『90で!」時速90kmをキープすれば間に合うと言ってきた。
その言葉を聞きマリイは90kmに乗せる。急いでいれば、もっと踏み込んでもよさそうなところでも、必要以上にスピードを出さないのは、必要な距離で止めるためにハードなブレーキを強いる羽目になってしまうからだ。
決めたクリッピングポイントを取るためにブレーキをドカンと踏み込んでしまえば、タイヤがロックして逆に制動距離も長くなる。タイヤも傷むし、ブレーキにも負荷がかかる。
ブレーキパッドが過熱してしまえば、このあとでどうしても酷使しなければならない時に、思ったように止まれなくては意味がない。それがエイキチの考え方だ。
このクルマで、最短の時間で目的地につく手段をトータルで考えて、クルマに極度の負担をかけ続けることは避けなければならない。
これまで自分の思う通り、好きなように走ってきたマリイには、最初はそれがよくわからなかった。速く走り、短い距離で止まり、すかさず加速する。それ以外に何が必要なのかわかっていなかった。
マリイの視界は前方を広角に捉えている。大通りのクルマの流れ、人の行き交い、バイクや自転車の有無をチェックする。エイキチからの情報と掛け合わせて、リスクを最小限に抑える走りができるよう準備は怠らない。
いくら速く走れても事故を起こせば元も子もない。必ず止めれるタイミングをポケットに入れておく。そのためにも、クルマに負担をかけない走りが必要になる。それがエイキチの教えだった。
確かにこれまでは最初のうちは速くても、後半にダレていくことが多かった。クルマが言うことを利かなくなっていくのがもどかしかった。それが自分の所為だとは知らなずにいた。
歩行者信号の青色が点滅しはじめるのが目に入った。もうすぐ信号が黄色に変わる。左折するにはまだ余裕があった。
そのときエイキチが叫んだ。
「マルイチだっ!」マリイは頰を引きつらせる。
ひとりの歩行者が、左折先の横断歩道を渡ろうとしている。マリイの進入と重なる。このままだと歩道の前で一旦停止してやり過ごすことになり、ストップアンドゴーは時間の大幅なロスになる。
「マルイチも渡ろうと急いでいる。前に出るな。先に行かせるんだ」あえてエイキチは冷静に話しかける。
了解のシグナルをピッと鳴らす。オウとか、わかったとか、それだけでも口にしたくない時は無線で音を送るようにしている。交差点まで100mしかない。
エイキチの指示を踏まえて走りを変えていった。それで以前より早く現地につき、人を拾って送り届けることができるようになった。ひとりで走っていたら決して気付かなかったことだ。
マリイの位置からも歩行者が見えた。歩行者信号の青が点滅しはじめて小走りになった。ジワリとブレーキをみ込む。コチラの存在を気づかせてはならない。
クルマが左折してくると感づけば歩行者の足が止まる。そうなってはマリイも安全を期してクルマを止めなければならなくなる。アレをやるしかないと決断する。
今が良ければ、その先がどうなるか出たとこ勝負だったのは、なにも走りだけではなかった。マリイは以前よりも上手に生きていけるようになった。それが自分にとって正しいかどうかは別問題だった。
前輪に荷重が適度にかかったところでステアをあてて、リアを少しだけ横に滑らせる。横荷重を保ちながら、その動きを殺さぬようにカウンターを切る。派手なスキール音は立てない。
すかさずクラッチを切ってスロットルを戻す。エンジン音が無となり、惰性で左折して行く。先程のコーナーリングとは違うアプローチだ。
実際のスピードより、その残像はゆっくりに見える。だが速い。歩行者は信号の点滅に気がいっており歩みを早めた。その後ろをアルファは音もなく通り抜けて行く。
それは清風が通り過ぎて行ったかのように、歩行者の背後をかすめて行った。トルクがかかっていないクルマを制御するために、超絶のステアリング捌きでアルファを進行方向に向ける。
前を向いたところでスロットルを踏み込みながらシフトを2速に入れる。すぐさま回転数を合わせ、加速に必要なトルクを生み出すと、ケツを叩かれた跳ね馬のように、アルファは一気に前に押し出される。
信号を渡り終えた歩行者は、突然耳に届くその音に何事かと振り向く。その時はすでにマリイのアルファは視界から遠のいていった。通行人をやり過ごすための神業的な走行をアドリブで行っていた。
交通量の多い場所で目立つ走りは控えていた。それは代理人からの忠告があったからだ。完璧なミッションをやり遂げても、アタマにそんな呪縛が浮かんでいた。舌打ちをするマリイ。
いくら自由に走っているつもりでも、飼い犬のように首輪をつけられて、その範囲でしか走り回れない自分が無性に腹立たしかった。アルファは再び加速して車列に合流していく。
「すげえな。いつそんな走りを身に着けたんだ?」エイキチが言う。マリイは何も返さない。
どう対処するか、アタマの中で咄嗟に考えた。イメージだけが先行して、それを具現化するようにカラダが反応していった。誰にでも、直ぐにできるような簡単な走りではない。それなのに単純に喜べなかった。
何かと比較するわけでもなく。今できるベストなパフォーマンスを成し遂げたとき、マリイは何にも代えがたい喜びを感じられていた。エイキチの言葉から、自分の走りが磨かれていくことが心地よかった。
それなのに、やはり慣れていくのか、現状に満足できていないのか、飼い犬になりつつある自分が許せないのか、以前のように無のままに、自然と湧き上がる高揚感はなかった。
速く走りつつも、抑制している。自分の欲望よりも体裁を先行している。エイキチと培ってきた能力を、上から咎められないために使っている。
目的地には1分前に着くことができた。これ以降もエイキチの、ラリーでのコ・ドライバーがおこなうコーチングさながらの、適切な状況描写とマリイの鋭い状況判断でキレのある走りを繰り返し、通常では到達できない時間で約束の地に着いていた。
公園の入り口で男性をピックアップし、駅までの道のりは、法定速度で間に合うほどの時間を作ってしまった。
初老の男性は礼儀正しい人で、何度もマリイにお礼を言い、マリイもこれには閉口してしまう。相席になった女性にも、寄り道をさせてしまったことを丁寧にお詫びしていた。
客が相席になること自体はじめての状況で、慣れないマリイもどう対処していいかわからず、紳士然とした男性の取り扱いに苦慮してしまう。
金一封に気がいって、この状況まで想定できなかった。あまり早く着きすぎるのも良くないので、黙らせるためにスピードを出す訳にもいかない。
こんな時のエイキチは、客の取り扱いまでは業務外とばかりに無言だ。男性はどちらに話しかけるでもなく自分のことを話した。
どうしても乗らなければ間に合わない電車の時刻があると、その理由を切々と語っていた。返事をしなくても済むのは幸いだった。車内は三人のそれぞれの思惑の中で、混沌とした雰囲気となっていた。
男性を駅に届ける時には、よりスローダウンして、警官の目につかないように配慮する。男性が希望する電車の発車時刻には、余裕で間に合う時間に横付けする。
降りる間際に男性は、酷くスピードが出るから気をつけるよう言われたが、普段のタクシーより乗り心地が良かったと、笑顔で言った。
男性は満足だったかもしれないが、マリイには誉め言葉ではなかった。唯一の報いは、これで金一封を手にすることができただけだった。
なにか自分の気持ちを見透かされているようで、あとに残った女性客の存在がやけに疎ましかった。それはマリイが自分の本心を偽って、この仕事をし続けていることが紛れもない事実だからだろう。
クルマはモールの裏手に着けられた。ここが女性を降ろす場所だった。行き先はモールの中にあっても、クルマは進入することができない。そのため自分たちのガレージの出入り口になっている裏側に着けられた。
商店街からモールに仕様替えして、風景がどんどんと変わっていった。それはマリイが乗り付ける裏手側からも見て取れた。
寂れて落ちぶれていただけの商店街は、複合ショッピングセンターのようなショップも増えてきている。それがなにかノスタルジックな中に、真新しい最新の店もありといった、複雑な景色を作り出している。
