ショウの見送りを終えてコウが店内に戻って来ると、ユキが怪訝な表情をしていた「知り合いだったの?」。
コウは首を振る「久しぶりにお見えになったんで、またご来店いただけるようにお声がけしたんです」。ユキの大声を詫びたことは言わない。
「なに敬語使ってるのよ」ユキにではない。
「でも、いい心掛けね。リピーターって言うんだっけ? そういうお客さまをひとりでも増やしていかないとね」と、満足気に言う。
コウはその言葉には曖昧に肯くにとどめた。そんなことよりユキが持ち出した話しを続きがしたかった。
「ミタムラさんのこと、気になるんですか?」
ミタムラが最近店に来なくなったのはそういう理由かと、ユキの話しを聞いてコウは納得した。ジムが刷新されて、ようやく妻のエイコを楽をさせられると言っていた矢先に彼女を亡くした。
それからは、この店に入り浸るようになり、深酒を繰り返していた。ユキに随分と慰めてもらっており、コウも少し勘ぐってしまった。
エイコにこれまでの苦労を労うつもりだったミタムラが、亡くなってすぐに親友だったユキとそのような関係になるはずもなく、やはりその悲しみを紛らわすにはボクサーを育てるしかなかったようだ。
それにしても女性とはと、コウも耳を疑った。ショウが居たために、込み入ったことは訊けなかった。ユキの回答によっては、どのような会話に転ぶかわからない。
気にかかっていたのはコウの方だった。だからこそユキの本音を聞いておきたかった。
しばらく間が空いて、そして何を訊きたいのかを理解してユキが首を横に振る。コウの問いには女ボクサーと、ミタムラとが同時に含まれていた。
「わたしが?」ユキの回答はミタムラへのものだった。
その否定のしかたに、コウは少なからずの羨ましさを覚えていた。ユキはそんなコウの想いを気にかけることなく、小皿に用意されたドライフルーツをかじり、頬杖をついてソッポを向いて言った。
「どうしたの? 興味ないかと思ったけど、、」
ユキの目先には昔の映画のポスターが貼ってあり、主演の女優がグラスを手にしている。ユキは見るともなしにそれを眺め、ため息をつく。ため息の理由は幾つもある。
コウはユキのコースターを新しく差し替え、その上にグラスを置き直した。何だかユキに余計な負担をかけさせてしまったようでコウは後ろめたくなった。そして言い訳してしまう。
「すいません。関心がなかったわけじゃないんですけど、自分の中で整理したり、、 それに、さっきは他のお客さんも居たんで、、」
コウがそう言うと、ユキは目線を戻してきた。
「そうね、知らない人の前で、ひとのウワサ話しなんてするもんじゃないわね。ごめんなさい。でもねえ、ジムもあんなんになっちゃたし、なんで今更って思っただけよ」
片付け物をする途中で、古傷が痛むように指をこすり合わせる仕草をするコウ。やはり人差し指に何か理由があるのかもしれない。
「いいんじゃないですか。ミタムラさんが育てるんだ。どんなボクサーになるのか楽しみじゃないですか?」
ミタムラに女性のボクサーが育てられるか分からないのに、コウはそんな言葉を言ってしまう。
「そう?」ユキの返事は、素っ気のないものだった。
ミタムラがどんなボクサーを育てるかなんてユキにも興味はない。それを知って、あえてコウはそちらの話しに持って行こうとしているだけだ。
「だってね、メグちゃんもいい迷惑でしょ? どこの誰かもわからないコの面倒みさせられて、結局メグちゃんに負担がかかるだけなんだから。エイコちゃんが大変だったこと未だにわかってないんじゃないの。だからカラダを壊したとは言わないけど、そういうとこ、オトコってニブイのよね」
本心ではもっと文句を言いたかったはずだ。身に覚えのあるコウは苦笑いを浮かべるしかない。ミタムラの妻のエイコとユキは小学生からの付き合いで、そんなエイコを長い間にかけて何かと気にかけていた。
ユキが気にかけているのはミタムラだけではなく、家族の全体のことも含んでいた。ただ、それもまだ全部ではなかった。
「目をかけたボクサーを家に連れ込んで、衣食住の面倒をみていたことですか?」
それは、生活の負担を少しでも取り除いて、ボクシングに集中する環境を用意することと、常に自分の監視の中に置いておくことと、ふたつの理由があった。
ボクサーは生活の負担が軽減されるとともに、知らぬ間にミタムラの監視下に置かれ、食事にしても、睡眠にしても、性欲にしてもコントロールされていた。
そもそもミタムラに見出されたボクサーは、その生活のすべてをボクシングに注いでおり、試合のみに集中できるその環境は大歓迎だった。
そうしてミタムラは、名もない若者をランカーまで伸し上げ結果を出していった。名が売れると彼らはメジャーなジムへ引き抜かれて行った。それなりの移籍金を置土産として。
「ミタムラさんが見ていたのは、ボクシングに関することだけでしょ、あとは食事の準備から、日常生活の全般はエイコちゃんがひとりで賄ってたんだから。その気苦労の大変さをわかりもしないで、、」
「、、そういうとこ、オトコってニブイのよね。と」ユキのセリフをコウが先に取り上げた。
