ユキはコウの店で自戒の時を過ごしていた。
 今日は新旧の店舗ををひとつにまとめようと企画した一斉清掃の参加者が、なかなか集まらないことにやきもきして、コウに話しを聞いてもらいたくて店を訪れた。
 コウに話していると新たなアイデアが浮かんだり、モチベーションが回復してくるとユキに言われたことがある。それをわかってコウもユキの話しを黙って聞いていた。
 ただいつもそうあるわけでもなく、そうでない日の方が多い。高い壁はいつだって目の前にそそり立ち、どうあがいても越えられる気がしない。ユキは事あるごとに確認しなければ崩れ落ちそうになる。
「コウちゃんは、コレで良かったって言ってくれるけど、本当に良かったのか、今でもわからなくてね。ミタムラさんだって、あんなジムじゃ本意じゃなかったから、こうしてまたプロボクサーを育てようとしているんでしょう、、」
 ミタムラの名を出したのはそういうことだったのかと、コウダは下衆な勘繰りとも言える様々な憶測を反省した。
「そんなことないですよ。みんなユキさんに感謝してますって。どうしたってあのままじゃ、廃れていく一方だったでしょう。少しでもいい条件で手放せる、最後のチャンスだったんですよ」
 サンドウィッチの皿が空になったところで、コウはストックボックスから殻付きの落花生を取り出し、テーブルに一握り置いた。新聞紙を折って作った殻入れを添える。
「昔は色んな業種の店舗が混ぜこぜになって、自然と商店街という形になってたよね。駅向こうになんか、ストリップ劇場もあったけど、ぜんぜん違和感ないし、自然と溶け込んでたもんね。コッチにはこんな場末のバーとか、妙なホテルもあるし、、 」
 両手で落花生の殻を砕き、手のひらにこぼれた実を指でつまんで口にするユキ。香ばしい匂いが鼻に抜ける。
「場末って、、 こんなとか、、 」コウは口元を下げて不満をしめしてみせる。
 どんなに自分がいいと思っていても、それが継続していくかは別問題だ。世界は多くのひとが望んだ風景に次々と塗り替えらえていってしまう。
「ゴメン、ゴメン。話の流れよ。それに、いい意味で言ってるのよ。アジがあるってことよ」
 フォローされるほどに、落ち込みそうな気分になっていく。
「それにあのホテルって、ありゃ洋風木銭宿でしょ、部屋だって4室だけだし。帰りっぱぐれたヤツが転がり込むようなとこでしょ」
 ホテルの店長とコウとは、昔なじみの腐れ縁のために言いたい放題だ。ユキはブラックのコーヒーを口に含む。落花生とコーヒーがお互いの旨味を引き立ててくれる。
「そんなこと言っちゃって、ホテルマリアージュって、ビルボードしてあるでしょ。それにモールにだってホテルで申請されてるんだから」と、どこ吹く風のユキだ。
 それならウチだってパブリックバーで申請してるし、屋号もパブ・ペニーレインだと文句を言いたいところだ。
 昔の風景がどんなに良かったとしても、風景が変われってしまえばそれがふつうだと馴染んでしまう。過去を思い起こすから郷愁などといって感傷的になり、それに価値があるように思えてくる。
 ホテルもここも、今のモールには異質な空間でしかない。近いうちに、なんだかんだと理由を付けられて、引き払いになる最右翼のはずだ。
 ここにこんな店があったと覚えていてもらえればいいほうで、更地になればほとんどのひとは、ここがなんだったかと思いだすのにひと苦労して、新しい建物が立てばキレイさっぱり忘れ去られるだけだ。
 最近では馴染みの客はめっきり減ってしまったし、今更新規の客を呼び込むような店でもない。コウは今の店の雰囲気を維持できなければ、続ける意味がないと口にした。
 そうでもないのよとユキが答えた。
「モールのオーナーが、ちょっと変わり者なのは知ってるでしょ。身売りした時、必ず残して欲しい店のリストがあってね。それで結構やりあっちゃって、向こうの条件にも譲歩したけど、コチラの意地も通させてもらったのよ。ああ、オーナーと直接じゃなくて、その使いの人とね」