近未来SFのロケーションだとか、異国の地にいるようだとかで好評らしい。変わりゆくモールがこの先どうなるか、変わった先が誰の望んだカタチになっているのか。表通りを歩かないマリイにはどうでもいいことであった。
女性客は、どうもとだけ言ってクルマを降りた。男性客を迎えに行く途中の高速運転の中でも、声をあげることももなく、ましてや気絶することもなかった。
それどころか、何か一部始終を監視されているように、マリイには感じられた。別れ際に何か言われるのではないかと、ここまでの道中は気になって仕方がなかった。
いまクルマを降りても、平衡感覚を失うことなく平然と歩いていく姿を見て、マリイは感心する一方で、彼女がいったい、このモールのどこに向かっているのか気になり、その後ろ姿を追っていた。
女性はそれに気づいたのかクルリと振り向き、マリイはバツが悪く視線を切る。
「ボクシングジムってどっち?」それを問うために振り返った様だ。
歩きはじめて思い出したのか、やはりクルマにヤラれて意識が朦朧としているのか。その言葉で気づいたかの体で目を合わた。
はじめてしっかりと見たその顔つきは、思ったより若かった。よく見れば高校生ぐらいにみえる。
自分と同じぐらいと踏んでいたのに、これでは気に掛けていた自分が、常に圧倒されていたようで、何とも格好がつかなかった。
マリイはすかさず西の方に親指を立て、正面から入って左に沿って歩けば見えてくると伝えた。女は軽く手を上げて再び歩き出していった。
「どうした?もう着いたんだろ」インカムからエイキチの声がした。
マリイは、ああとだけこたえる。ボクシングジムと言っても、今じゃダンス教室みたいになってしまったと聞いていた。
あの娘がそれを目的で行くとは考えにくかった。それもオーナーからの輸送依頼だ。しばらく彼女が歩く先を見ていた。本当にジムに向かうつもりなのか。そして途中で止めた。それを確認してどうなるわけでもない。
「気になるのか?」再びエイキチだ。
「別に、、」マリイはそそくさと事務所に向った。
もうこれ以上、自分の感情を推し量られるのは嫌だった。
客をピックアップしたことをエイキチに伝えるために、サインとして取り決めしてある無線のコール音を一度だけ鳴らす。ピッという電子音がする。
連絡を受けたエイキチは、目的地までの最新の交通情報を伝達しはじめる。エイキチのデスクまわりには、通行ルートの道路情報を知るために有効な様々な機器が備えつけられている。
エイキチは必要とされる情報があれば、マリイに伝えるために積極的に話しかけてくる。一方のマリイは客がいる手前、口にしないほうがいいことが多いため、急を要しない限り、ああとか、ウンとか、最低限の言葉しか口にしない。
もともと口数が多い方でもなく、話すことが苦手でもあり、客が話しかけてこないように、依頼を受けた際に、舌を噛む恐れがあるので余計な口をきいたり、おしゃべりはしないように同意を取ってある。
走り出せばシートにしがみついたりして、恐怖心と戦うので精いっぱいになり、喋ろうなどという気はなくなるので、そんなことをする必要はなかった。
それが今日に限って自分から話しかけてしまったのは失敗だった。急ぎの案件でないためスピードを出す必要もなく、普段にはない平穏な車内に沈黙が流れている。
それが却ってマリイには気になって仕方ない。こんな時こそクルマをぶっ飛ばして、すべてを思考から取り除きたい。それができない。いまはできないのだ。
「駅前の通りにケーサツが出張ってるんだよね。駅前広場の催し物にクルマで出かけた客が、違法駐車してるらしいんだ。途中で行き先が被ってるから、ちょっと遠回りになるけど、西側の小道を抜けて戻って来ればいい。どうせ、、 」どうせ急ぎじゃないのはマリイもわかっている。
エイキチには、警察がやり取りしている情報や、防犯カメラに介入し、その内容をモニターすることができる。走行する近郊界隈のあらゆる情報を、事前に手中に収めている。
勿論違法であり、さすがにこの件に関しては国家権力でも黙認してもらえるとも思えず、秘密裏で行なわれている。技術の革新は裏側で最先端が先行することが多い。
大通りをしばらく流れに沿って進み、言われた小道で左折する。マリイもよく利用しているので、大げさにいえば、目をつぶっても運転できる道だ。
そしてエイキチの指示を聞きながら運転すれば、本当に目をつぶっていても運転できるほど、情報の正確さと、エイキチの判断能力に限っては絶大に信頼をしている。
マリイが侵入した小道は、昔は用水路が流れていた場所で、そこを埋め立てて道路にしていた。家屋もそれに合わせて建てられているので、変に曲がりくねった道筋になっている。アルファはその道をスラロームするように軽快に走行していく。
あれから後部座席の女は黙りこくったままで、乗車してからずっと窓の外をボンヤリ眺めている。最初にこちらから声をかけた手前もあり、気軽に話しかけられると厄介だと心配していた。
この女性は、おしゃべり好きなタイプでもないらしく、変に話しかけられることもなく、相手をする必要もなさそうでマリイは安心した。
ここからは緩やかな右曲がりが続き、舵角を固定したままアルファを走らせていた。そこにエイキチから不意にアラートが入った。ある予感がマリイに思い浮かぶ。
エイキチからの指示が必要な運搬ではないために、オフにしていた無線を即座につないで「なに?」と、小声でぶっきらぼうに尋ねる。
「おう、用水通りの真ん中あたりだな。ごユルりとしているところ申し訳ないが、飛び込みが入ったから向ってくれ」
マリイはバックミラーで女をチラリと見上げ、「いいのかよ?」と、エイキチに問う。
「その客は急ぎじゃねえ。終わってからでいい」わかっているくせにと、ハナにかけて言う。
「フーン、どこ行けばいいんだ?」あっさりとした言葉の下に、気持ちの昂ぶりを隠している。
「喜べ、『上客』だ。中央通りの先にある公園前にいる。黒いジャケットの初老の男だ。アシストする」
最後に最大のご褒美を口にするエイキチに、先にそれを言えとばかりにマリイは舌打ちをする。それをモニターで聞き取り満足げにほくそ笑む。
エイキチはカラダに不具合があり、ひとりで外出することができない。若者が日がな一日、部屋にこもりっぱなしで仕事をするなど辛いところだが、エイキチはその条件だから働ける。
オーナーが、エイキチの才能を活かすために用意した仕事だった。エイキチもその恩に報いるために、オーナーから無茶なオーダーがあっても、ここぞとばかりにやりのけてみせた。
「30分後に駅に着きたい。さっきも言ったけど、駅はいま、違法駐車の取り締まり中だ。近づいたらスピードは出せない。その前までが勝負だ」
元来、手先が器用で、先端技術に明るいエイキチは、情報収集する機器やシステムも自分で設計し、組み立てた。さらに日々、改良にも余念がない。
パーツはマリイに頼んで出先で仕入れてきてもらっており、カメラへの仕掛けや、無線の設置は、帽子にカメラをつけて画像を飛ばし、エイキチの指示でマリイが取り付ける。その分担は運転と変わらない。
「わかってる。コッチも飛ばしたくってウズウズしてるんだ」
『上客』とは時間通りに輸送が終われば、給与とは別に金一封が即金で払われる客だ。かったるい運転を続けていたマリイは、俄然やる気が湧いてくる。
振り向いて女性と目が合うと、承諾したように肯く。それを見てマリイはすぐに前を向き直し言い放つ。
「寄り道するから飛ばすぞ。舌噛まないように口閉じて、シートベルトしてろ」
そう告げる先から、アルファはグングンと加速していく。即座に女性は言われたとおりにシートベルトを装着しはじめる。
後部座席であるのに腰に回すタイプではなく、肩からかけるベルトは、この年代のクルマでは標準装備ではない。この仕事用にエイキチが、やはり後付したものだった。
女性は胸の前のベルトにしがみついて両脚を踏ん張った。一から十まで説明する必要がなく助かるマリイも、寄り道もすぐに快諾することも含め、少し出来過ぎであると違和感が残る。
今はそんな仔細なことに構っている場合ではない。思考から排除してドライビングに専念するか、もしくは自然と思考から消え去っていく。その状態になれることがマリイに至極の悦びを与えてくれる。
エンジン音がこれまでとは違った咆哮をあげる。オイルの焼ける匂いが室内にも漂ってくる。アルファの車体がビリビリと細かい振動を震わす。