「そう言うこと」ユキは両肩をすくめた。
ミタムラは手にした移籍金はすべてジムや、次のボクサーへの投資に遣った。ボクサーを家に迎え入れても、その費用は給料内でやりくりさせた。生活は常にギリギリで、それもエイコの心労になっていった。
「それが今回は女のコでしょ。一体どうやって目を光らせるつもりなのか知らないけど。これじゃ、メグちゃんも大変よね」
ミタムラは女性の生活に、どこまでストイックを強要するつもりなのか。メグが同い年ぐらいの同性に、どこまでのケアができるのか、ユキにはふたつの心配事があった。
「それにしても女ボクサーとは、ユキさん、気が気でないんじゃないですか」気が気でないのはコウの方だ。
「だからあ、そういゆんじゃないって」ユキは口を尖らせる。
そういった意味合いではなかったが、コウは口が過ぎたとアタマを下げた。
コウはフリーザーからツナ缶、ハム、マヨネーズに、トマト、レタスなどの野菜を取り出す。そしてストックボックスにある食パンを取り出し、サンドウィッチを作り出す。
右手の人差し指は伸ばしたままに、包丁を入れてひとくち大に切り分けていく。
「あら悪いわね。これはコウちゃんのおごり? ちょうどお腹もすいてきたし、なんたって夕食抜きで一斉清掃の名簿集めてたからね」
失言のお詫びのつもりかと、先回りして礼を言うユキは、早速ひとつまみする。
「コウちゃんはいつまで続ける気なの?」
コウもひとつ口にする。自分が食べるにはマスタードをもう少し効かせたいところだが、ユキが苦手なのを知っている。
「そうですね。半ば道楽みたいなもんですから。出てけと言われるまでは続けようと思ってます」
ユキは商店街の時代から店を構えているひとたちを何かと気にかけている。新く出店した店のオーナーと仲良くやって欲しいし、新しいモールにも馴染んでもらい、少しでも長く続けて欲しかった。
そうでなければ自分がここまで頑張ってきたことが無駄になってしまうようで、多くの家庭の生活を変えてしまった是非を見極めたかった。
「道楽ってことないでしょ。これでゴハン食べてるんだし。えっナニ? 他に実入りのいい食扶持でもあるの? 私にも紹介してよ。ていうか日中何してるのよ?」
誘導尋問にでも引っ掛けられた気分のコウは、ひきつった笑いをする。ユキもこうした明け透けな話しができる相手は、商店街からの付き合いのある人の中でも、そう多くあるわけではない。
「そんなのある訳ないでしょ。雨風しのげる家さえあれば、男がヤモメで暮らすぐらいは何とかなるってことですよ」
実際その通りだった。無駄づかいすることなく、酒の仕入れ代を優先して、食べ物も贅沢せずに店の残りものなどですませて何とかカツカツだった。
「ふーん、どうだかね。教えてくれないんだ」
同じ日々を過ごすことだけが自分に課せられた使命のように、コウは粛々とそれを続けている。それにいったい何の意味があるのか、やり続けていったいどうなるのか、わからないままに。
「聞いて面白いハナシなんかありませんよ。そうでなきゃいつまでも独り身でいませんから」
この話題をおしまいにしようと、今度はインスタントのコーヒーを入れ出した。棚の奥からマグカップをふたつ取り出し、スプーンで適量をすくい出しポットのお湯を注ぐ。
ユキはコウの触れてはいけない過去を耳にしたことがあり、ことの真意は定かでなくても、言葉は慎重に選ばなければならないと心得ている。
「そう、話せる時が来たら、いつでも耳を貸すからね」ユキもそこに、ふたつの意図を含ませてきた。
「 、、まさかね」やりかえされたカタチのコウは、薄く笑みを浮かべてみせる。
ユキのグラスはすでに空になっており、そのまま下げてコーヒーをさし出す。ユキはお礼を言ってカップを手元に引き寄せた。ふたりともブラックが好みなので、今回は同じでも問題ない。
人の心配している場合ではないはずなのに、ユキはこうした気遣いをわすれない。コウは押しつぶされそうだった。気遣わなければならないのは自分の方であるのに。
「ユキさん、あんまり無理しないでくださいよ。オレなんかが言うのもなんですけど、ユキさんは十分やってますから。だけど、それだけでは何ともならないことはあるんです。清掃の件だって、どれだけの人がユキさんの気持ちを汲んでいるか。でも、それも時代です。しかたがないことですよ」
それは、多くのことを成し遂げたくてもできなかった、コウ自身の思いも含まれている。ひとを動かせるような人間はほんの一握りだ。
ユキは自分に比べれば周りを巻き込んでいく力がある。ただ、ひとりだけではなんともできない領分まで何とかしようとしている。
商店街を大きく様変わりさせてしまったと負い目を感じ、失地を回復しようとする行動であり、それが気負いとなり、空回りをしはじめているのが見ていて痛ましかった。
「そうねえ、困難ばかりだけど、それをやらないと、自分が生きている意味がないと思えるの。そうでないと電源を切られてしまうのよ。きっと」
それにいったい何の意味があるのか、やり続けていったいどうなるのか。ユキもまた、自分にもわからないままに。