 コウにもオーナーのことはいろいろと耳に入っている。先見の明があり、買収した企業は必ずV字回付させるなど必ず結果を残してきた人物だ。そんなメディアを賑わすようなカリスマ経営者の割には表に出ることは一切ない。
 それにしても残す店のリストのことは初耳だった。そこにどんな店が書かれているのか、どんな取引がなされたのか、コウも気になるところではある。
「もう、今だから言うけど。そこにね、この店も入ってたのよ。おどろきでしょ」
 驚いたのはコウのほうだった。てっきりユキが口利きしてくれて続けることができたものだと思っていた。それがオーナー側からの希望だったとは。意味がわからなかった。
「もちろん、わたしだって残すつもりでいたけど、向こうから言ってくるから、安売りしちゃいけないと思って、いろいろと条件付けさせてもらったわよ」
 確かに他の店舗でも好条件で継続しているところがある。ユキの出した条件をここまで聞いてくれたのは何故かと、いろいろと悪いウワサにもなっていた。
「夜食までいただいて、美味しかったわ。ありがとね。全部払うから。いくら?」
「いいんですよ。これは、オレもちょっと腹減ってたし」
 そして、コウは自分の店の他に、どの店が同じようにリストに載っていたのか気になった。たぶんそこにはあのボロホテルも含まれているのは察しがついた。
「いいから。ちゃんとレジ打って。消費税もね。もうドンブリはダメでしょ」
 それもコウの悩みどころだった。モールになってから、一日の売上がすべて本部に管理されている。イントラにつながったレジは支給されたので懐は傷まないが、これまでのようにツケだ、奢りだといった客とのやり取りができなくなった。
 モールになって合理的で効率的になり、人情味や家族的な側面は失われた。ユキとしても量の大小に関わらず、立場上タダ飯を食うわけにはいかない。
 コウにとっては昔ながらの付き合いのある人と、そういったやり取りができないのは苦痛な面もある。上から言われたことと割り切るしかない。
 そのような片苦しさが嫌で、モールになってから店をたたんでしまった所もいくつかあった。新しいオーナーのやり方についてこれなければ、早かれ遅かれ店をたたむことになる。
「ユキさん、まさか以前からの店子がいなくなるまで、面倒見るつもりですか?」
「そうね。そこまで会社が雇ってくれればの話だけど。わたしにも意地があるからね。残ってくれたお店には、ちゃんと幸せになれたか見ていてあげたいの」
「そんな、ユキさんが背負うことじゃないでしょ」
「そうなんだけどね。そこにどれぐらいの意味があるかわからないし、誰もそんなこと望んじゃいないだろうけど、なんかね、やりきらなくちゃいけないって思ってる」
 ユキが寂しげにグラスを傾けている姿を見ているのはコウも辛かった。コウが何を言おうと、ユキは最後までやり遂げるだろう。
 ユキにいつまで続けると訊かれて、曖昧にはぐらかすのも、なんとか自分が最後のひとりまで頑張って、ユキの苦労に報いたかった。
「どうして、リストにあったのか訊かないのね?」
 そのためにもユキに迷惑はかけられず、モールのルールは守って面倒を起こさないようにしなければならない。
「そうですね。知らないほうがいいこともあるし、たぶんこの世は、知らずにいたほうがいいことがほとんじゃないですかね」
「コウちゃんは、優しいね。そういうセリフはこんなオバちゃんじゃなく、もっと若いコにしてあげなさいよ。誰か気になるコでもいないの?」
「よしてくだい。自分はもうそういう年でもないし、ガラでもないんですから。それに、、」
 ユキに惚れているというわけではない。人としての恩義を感じているだけで、ユキがこれまでに自分にしてくれたこと、商店街にしてくれたことに感謝したいだけだった。