道路の少しのギャップも、タイヤからシートに伝わりカラダを弾く。それがマリイのエンジンの回転速度をあげる着火となる。
アルファと一体になり、マリイの中にはこれまでとは明らかに違う生命が甦ってくる。鼓動を打つ心音はカムの動きと同期し、そこから送り出される血流は、オイルと共に車体の各部に行き渡る。
ステアリングに添える指先の微妙な動きが、ラックアンドピニオンを通じてホイールを意のままにする。それは足先を波打つようにしたアクセルワークと相まって、車体を自由自在に制御していく。
目に入る視覚情報と、エイキチからの無線を含む耳に届く聴覚情報。そしてカラダ全体から伝わってくる、すべての情報をマリイが集約し、的確なアウトプットをおこないクルマを操りはじめた。
そこに他の何ものも介在することなく、クルマと共に、自分が最速で移動する歓びを満たしていくために。
マリイは人馬一体ならぬ人車一体になっていく。この時を生きるために、他のすべては眠った時間であり、時の流れを放棄しているといっても過言ではなかった。
この道の行き止まりとなるT字路が迫ってくる。前に1台クルマがいた。猛スピードで近づくアルファを認識したのか、T字路前の一旦停止もあり、道脇にクルマを寄せながら止まろうとしている。
無線からのエイキチの指示が欲しいところで、絶妙なタイミングで連絡が入る。「ゼロだ!」その言葉を聞き、マリイは減速することなく、前車が開けた右側のスペースにアルファを滑り込ませる。
キッカケとなるブレーキを踏んでリアをブレイクさせると、一時停止で止まる前のクルマの脇をすり抜け、カウンターを当てつつ、ほとんどスピードを殺さないままに左折をしていく。
『ゼロ』はその先に、人もクルマもいないという符丁だ。エイキチが指示した通り、進入した道路はオールクリアだった。
一旦停止していたクルマの運転手は、スタントまがいにクルマが横滑りしていくのを目にして固まっている。タクシー相手に何度も見せつけたテクニックであり、そんな表情をした運転手を何度も見てきた。
アルファが進入したこの道は、その先にある信号が鬼門となる。大通りに面しているために信号が赤の時間が長い。
信号に引っかかる前に左折して、大通りに合流しないと2分はロスしてしまう。前にクルマはおらず道はひらけたままだ。
少しでもスピードを落とさずに進入すして、高いスピードを保ったまま立ち上がり信号までにできるだけマージンを作り出す必要がある。
遠くに見える信号は、今は赤だ。それを見て、立ち上がりのスピードを活かしながらさらに加速をしていく。
マリイでも腰の辺りに浮遊感があるほどで、慣れていないはずの後部席の女も相当な恐怖心があるはずだ。そこに気を配っている余裕はない。
「エイキチッ!!」マリイは、指示を求めマイクにがなった。
クルマを走らせて行くと、そこに若い女性がいた。目印と言われた赤いデイバッグを抱きかかえるように持っている。
女性がコチラに目をやるのが見えた。スポーツジャージを着た、どこにでもいるような風采をしている。その割には妙な存在感と威圧感があった。
流しで客は取っていない。迎車専門だ。そもそもこのクルマを見て、タクシーだと判断できるような車種ではなかった。
稀にコチラが止まるタイミングで手を挙げる通行人がいると、後ろにたまたまタクシーがいたというオチだった。
もしかしてと念のためにバックミラーと、サイドミラーをチェックする。それらしきクルマは見当たらなかった。
マリイは指示された場所であると確認して、ウインカーを出しクルマを止めた。カサカサと枯れ葉がタイヤに絡んでくる。
60年式のアルファはタクシー仕様にはなっていないので、自動ドアは装備されていない。マリイは手を伸ばして左後部座席のレバーを引き、少しドアを開いてやる。
するとそこに指をかけてドアを大きく開口して、先の女性が乗り込んで来た。見かけより太くガッチリとした指をしている。
マリイの視線を感じたのか、乗り込むとすぐにジャージのポケットに手を突っ込み窓の外に目をやった。
「よくこのクルマだってわかったね」つい、マリイはそう声をかけてしまった。
普段なら、客に話しかけることもなく、乗せたら最後、最速で目的地に運ぶだけで、それ以外のサービスはしていない。
それなのに気になって声をかけてしまったのは、この女性が持つ独特の雰囲気に惹かれたからなのか。マリイはつい触れてしまいたくなった。
「青いヘンテコなクルマって聞いてたから、、」女性は面倒くさそうにそう言った。目線は外を向いたままだ。
青はいいがヘンテコは余分だ。どうせエイキチがそう説明したのだろう。余計なことを訊いてしまった自分の落ち度と合わせて、マリイは腹立たしくなった。
エイキチは事務所で配車の指示を受け、無線でマリイに連絡をするオペレーター的な仕事をしている。
ふたりは違法で配送営業をしており、ウリは約束の時間に客を運び届けることだった。エイキチはその手助けをすべく、あらゆる情報にアクセスしてマリイの輸送をアシストしている。
違法な白タクまがいの営業も、時間に間に合えばカネは度返しという、切羽詰まった客は少なくない数でいるものだ。
ただ、誰でもというわけにはいかない。何処かのおエライさんだったり、そのような人たちに関わる人たちが主な顧客となる。時にはその人たちに代わり封筒ひとつを運ぶ時もあった。
これだけ通信技術が発達しても、人やモノがそこに無いと、どうにもはじまらない事案はなくならないらしく、効率化などの仔細な努力を帳消しにしてしまう費用が発生しようとも最優先される。
エイキチに言わせれば、自分ならな現地にいなくても会議などができるようなシステムを作れるのに、それをしてしまうと自分の楽しみや、マリイの仕事を奪ってしまうからと豪語する。
時間をカネで買うこととなっても、それでこの国はまわっていて、これからもこの国をまわしてく。そこにどのような理由があるにしろ、マリイは指示を受けて、時間どうりに輸送するだけだ。
それ以外のことはオーナーやエイキチの仕事で、マリイが気にすることではない。ひとつの仕事を成功させれば、それに見合ったおカネを手にするだけだ。
世の中に需要があれば供給がある。需要が満たされるのは、それなりの力を持った者たちだけだ。マリイはこの仕事をしてそう悟り、力を持った者たちからカネを得ることに、何の罪の意識を持つことはなかった。
通常なら間に合わない状況を間に合わせることで得られる報酬だ。いったい誰がその恩恵を受けているのか知るよしもなく、少なくとも、搾取され側の人達でないのは確かだ。
時間通りに進行したことで得られた恩恵も、得られなかった不具合も、マリイには今のところ何の関わりもない。
後からそのために何らかの影響を受けることがあっても、それは自分だけではどうにもならない範疇と割り切っている。
誰もが誰かの利益の代わりに対価を得ている。その循環が変わらないのであれば、せいぜい自分の好きなことを仕事としてカネを得ればいい。
今回の客は時間指定のある急ぎの客ではなかった。そんな案件は年に1~2回ぐらいのもので、だいたいがオーナーの個人的な案件である。
この一種独特の雰囲気を持つ女と、オーナーがどのような関係なのか、マリイも気にかかるところだ。
この違法でありながら必要悪の範疇とされる運び屋を動かしているのは、エイキチが事務所として使っている建屋があるモールのオーナーだった。
事務所は、元は自動車の修理場だったところを、持ち主が隠居したため会社が買い上げた物だ。修理場はクルマのメンテナンスや、改造をするためにそのままにして、事務所をエイキチ専用のオペレータールームにした。
このオーナーは、モールの親会社の会長という立場にある。表向きには代表社長が経営を取り仕切っている形にはなっているが、すべての判断を下しているのはオーナーであることを、関わっている者は皆気づいている。
それなのにモールの関係者には一切その姿を見せないし、何でもかんでも代理人を通して連絡を取ってくる。ミステリアスな存在を誇示したいのか、オモテに出れない理由があるのか。
本当はその存在自体が架空のもので、何時もエイキチたちに連絡をしてくる代理人と呼ばれる者が、なりすましているのではないかと、ふたりは冗談として言っている。
代表が影武者では会社として成り立たないので、それは行き過ぎた話しであるとわかった上で、この代理人がまた切れ者であり、あながち冗談とも言えない話だった。
運搬業に問題がおきた時も、迅速に解決してくれて、厄介な相手が出てきてもウラをかいて手玉に取る。いつもマリイたちを手助けしてくれている。そして最後に辛辣なひとことを教訓と称してあびせられる。
その代理人に、オーナーは大物政治家ともつながっていて、いざという時に重用されており、その分警察からの目こぼしも受けていると言われていた。目立つクルマであるのに捜査に及ばないのはそのためらしい。
代理人からは、そういった仕事をこなす者がいなければ、世の中は回っていかない、それでマリイたちの稀な才能を世の中のために遣え、ビジネスとして関係が成り立っていると持ち上げた。
エイキチは自分の才能を評価されていることに感銘を受け、代理人を大いにリスペクトしている。自分の好きな無線傍受や、盗聴、カメラのハッキングなどをして、おカネが貰えているので、それに満足しているだけだ。
いずれにしても何か事が起きても、真っ先に泥を被るのは自分たちになるわけで、いいように使われているとも言え、本音が見えこない代理人のことを、口先だけだとマリイはあまり信用していない。
マリイのクルマは警察は目溢ししてくれても、正規のタクシードライバーからは疎まれていた。嫌がらせのようなことは何度も経験していた。
エイキチがなるべく裏ルートを探ってくれようとも、まったく遭遇しないわけではない。相手が客を乗せていなければ、幅寄せされたり、急な割り込みや、前に入られるとストップ&ゴーのブレーキテストを執拗に繰り返されたりもする。
はじめの頃は、かわすのに手を焼いたマリイも、何度か交えるうちに相手をするのが楽しくなってきていた。マリイも乗せているおエライサンには悪いと思いつつ、元より時間厳守のための荒い運転は了承済みだ。
後ろや横を見ながらの運転より、前の動きを視認しながらの方が断然有利だ。コチラに寄ってくるタイミングで、少しでも左右に隙間があれば、一気に加速して突いていく戦術を磨いていった。
そこに相手との駆け引きとまでは言わなくとも、動きを見極め、どちら側から攻めるかを瞬時に判断し、相手を手玉に取った時は、心に燃え滾る熱量が充満するほどの達成感があった。
クルマが横並びになれば、相手も本気でぶつけるつもりはないので慌てて避けてくる。マリイはタクシードライバーが見せる様々な表情を横目に、してやったりの顔を伏せてパスして行った。
今では国家権力からタクシー会社に圧力があったのか、マリイのクルマを見かけても、近づくどころか避けて通るようになってきた。
エイキチは、オーナーがおエライさんに口利きしたんだろうと嘯く。それはそうだろ、ジャマされて迷惑するのはおエライさんで、マリイは楽しんでいるだけだ。
最近は刺激が足りなくて、必要以上に速度を上げてしまい、約束時間に余裕で間に合うので、敢えて時間調節する羽目になる。
エイキチ曰く、この仕事は絶妙な塩加減が肝で、時間に遅れるのは論外でも、早く着きすぎては価値が薄れると宣う。
顧客に間に合うかどうかとハラハラさせたところで、ギリギリで間に合わせることで、ありがたがれてお手当も弾むわけだ。
なので時間配分を考えて、到着したら顧客が飛び出して行けば間に合うぐらいに着けるのがベストだと、偉ぶって言ってくる。
それは代理人からの受け売りであると、マリイは確信している。ギリギリを狙いすぎて遅れたり、他車の妨害が無くなったと油断して、足元を掬われないようにと口うるさく言われる。
いつも的確な指摘や、先読みするような注意喚起をしてくるので、こういう一言をおろそかにできない。ドライビングの最中にふと、アタマに引っかかってきて自制すると、それでことなきを得たこともあった。
マリイは自由に好きなことをやらせてもらえているようで、実はその裏で細かくコントロールされている感覚が面白くなかった。
ユキは商店街の時代から長年に渡って組合の会長を担っていた。日々すたれていく現状をどうにかせねばと、若い時にメディア関係の会社に勤めていた伝手で、昔馴染みが勤める広告代理店に相談案件として持ち込んで交渉の扉を開いた。
丁度そのような物件を探していた大手の商社が興味を持って話しが進んで行き、ユキは海老で鯛が釣つれそうだと、予想以上の成果に小躍りしたまではよかった。
その後の会合を重ねるにつれて、ユキはジリジリと追い込まれていった。コチラの要望を受け入れられ喜んでいると、その奥に様々なオプションが条件規定として盛り込まれていた。
そして最後に、総合的に考慮すれば、商店街ごと身売りして、商社の傘下となり、モールとして再構築していくことが最良の選択となっていた。
自分では有利に交渉を続けているつもりであっても、そのように仕向けれていたのかもしれない。そうして最終的には商社に買い上げられてしまったのは目論見外だった。
相手側の交渉の術中にはまってしまった。それは会社としてチームで仕事をしてくる商社側において、ユキひとりで対応しなければならなかった商店街は余りにも非力だった。
ユキが困っているときには誰も手助けせずに、商店街の身売りを知りユキを詰る者も少なくなかった。そんなときコウは、何もできずにいた自分を責めた。
最終的には希望者にはそのまま残ってもらえるように便宜が図られ、高齢で後継ぎがなく潮時とした店は、それに応じた売却費を支払い、新しいテナントに差し替えられていった。
これほどまで商店街側に寄り添った選択ができるように取り計ってもらえたのは、ひとえにユキの尽力のおかげだった。最後まで先方と粘り強く話し合いを進めた成果だ。
商店街時代の経営者に顔が利くユリは、そのまま管理責任者として、新規出店者とのパイプ役としても重宝されていた。それもユキが好条件を引き出すために自分の身を削ったことのひとつだ。
今は既存旧店舗と新規店舗の割合は半々といったところで、新旧混成のハイブリッドなモールは、真新しさと物珍しさもあり、滑り出しは上々となった。
そんな中でもユキがいつも心に残ることは、本当にこれで良かったという結論が出せていないことだった。既存の店がひとつ畳まれるたびに心が押し潰されるようで、ユキはコウの店で自戒の時を過ごしていた。
今日は新旧の店舗ををひとつにまとめようと企画した一斉清掃の参加者が、なかなか集まらないことにやきもきして、コウに話しを聞いてもらいたくて店を訪れた。
コウに話していると新たなアイデアが浮かんだり、モチベーションが回復してくるとユキに言われたことがある。それをわかってコウもユキの話しを黙って聞いていた。
ただいつもそうあるわけでもなく、そうでない日の方が多い。高い壁はいつだって目の前にそそり立ち、どうあがいても越えられる気がしない。ユキは事あるごとに確認しなければ崩れ落ちそうになる。
「コウちゃんは、コレで良かったって言ってくれるけど、本当に良かったのか、今でもわからなくてね。ミタムラさんだって、あんなジムじゃ本意じゃなかったから、こうしてまたプロボクサーを育てようとしているんでしょう、、」
ミタムラの名を出したのはそういうことだったのかと、コウダは下衆な勘繰りとも言える様々な憶測を反省した。
「そんなことないですよ。みんなユキさんに感謝してますって。どうしたってあのままじゃ、廃れていく一方だったでしょう。少しでもいい条件で手放せる、最後のチャンスだったんですよ」
サンドウィッチの皿が空になったところで、コウはストックボックスから殻付きの落花生を取り出し、テーブルに一握り置いた。新聞紙を折って作った殻入れを添える。
「昔は色んな業種の店舗が混ぜこぜになって、自然と商店街という形になってたよね。駅向こうになんか、ストリップ劇場もあったけど、ぜんぜん違和感ないし、自然と溶け込んでたもんね。コッチにはこんな場末のバーとか、妙なホテルもあるし、、 」
両手で落花生の殻を砕き、手のひらにこぼれた実を指でつまんで口にするユキ。香ばしい匂いが鼻に抜ける。
「場末って、、 こんなとか、、 」コウは口元を下げて不満をしめしてみせる。