「、、それに?」
 それを恋愛感情と絡めることはない。男女というだけで上手くいかないこともある。
「若いコとは、こんな話しをしても通じないのはわかってますから」
 殴られた顔のアザは消えようども、心のアザは消えない。コウは殻入れに入った落花生の殻をダストボックスに捨てた。落花生はもうすっかりと食べられていた。
「ゴメンね余計なこと言っちゃって、だから年寄は、って言われちゃうのよね。こないだもコーヒー屋さんのオーナーに夜警の話したら、今どき? って顔さたのよね」
 そう言ってユキは冷めたコーヒーを飲み干す。財布からカードを取り出して、端末にかざす。支払いが終了するとレシートが出てくる。ユキはそれをカットして眺める。
「便利なものね、、」
 便利なことと引き換えに、多くの笑顔を失ってきた。そんな中でもまだ自分を押し通そうとする人たちがいる。進化するだけでは何か違っているようで、後退することで生きることの意味を見つけようとしている人たちがいる。
 モールの夜間照明は、その灯りが届く店と、届かない店を明確に分けていた。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(パブ・ペニーレインにて3)

2025-01-05 15:21:59 | 連続小説

 ショウの見送りを終えてコウが店内に戻って来ると、ユキが怪訝な表情をしていた「知り合いだったの?」。
 コウは首を振る「久しぶりにお見えになったんで、またご来店いただけるようにお声がけしたんです」。ユキの大声を詫びたことは言わない。
「なに敬語使ってるのよ」ユキにではない。
「でも、いい心掛けね。リピーターって言うんだっけ? そういうお客さまをひとりでも増やしていかないとね」と、満足気に言う。
 コウはその言葉には曖昧に肯くにとどめた。そんなことよりユキが持ち出した話しを続きがしたかった。
「ミタムラさんのこと、気になるんですか?」
 ミタムラが最近店に来なくなったのはそういう理由かと、ユキの話しを聞いてコウは納得した。ジムが刷新されて、ようやく妻のエイコを楽をさせられると言っていた矢先に彼女を亡くした。
 それからは、この店に入り浸るようになり、深酒を繰り返していた。ユキに随分と慰めてもらっており、コウも少し勘ぐってしまった。
 エイコにこれまでの苦労を労うつもりだったミタムラが、亡くなってすぐに親友だったユキとそのような関係になるはずもなく、やはりその悲しみを紛らわすにはボクサーを育てるしかなかったようだ。
 それにしても女性とはと、コウも耳を疑った。ショウが居たために、込み入ったことは訊けなかった。ユキの回答によっては、どのような会話に転ぶかわからない。
 気にかかっていたのはコウの方だった。だからこそユキの本音を聞いておきたかった。
 しばらく間が空いて、そして何を訊きたいのかを理解してユキが首を横に振る。コウの問いには女ボクサーと、ミタムラとが同時に含まれていた。
「わたしが?」ユキの回答はミタムラへのものだった。
 その否定のしかたに、コウは少なからずの羨ましさを覚えていた。ユキはそんなコウの想いを気にかけることなく、小皿に用意されたドライフルーツをかじり、頬杖をついてソッポを向いて言った。
「どうしたの? 興味ないかと思ったけど、、」
 ユキの目先には昔の映画のポスターが貼ってあり、主演の女優がグラスを手にしている。ユキは見るともなしにそれを眺め、ため息をつく。ため息の理由は幾つもある。
 コウはユキのコースターを新しく差し替え、その上にグラスを置き直した。何だかユキに余計な負担をかけさせてしまったようでコウは後ろめたくなった。そして言い訳してしまう。
「すいません。関心がなかったわけじゃないんですけど、自分の中で整理したり、、 それに、さっきは他のお客さんも居たんで、、」