どんなに自分がいいと思っていても、それが継続していくかは別問題だ。世界は多くのひとが望んだ風景に次々と塗り替えらえていってしまう。
「ゴメン、ゴメン。話の流れよ。それに、いい意味で言ってるのよ。アジがあるってことよ」
フォローされるほどに、落ち込みそうな気分になっていく。
「それにあのホテルって、ありゃ洋風木銭宿でしょ、部屋だって4室だけだし。帰りっぱぐれたヤツが転がり込むようなとこでしょ」
ホテルの店長とコウとは、昔なじみの腐れ縁のために言いたい放題だ。ユキはブラックのコーヒーを口に含む。落花生とコーヒーがお互いの旨味を引き立ててくれる。
「そんなこと言っちゃって、ホテルマリアージュって、ビルボードしてあるでしょ。それにモールにだってホテルで申請されてるんだから」と、どこ吹く風のユキだ。
それならウチだってパブリックバーで申請してるし、屋号もパブ・ペニーレインだと文句を言いたいところだ。
昔の風景がどんなに良かったとしても、風景が変われってしまえばそれがふつうだと馴染んでしまう。過去を思い起こすから郷愁などといって感傷的になり、それに価値があるように思えてくる。
ホテルもここも、今のモールには異質な空間でしかない。近いうちに、なんだかんだと理由を付けられて、引き払いになる最右翼のはずだ。
ここにこんな店があったと覚えていてもらえればいいほうで、更地になればほとんどのひとは、ここがなんだったかと思いだすのにひと苦労して、新しい建物が立てばキレイさっぱり忘れ去られるだけだ。
最近では馴染みの客はめっきり減ってしまったし、今更新規の客を呼び込むような店でもない。コウは今の店の雰囲気を維持できなければ、続ける意味がないと口にした。
そうでもないのよとユキが答えた。
「モールのオーナーが、ちょっと変わり者なのは知ってるでしょ。身売りした時、必ず残して欲しい店のリストがあってね。それで結構やりあっちゃって、向こうの条件にも譲歩したけど、コチラの意地も通させてもらったのよ。ああ、オーナーと直接じゃなくて、その使いの人とね」
コウにもオーナーのことはいろいろと耳に入っている。先見の明があり、買収した企業は必ずV字回付させるなど必ず結果を残してきた人物だ。そんなメディアを賑わすようなカリスマ経営者の割には表に出ることは一切ない。
それにしても残す店のリストのことは初耳だった。そこにどんな店が書かれているのか、どんな取引がなされたのか、コウも気になるところではある。
「もう、今だから言うけど。そこにね、この店も入ってたのよ。おどろきでしょ」
驚いたのはコウのほうだった。てっきりユキが口利きしてくれて続けることができたものだと思っていた。それがオーナー側からの希望だったとは。意味がわからなかった。
「もちろん、わたしだって残すつもりでいたけど、向こうから言ってくるから、安売りしちゃいけないと思って、いろいろと条件付けさせてもらったわよ」
確かに他の店舗でも好条件で継続しているところがある。ユキの出した条件をここまで聞いてくれたのは何故かと、いろいろと悪いウワサにもなっていた。
「夜食までいただいて、美味しかったわ。ありがとね。全部払うから。いくら?」
「いいんですよ。これは、オレもちょっと腹減ってたし」
そして、コウは自分の店の他に、どの店が同じようにリストに載っていたのか気になった。たぶんそこにはあのボロホテルも含まれているのは察しがついた。
「いいから。ちゃんとレジ打って。消費税もね。もうドンブリはダメでしょ」
それもコウの悩みどころだった。モールになってから、一日の売上がすべて本部に管理されている。イントラにつながったレジは支給されたので懐は傷まないが、これまでのようにツケだ、奢りだといった客とのやり取りができなくなった。
モールになって合理的で効率的になり、人情味や家族的な側面は失われた。ユキとしても量の大小に関わらず、立場上タダ飯を食うわけにはいかない。
コウにとっては昔ながらの付き合いのある人と、そういったやり取りができないのは苦痛な面もある。上から言われたことと割り切るしかない。
そのような片苦しさが嫌で、モールになってから店をたたんでしまった所もいくつかあった。新しいオーナーのやり方についてこれなければ、早かれ遅かれ店をたたむことになる。
「ユキさん、まさか以前からの店子がいなくなるまで、面倒見るつもりですか?」
「そうね。そこまで会社が雇ってくれればの話だけど。わたしにも意地があるからね。残ってくれたお店には、ちゃんと幸せになれたか見ていてあげたいの」
「そんな、ユキさんが背負うことじゃないでしょ」
「そうなんだけどね。そこにどれぐらいの意味があるかわからないし、誰もそんなこと望んじゃいないだろうけど、なんかね、やりきらなくちゃいけないって思ってる」
ユキが寂しげにグラスを傾けている姿を見ているのはコウも辛かった。コウが何を言おうと、ユキは最後までやり遂げるだろう。
ユキにいつまで続けると訊かれて、曖昧にはぐらかすのも、なんとか自分が最後のひとりまで頑張って、ユキの苦労に報いたかった。
「どうして、リストにあったのか訊かないのね?」
そのためにもユキに迷惑はかけられず、モールのルールは守って面倒を起こさないようにしなければならない。
「そうですね。知らないほうがいいこともあるし、たぶんこの世は、知らずにいたほうがいいことがほとんじゃないですかね」
「コウちゃんは、優しいね。そういうセリフはこんなオバちゃんじゃなく、もっと若いコにしてあげなさいよ。誰か気になるコでもいないの?」
「よしてくだい。自分はもうそういう年でもないし、ガラでもないんですから。それに、、」
ユキに惚れているというわけではない。人としての恩義を感じているだけで、ユキがこれまでに自分にしてくれたこと、商店街にしてくれたことに感謝したいだけだった。
「、、それに?」
それを恋愛感情と絡めることはない。男女というだけで上手くいかないこともある。
「若いコとは、こんな話しをしても通じないのはわかってますから」
殴られた顔のアザは消えようども、心のアザは消えない。コウは殻入れに入った落花生の殻をダストボックスに捨てた。落花生はもうすっかりと食べられていた。
「ゴメンね余計なこと言っちゃって、だから年寄は、って言われちゃうのよね。こないだもコーヒー屋さんのオーナーに夜警の話したら、今どき? って顔さたのよね」
そう言ってユキは冷めたコーヒーを飲み干す。財布からカードを取り出して、端末にかざす。支払いが終了するとレシートが出てくる。ユキはそれをカットして眺める。
「便利なものね、、」
便利なことと引き換えに、多くの笑顔を失ってきた。そんな中でもまだ自分を押し通そうとする人たちがいる。進化するだけでは何か違っているようで、後退することで生きることの意味を見つけようとしている人たちがいる。
モールの夜間照明は、その灯りが届く店と、届かない店を明確に分けていた。
ショウの見送りを終えてコウが店内に戻って来ると、ユキが怪訝な表情をしていた「知り合いだったの?」。
コウは首を振る「久しぶりにお見えになったんで、またご来店いただけるようにお声がけしたんです」。ユキの大声を詫びたことは言わない。
「なに敬語使ってるのよ」ユキにではない。
「でも、いい心掛けね。リピーターって言うんだっけ? そういうお客さまをひとりでも増やしていかないとね」と、満足気に言う。
コウはその言葉には曖昧に肯くにとどめた。そんなことよりユキが持ち出した話しを続きがしたかった。
「ミタムラさんのこと、気になるんですか?」
ミタムラが最近店に来なくなったのはそういう理由かと、ユキの話しを聞いてコウは納得した。ジムが刷新されて、ようやく妻のエイコを楽をさせられると言っていた矢先に彼女を亡くした。
それからは、この店に入り浸るようになり、深酒を繰り返していた。ユキに随分と慰めてもらっており、コウも少し勘ぐってしまった。
エイコにこれまでの苦労を労うつもりだったミタムラが、亡くなってすぐに親友だったユキとそのような関係になるはずもなく、やはりその悲しみを紛らわすにはボクサーを育てるしかなかったようだ。
それにしても女性とはと、コウも耳を疑った。ショウが居たために、込み入ったことは訊けなかった。ユキの回答によっては、どのような会話に転ぶかわからない。
気にかかっていたのはコウの方だった。だからこそユキの本音を聞いておきたかった。
しばらく間が空いて、そして何を訊きたいのかを理解してユキが首を横に振る。コウの問いには女ボクサーと、ミタムラとが同時に含まれていた。
「わたしが?」ユキの回答はミタムラへのものだった。
その否定のしかたに、コウは少なからずの羨ましさを覚えていた。ユキはそんなコウの想いを気にかけることなく、小皿に用意されたドライフルーツをかじり、頬杖をついてソッポを向いて言った。
「どうしたの? 興味ないかと思ったけど、、」
ユキの目先には昔の映画のポスターが貼ってあり、主演の女優がグラスを手にしている。ユキは見るともなしにそれを眺め、ため息をつく。ため息の理由は幾つもある。
コウはユキのコースターを新しく差し替え、その上にグラスを置き直した。何だかユキに余計な負担をかけさせてしまったようでコウは後ろめたくなった。そして言い訳してしまう。
「すいません。関心がなかったわけじゃないんですけど、自分の中で整理したり、、 それに、さっきは他のお客さんも居たんで、、」
コウがそう言うと、ユキは目線を戻してきた。
「そうね、知らない人の前で、ひとのウワサ話しなんてするもんじゃないわね。ごめんなさい。でもねえ、ジムもあんなんになっちゃたし、なんで今更って思っただけよ」
片付け物をする途中で、古傷が痛むように指をこすり合わせる仕草をするコウ。やはり人差し指に何か理由があるのかもしれない。
「いいんじゃないですか。ミタムラさんが育てるんだ。どんなボクサーになるのか楽しみじゃないですか?」
ミタムラに女性のボクサーが育てられるか分からないのに、コウはそんな言葉を言ってしまう。
「そう?」ユキの返事は、素っ気のないものだった。
ミタムラがどんなボクサーを育てるかなんてユキにも興味はない。それを知って、あえてコウはそちらの話しに持って行こうとしているだけだ。
「だってね、メグちゃんもいい迷惑でしょ? どこの誰かもわからないコの面倒みさせられて、結局メグちゃんに負担がかかるだけなんだから。エイコちゃんが大変だったこと未だにわかってないんじゃないの。だからカラダを壊したとは言わないけど、そういうとこ、オトコってニブイのよね」
本心ではもっと文句を言いたかったはずだ。身に覚えのあるコウは苦笑いを浮かべるしかない。ミタムラの妻のエイコとユキは小学生からの付き合いで、そんなエイコを長い間にかけて何かと気にかけていた。
ユキが気にかけているのはミタムラだけではなく、家族の全体のことも含んでいた。ただ、それもまだ全部ではなかった。
「目をかけたボクサーを家に連れ込んで、衣食住の面倒をみていたことですか?」
それは、生活の負担を少しでも取り除いて、ボクシングに集中する環境を用意することと、常に自分の監視の中に置いておくことと、ふたつの理由があった。
ボクサーは生活の負担が軽減されるとともに、知らぬ間にミタムラの監視下に置かれ、食事にしても、睡眠にしても、性欲にしてもコントロールされていた。
そもそもミタムラに見出されたボクサーは、その生活のすべてをボクシングに注いでおり、試合のみに集中できるその環境は大歓迎だった。
そうしてミタムラは、名もない若者をランカーまで伸し上げ結果を出していった。名が売れると彼らはメジャーなジムへ引き抜かれて行った。それなりの移籍金を置土産として。
「ミタムラさんが見ていたのは、ボクシングに関することだけでしょ、あとは食事の準備から、日常生活の全般はエイコちゃんがひとりで賄ってたんだから。その気苦労の大変さをわかりもしないで、、」
「、、そういうとこ、オトコってニブイのよね。と」ユキのセリフをコウが先に取り上げた。
「そう言うこと」ユキは両肩をすくめた。
ミタムラは手にした移籍金はすべてジムや、次のボクサーへの投資に遣った。ボクサーを家に迎え入れても、その費用は給料内でやりくりさせた。生活は常にギリギリで、それもエイコの心労になっていった。
「それが今回は女のコでしょ。一体どうやって目を光らせるつもりなのか知らないけど。これじゃ、メグちゃんも大変よね」
ミタムラは女性の生活に、どこまでストイックを強要するつもりなのか。メグが同い年ぐらいの同性に、どこまでのケアができるのか、ユキにはふたつの心配事があった。
「それにしても女ボクサーとは、ユキさん、気が気でないんじゃないですか」気が気でないのはコウの方だ。
「だからあ、そういゆんじゃないって」ユキは口を尖らせる。
そういった意味合いではなかったが、コウは口が過ぎたとアタマを下げた。
コウはフリーザーからツナ缶、ハム、マヨネーズに、トマト、レタスなどの野菜を取り出す。そしてストックボックスにある食パンを取り出し、サンドウィッチを作り出す。
右手の人差し指は伸ばしたままに、包丁を入れてひとくち大に切り分けていく。
「あら悪いわね。これはコウちゃんのおごり? ちょうどお腹もすいてきたし、なんたって夕食抜きで一斉清掃の名簿集めてたからね」
失言のお詫びのつもりかと、先回りして礼を言うユキは、早速ひとつまみする。
「コウちゃんはいつまで続ける気なの?」
コウもひとつ口にする。自分が食べるにはマスタードをもう少し効かせたいところだが、ユキが苦手なのを知っている。
「そうですね。半ば道楽みたいなもんですから。出てけと言われるまでは続けようと思ってます」
ユキは商店街の時代から店を構えているひとたちを何かと気にかけている。新く出店した店のオーナーと仲良くやって欲しいし、新しいモールにも馴染んでもらい、少しでも長く続けて欲しかった。
そうでなければ自分がここまで頑張ってきたことが無駄になってしまうようで、多くの家庭の生活を変えてしまった是非を見極めたかった。
「道楽ってことないでしょ。これでゴハン食べてるんだし。えっナニ? 他に実入りのいい食扶持でもあるの? 私にも紹介してよ。ていうか日中何してるのよ?」
誘導尋問にでも引っ掛けられた気分のコウは、ひきつった笑いをする。ユキもこうした明け透けな話しができる相手は、商店街からの付き合いのある人の中でも、そう多くあるわけではない。
「そんなのある訳ないでしょ。雨風しのげる家さえあれば、男がヤモメで暮らすぐらいは何とかなるってことですよ」
実際その通りだった。無駄づかいすることなく、酒の仕入れ代を優先して、食べ物も贅沢せずに店の残りものなどですませて何とかカツカツだった。
「ふーん、どうだかね。教えてくれないんだ」
同じ日々を過ごすことだけが自分に課せられた使命のように、コウは粛々とそれを続けている。それにいったい何の意味があるのか、やり続けていったいどうなるのか、わからないままに。
「聞いて面白いハナシなんかありませんよ。そうでなきゃいつまでも独り身でいませんから」
この話題をおしまいにしようと、今度はインスタントのコーヒーを入れ出した。棚の奥からマグカップをふたつ取り出し、スプーンで適量をすくい出しポットのお湯を注ぐ。
ユキはコウの触れてはいけない過去を耳にしたことがあり、ことの真意は定かでなくても、言葉は慎重に選ばなければならないと心得ている。
「そう、話せる時が来たら、いつでも耳を貸すからね」ユキもそこに、ふたつの意図を含ませてきた。
「 、、まさかね」やりかえされたカタチのコウは、薄く笑みを浮かべてみせる。
ユキのグラスはすでに空になっており、そのまま下げてコーヒーをさし出す。ユキはお礼を言ってカップを手元に引き寄せた。ふたりともブラックが好みなので、今回は同じでも問題ない。
人の心配している場合ではないはずなのに、ユキはこうした気遣いをわすれない。コウは押しつぶされそうだった。気遣わなければならないのは自分の方であるのに。
「ユキさん、あんまり無理しないでくださいよ。オレなんかが言うのもなんですけど、ユキさんは十分やってますから。だけど、それだけでは何ともならないことはあるんです。清掃の件だって、どれだけの人がユキさんの気持ちを汲んでいるか。でも、それも時代です。しかたがないことですよ」
それは、多くのことを成し遂げたくてもできなかった、コウ自身の思いも含まれている。ひとを動かせるような人間はほんの一握りだ。
ユキは自分に比べれば周りを巻き込んでいく力がある。ただ、ひとりだけではなんともできない領分まで何とかしようとしている。