 コウがそう言うと、ユキは目線を戻してきた。
「そうね、知らない人の前で、ひとのウワサ話しなんてするもんじゃないわね。ごめんなさい。でもねえ、ジムもあんなんになっちゃたし、なんで今更って思っただけよ」
 片付け物をする途中で、古傷が痛むように指をこすり合わせる仕草をするコウ。やはり人差し指に何か理由があるのかもしれない。
「いいんじゃないですか。ミタムラさんが育てるんだ。どんなボクサーになるのか楽しみじゃないですか?」
 ミタムラに女性のボクサーが育てられるか分からないのに、コウはそんな言葉を言ってしまう。
「そう?」ユキの返事は、素っ気のないものだった。
 ミタムラがどんなボクサーを育てるかなんてユキにも興味はない。それを知って、あえてコウはそちらの話しに持って行こうとしているだけだ。
「だってね、メグちゃんもいい迷惑でしょ? どこの誰かもわからないコの面倒みさせられて、結局メグちゃんに負担がかかるだけなんだから。エイコちゃんが大変だったこと未だにわかってないんじゃないの。だからカラダを壊したとは言わないけど、そういうとこ、オトコってニブイのよね」
 本心ではもっと文句を言いたかったはずだ。身に覚えのあるコウは苦笑いを浮かべるしかない。ミタムラの妻のエイコとユキは小学生からの付き合いで、そんなエイコを長い間にかけて何かと気にかけていた。
 ユキが気にかけているのはミタムラだけではなく、家族の全体のことも含んでいた。ただ、それもまだ全部ではなかった。
「目をかけたボクサーを家に連れ込んで、衣食住の面倒をみていたことですか?」
 それは、生活の負担を少しでも取り除いて、ボクシングに集中する環境を用意することと、常に自分の監視の中に置いておくことと、ふたつの理由があった。
 ボクサーは生活の負担が軽減されるとともに、知らぬ間にミタムラの監視下に置かれ、食事にしても、睡眠にしても、性欲にしてもコントロールされていた。
 そもそもミタムラに見出されたボクサーは、その生活のすべてをボクシングに注いでおり、試合のみに集中できるその環境は大歓迎だった。
 そうしてミタムラは、名もない若者をランカーまで伸し上げ結果を出していった。名が売れると彼らはメジャーなジムへ引き抜かれて行った。それなりの移籍金を置土産として。
「ミタムラさんが見ていたのは、ボクシングに関することだけでしょ、あとは食事の準備から、日常生活の全般はエイコちゃんがひとりで賄ってたんだから。その気苦労の大変さをわかりもしないで、、」
「、、そういうとこ、オトコってニブイのよね。と」ユキのセリフをコウが先に取り上げた。
「そう言うこと」ユキは両肩をすくめた。
 ミタムラは手にした移籍金はすべてジムや、次のボクサーへの投資に遣った。ボクサーを家に迎え入れても、その費用は給料内でやりくりさせた。生活は常にギリギリで、それもエイコの心労になっていった。
「それが今回は女のコでしょ。一体どうやって目を光らせるつもりなのか知らないけど。これじゃ、メグちゃんも大変よね」
 ミタムラは女性の生活に、どこまでストイックを強要するつもりなのか。メグが同い年ぐらいの同性に、どこまでのケアができるのか、ユキにはふたつの心配事があった。
「それにしても女ボクサーとは、ユキさん、気が気でないんじゃないですか」気が気でないのはコウの方だ。
「だからあ、そういゆんじゃないって」ユキは口を尖らせる。
 そういった意味合いではなかったが、コウは口が過ぎたとアタマを下げた。
 コウはフリーザーからツナ缶、ハム、マヨネーズに、トマト、レタスなどの野菜を取り出す。そしてストックボックスにある食パンを取り出し、サンドウィッチを作り出す。
 右手の人差し指は伸ばしたままに、包丁を入れてひとくち大に切り分けていく。
「あら悪いわね。これはコウちゃんのおごり? ちょうどお腹もすいてきたし、なんたって夕食抜きで一斉清掃の名簿集めてたからね」