商店街を大きく様変わりさせてしまったと負い目を感じ、失地を回復しようとする行動であり、それが気負いとなり、空回りをしはじめているのが見ていて痛ましかった。
「そうねえ、困難ばかりだけど、それをやらないと、自分が生きている意味がないと思えるの。そうでないと電源を切られてしまうのよ。きっと」
それにいったい何の意味があるのか、やり続けていったいどうなるのか。ユキもまた、自分にもわからないままに。
ひと通り言いたいことを言って満足したようで、ユキはビールからカクテルに替えて、ゆっくりと飲みはじめていた。店内に静けさが戻った。
コウがテーブルを拭く時のダスターが擦れる音や、グラスの水気を取る時のキュッキュという音だけが耳に届く。2杯めを飲みはじめたショウは、そんな清音の中で目頭を抑え、考えごとをしていた。
日中の母親の動向が心配で、一度だけ行政に相談をしに行ったことがあった。担当の人は見るからに多忙そうで、自席と相談者のあいだで行ったり来たりを繰り返していた。
ひとつの案件を処理するのに30分はかかっていた。これでは自分の番が来るまで有に2時間はかかるだろう。ショウはその日、会社は午前休を取っており、平日にしかできないことをまとめてこなそうと、色々と予定していた。
2時間の待ち時間の合い間にそれらを片付けられれば効率がよいのに、予約券の発行があるわけでもなく、応対してもらうにはひたすら順番を待つしかなさそうだ。
この時間を有効に使えればあれもできる、これもできると、そう思えば思うほど、余計にフラストレーションがたまってくる。
こういった時間の浪費にしても、多くのひとたちの経済活動をどれだけ阻害しているか、誰か真剣に考えた事があるのだろうかと疑問でしかない。
それだけでなくショウは、会社で自分のしている業務と比べて、異世界にでも迷い込んだかのような錯覚を覚えた。仕事でお客様の一分一秒を無駄にしていては、競合他社に寝返られてしまう。そして、他社よりスピーディーな対応をすることで、他から顧客を獲得することも出来る。
それを思うとここは隔世の感がある。他に選択肢がない仕事では、他に頼るところもなく、そんな顧客が従順に従う姿に勘違いすれば、サービスの低下につながっていってもしかたない。
ただショウの会社にしても、スピードでしか勝負できていないからそうなるわけで、他にオンリーワンの技術とか、他社との差別化出来る部分がなければ、脈々と続くスピード勝負にいつしか疲弊していくだけだ。
時間に勝ることに執着して、仕事の本筋から外れており、その時さえよければの勝ち負けに一喜一憂していれば、将来への展望を考える余地もなくなる。あえてそうしていように。
ショウも実際に、ここの仕事ぶりを見て、羨ましさも同時にあったのは否めない。結局待ち続けるしかなかったショウは、他の要件をひとつも片付けることもできずに、順番が回ってきたのは正午に近かった。
ようやく面談した担当者に言われれたのは、近所の民生委員に相談してみたらの一言だった。そんな人が近所にいるのかわからないし、知っていれば最初からそちらを当たっている。
もっと行政ならではの取り組みとか、対応場所などへの紹介が合ってもよさそうなものだと、そう食い下がるショウに、もう昼休みだから、続きが話したければ、1時になったらまた来ればと言われた。
ショウは心の中で煮えたぎる怒りを飲み込んで、平静を装い礼を言って、急いでこの場を立ち去った。ここで行政への不満を述べても何も変わらない。この担当者にしても、こうしてこれまで仕事をしてきただけだ。未来を変えようとしているわけではない。
グラスのフチを指でなぞりながら、コウの仕事ぶりを眺めていたユキが、不意に問いかけしてきた。
「知ってる? コウちゃん。ミタムラさん、またボクサー育てる気になったみたいよ」
コウは磨ていたグラスを照明にかざし、透明度を確認してから食器棚に置いた。ユキの問には少し首を捻るにとどめた。
「それが今度は女のコだっていうから嗤っちゃうわよね。どこまで本気なんだか」
そう言ってため息をつくユキは、頬杖を付いてコウの方を見上げる。コウはさあといった風情で両肩をあげる。興味がないのかとユキは、もうそれ以上を言及することはなかった。
興味がないわけではない。いくつかの思いがあたまの中を巡って、ユキへの対応が疎かになっただけだ。
あそこはもうボクシングジムというよりスポーツジムになっていた。それも女性客目当てにボクシングエクササイズを売りにしているだけで、もう本格的な設備は整っていないはずだ。
ミタムラも経営者というより、生活のために管理人の仕事をしているだけだった。あの日以来、人が変わったようにやる気を失っていたミタムラが、再びやる気を取り戻したというならば、よほどの逸材に巡り合ったのか。
しかしそれが女となると話しは別だ。あのミタムラが、女をリングに上げるなど想像がつかない。前世の遺物のような人間だ。
女は男がいい仕事ができるように下支えに徹しろというタイプで、ただでさえ表に出ることを極端に嫌っている。それが女をリングに立たせようなど、コウからすれば天地がひっくり返るぐらいの出来事だ。
棚からシングルモルトのウイスキーを取り出して、グラスに1センチほどそそぐ。ユキに付き合ってコウも少し飲むことにした。
グラスをユキのカクテルグラスに軽く当て、乾杯をしてひとくちだけ含んだ。今日はもう客足は期待できそうにない。それに混乱したアタマを鎮めたかった。
「わたしにも、もう一杯ちょうだいよ」
最後のひとくちを口に含み、グラスの底を指で挟んでコウに差し出す。コウも残りを一気に呷って、おかわりのドライマティーニを作り出す。
「時間外手当にしないでよ」酒を飲みはじめたコウに、ユキは憎まれ口を叩く。
「少々飲んだからって、不細工な仕事はしませんよ」
「ふーん、じゃあ美味しくなかったら、コウちゃんのおごりね」
お互いにいつものやり取りで、漫才の掛け合いみたいなものだった。飲んでいようがいよまいが、コウの仕事が雑になることはないとユキが一番知っている。
「美味しかったらコウちゃんの分も払うから、わたしのにツケときなさいよ」
それはユキ流の遠回しな言い方で、少しでも店の利益につながるようにコウを気遣っている。それがユキひとりでは、たかがしれているとしても。
シェイカーにカクテルの素材を流れるように投入したあと、砕いた氷を少し追加してゆっくりとシェイクしはじめる。派手なパフォーマンスをすることなく、中身の状態を見通すようにシェイクしていく。
ショウは見るでもなしに、横目でその動きを見ていた。動きや流れに一切の無駄がない美しい所作に見惚れてしまう。
何故か右手の人差し指は、何をするにも伸ばしたままで、何か不具合があるのか、そうしておく理由があるのかショウにはわからない。
ユキは知っているのかもしれず、今さらそれについて言及することもない。コウはそれで美味しいカクテルを作り出す。そこに何の理由があろうと知る必要はない。
何度かこの店で飲んでいたショウも、これまで気にもとめなかったコウの仕事ぶりがやたら気になり、今では気づけば自然と目がそちらに向いていた。
失礼ではあるがそんなに繁盛しているとも思えない。今日も身内らしき人と、たまたま来店した自分だけしかいない。それでもプロとして仕事に手を抜かない姿勢に感心してしまう。
同じ仕事中でありながらも、やらされている仕事と、やりたい仕事との差がそこにあるのに、収益に差が出てしまうことに疑問でしかなかった。
新しいカクテルグラスを取り出し、曇りがないのを入念に確かめると、丁寧にカクテルを注いでいく。ひとくち含んだユキから感嘆の声が漏れる。
「じゃあ、遠慮なくご馳走になります」ニヤリとしてコウはグラスにもう一杯注いだ。
「ちょっと、おごるからって何杯も飲まないでよ」
ユキは目を細めて抵抗する。コウはそのツッコミには反応しなかった。そしてお互い小さく笑う。
そんなふたりの親密なやりとりを見て、ショウは疎外感が少なからずあった。グラスは空になり、いい時間にもなっていた。店主に声をかけて精算をお願いした。帰り際にドアを開けて店主は見送りをしてくれた。
「すいません。騒がしちゃって」そう言ってコウはアタマを下げた。