 失言のお詫びのつもりかと、先回りして礼を言うユキは、早速ひとつまみする。
「コウちゃんはいつまで続ける気なの?」
 コウもひとつ口にする。自分が食べるにはマスタードをもう少し効かせたいところだが、ユキが苦手なのを知っている。
「そうですね。半ば道楽みたいなもんですから。出てけと言われるまでは続けようと思ってます」
 ユキは商店街の時代から店を構えているひとたちを何かと気にかけている。新く出店した店のオーナーと仲良くやって欲しいし、新しいモールにも馴染んでもらい、少しでも長く続けて欲しかった。
 そうでなければ自分がここまで頑張ってきたことが無駄になってしまうようで、多くの家庭の生活を変えてしまった是非を見極めたかった。
「道楽ってことないでしょ。これでゴハン食べてるんだし。えっナニ? 他に実入りのいい食扶持でもあるの? 私にも紹介してよ。ていうか日中何してるのよ?」
 誘導尋問にでも引っ掛けられた気分のコウは、ひきつった笑いをする。ユキもこうした明け透けな話しができる相手は、商店街からの付き合いのある人の中でも、そう多くあるわけではない。
「そんなのある訳ないでしょ。雨風しのげる家さえあれば、男がヤモメで暮らすぐらいは何とかなるってことですよ」
 実際その通りだった。無駄づかいすることなく、酒の仕入れ代を優先して、食べ物も贅沢せずに店の残りものなどですませて何とかカツカツだった。
「ふーん、どうだかね。教えてくれないんだ」
 同じ日々を過ごすことだけが自分に課せられた使命のように、コウは粛々とそれを続けている。それにいったい何の意味があるのか、やり続けていったいどうなるのか、わからないままに。
「聞いて面白いハナシなんかありませんよ。そうでなきゃいつまでも独り身でいませんから」
 この話題をおしまいにしようと、今度はインスタントのコーヒーを入れ出した。棚の奥からマグカップをふたつ取り出し、スプーンで適量をすくい出しポットのお湯を注ぐ。
 ユキはコウの触れてはいけない過去を耳にしたことがあり、ことの真意は定かでなくても、言葉は慎重に選ばなければならないと心得ている。
「そう、話せる時が来たら、いつでも耳を貸すからね」ユキもそこに、ふたつの意図を含ませてきた。
「 、、まさかね」やりかえされたカタチのコウは、薄く笑みを浮かべてみせる。
 ユキのグラスはすでに空になっており、そのまま下げてコーヒーをさし出す。ユキはお礼を言ってカップを手元に引き寄せた。ふたりともブラックが好みなので、今回は同じでも問題ない。
 人の心配している場合ではないはずなのに、ユキはこうした気遣いをわすれない。コウは押しつぶされそうだった。気遣わなければならないのは自分の方であるのに。
「ユキさん、あんまり無理しないでくださいよ。オレなんかが言うのもなんですけど、ユキさんは十分やってますから。だけど、それだけでは何ともならないことはあるんです。清掃の件だって、どれだけの人がユキさんの気持ちを汲んでいるか。でも、それも時代です。しかたがないことですよ」
 それは、多くのことを成し遂げたくてもできなかった、コウ自身の思いも含まれている。ひとを動かせるような人間はほんの一握りだ。
 ユキは自分に比べれば周りを巻き込んでいく力がある。ただ、ひとりだけではなんともできない領分まで何とかしようとしている。
 商店街を大きく様変わりさせてしまったと負い目を感じ、失地を回復しようとする行動であり、それが気負いとなり、空回りをしはじめているのが見ていて痛ましかった。
「そうねえ、困難ばかりだけど、それをやらないと、自分が生きている意味がないと思えるの。そうでないと電源を切られてしまうのよ。きっと」
 それにいったい何の意味があるのか、やり続けていったいどうなるのか。ユキもまた、自分にもわからないままに。