店主がそんなことを言ってくれるなど思いもしなかったショウは急いで首を振った。
「いいえ、そんなこと。お客さんひとりひとりを大切にしているんですね。すみません。端から見ていていろいろと勉強になることがありました」
「はは、その割には客が少ないし、もうそういう時代じゃないんでしょうね。これに懲りずにまた飲みに来てください」
そう言ってコウは微笑んだ。ショウもアタマを下げて返答する。
「ええ、久しぶりだったけど、このお店、落ち着くんです。これからはもっと頻繁に寄らせてもらいます。だから、、、」
だから、店をたたむことなく続けて欲しい。そうショウは言いたかった。これ以上は出てこなかった。いまだ感情を制御しつづけて、そして感情を制御できていない。それでもなにかが変わるような気配があった。
「なので、また来ます。ごちそうさまでした」
だから、なので。つながらない言葉にキョトンとするコウ。ショウは笑顔だった。よくわからない状態でも、それでコウは満足だった。ショウの後ろ姿に深々とあたまを下げる。
店のドアを開けると、暗い照明の中で棚に並べられた幾つものボトルが鈍く光っていた。黒光りしているカウンターには無数の傷が入っており、この店の歴史を物語っている。
止まり木の足元には足を乗せるポールがあり、金色の塗装はくすんだ色に変色しており、ところどころが剥離して地金の銀色が露出している。
「いらっしゃいませ」店主のコウはそう言ってショウを迎え入れた。
黒いピンストライプスーツのズボンを履いて、白いウイングカッターに棒タイを止めていた。上着は着用しておらず、ズボンと同柄の直着を羽織っている。
この光景だけを切り取れば、禁酒法時代をイメージしたギャング映画のワンシーンを思い起こさせ、それがコウにはサマになっている。
ショウは軽くアタマを下げて、なかほどのスツールに腰掛けた。痛めた足を庇いながら着座する。
「久しぶりですね。お客さん」コウにそう声をかけられ、はにかむショウ。
「ご無沙汰しちゃって、すみません」照れくさくそう言うショウ。コウはクビを振った。
「確かお勤め先は、ひとつ前の駅でしたよね? 以前より足が遠のいても仕方ありませんよ」
ショウはええと微笑んでロックを注文した。さすが客商売をしているだけあり、1年ぶりぐらいの来店になるのに自分のことを細かく覚えている。
就職前に店に来た時に、就職後は来づらくなるような話しをしたのだろう。それにしてもさすがの記憶力だ。そう思うと迂闊なことは話せなくなると自制が働く。
おしぼりを渡され手を拭きながら、久しぶりに顔を出した経緯を簡単に話した。先のこともあり支障のない範囲に留めておく。
朝の通勤の際に一駅乗り過ごしてしまい、ホームの渡り通路を通った時に、この商店街のアーケードが目に入って、久しぶりに寄ってみたくなったと告げた。大筋は間違っていないが、随分と端折った説明だった。
コウは今はモールって呼ばれてますと、他人事のように言ってグラスを置いた。そう言われてもピンと来ないショウは、そうなんですかと曖昧な返事をする。
結局、それについてコウが説明をすることもなく、ごゆっくりと言われたあとは話しかけられることもなく、コウも奥に引っ込んで行った。
ショウにしてみても、店主と久しぶりの再会を楽しむために来店したわけではなかった。家に帰り母親と会うのを避けたかったのと、ひとりで考えごとがしたく、朝の件もありこの店を訪れた。
店主はいつも来店時には、二〜三の言葉をかけてくれたあと、それ以降は追加をオーダーする以外は、放っておいてくれる。それは今日も変わることなく、グラスを置いてからはショウに絡むこともなく、自分の仕事に務めている。
店内には優しい女性ヴォーカルの歌が流れている。ショウにとって知っているようで知らない曲であり、そんな環境が考えごとの邪魔にならない雰囲気を醸し出しており、ここに来て正解だったと自己肯定する。
今日は仕事中に学生時代の友人から電話を受けた。近頃はご無沙汰にしているとはいえ、急用でもなければ仕事中に私用の電話をしてくるタイプではない。切り出しづらそうで、声も若干ではあるが涙声になっており、ただならぬ気配を感じた。
ようやく口から出された言葉は、ふたりの共通の友人が亡くなったという要件だった。死因は聞かされていないらしく、とにかく突然の訃報にうろたえており、そこまで言うと涙声に変わってしまった。このままでは埒が明かないので一旦電話を切り、仕事が終わったらかけ直すことにした。
そこで改めて聞いた話では、亡くなった友人の親御さんから、故人の遺物のかたづけをしていたら、友人の連絡先が書かれたメモ帳が見つかり、一番上に書かれていた自分に連絡してきたとのことだった。
他に伝えたい友人がいれば、アナタからお願いしますと頼まれたので、最初に思い浮かんだのがショウで、それで掛けたのだと言った。
ショウと亡くなった人は、学生の頃に同じサークルで一緒だったぐらいの仲だ。卒業してからは顔を合わすことはなくなっていた。彼が故人とどれほどの仲だったのも知れないが、号泣するぐらいだから、それなりの間柄だったのだろう。
そういった温度差があったからなのか、ショウは電話先の友人のように感情が振り切れることはなかった。それともよくあるパターンで、友人に先を越されたために冷静でいられたのか。
ひとり首を振るショウだった。そうではない。泣けない言い訳を探しているだけなのだ。
もちろん同い年の知り合いが、若くして亡くなったことには衝撃があった。死因を知らないことを差し引いても悲しみの感情がわき上がってもよさそうなものだ。少なくとも学生時代に一時期を共にした仲だ。電話口の友人のように思いっきり泣いて、感情を共有しても良いはずだ。
そうではなく、涙がこぼれることのない自分に愕然としていたのだ。ここ数年、母親との関係もあり、感情を極力表に出さないようにしていた。それが一因であると思いたかった。
涙を流したのはいつが最後だったろう。数年前に、当時人気絶頂だったF1パイロットがレーシングアクシデントで突然死んでしまったとき、気がついたら涙がとめどなく出ていたことがあった。その数ヶ月前に叔父が死んだときは、一粒も出なかったのに。
泣かそうという魂胆が見え見えの映画にも簡単にオチて、自分でも驚いたことがあった。以前なら作り物の話しに泣いている友人を小馬鹿にしたものだった。
自分の感情を出さないようにしている反動で、バランスを取るように、カラダが自分の意志とは別のところで反応しているようだった。そうであれば自分は、そういった感情をコントロールできない人間になってしまったのだろうか。
笑いたい時に笑う。怒りたい時に怒る。泣きたい時に泣く。そういった行為を遠ざけていたことで、いつしか能面のような表情に凝り固まっていった。
今の自分の状態をすべて母親のせいにしようとしている。そんな自分が止めどもなく嫌だった。両手で顔をふさぐ。コウが奥からチラリと目を送ったがまだ動かなかった。
「あー疲れたあ!」ドアが開くと同時にそんな声が店内に通った。ピンクのスーツに身をつつんだ妙齢の女性が現れた。
「あらやだ、お客さん。ごめんなさい」ショウの存在に気づき、軽く会釈して口元を押さえる。
ショウもつられるようにアタマを下げた。ユキは一番奥の席まで進み腰を落ち着ける。カウンターをはさんでショットグラスを念入りに磨いていたコウが振り返りオシボリを差し出す。
「どうしたんですユキさん?」
「どうもこうもないわよ。あっ、ビールちょうだい」おしぼりで手を拭きながらオーダーする。
コウはフリーザーから中瓶と冷えたグラスを取り出し、栓を抜いてグラスに注ぐ。キレイな泡が2cmほど盛り上がった。プロの仕事だった。
ユキはそれを手に取ると喉を鳴らして一気に飲み干した「あー、美味しい!」。
空になったグラスをテーブルに置くと、再びビールを注いだ。今度は泡は持ち上げず、3cmの泡でビールをふさいだ。それがユキの好みだった。
「もう、聞いてよコウちゃん。近頃の若いコときたら、、」ユキはそんな話しをしはじめた。
ユキの外見からして、自分も十分その若いコの範疇に入ると、ショウはどんな内容か興味を持った。良い話でないとわかっている。
「モールの一斉清掃があるんだけど、全然協力してくれなくてね。自分たちが働いてるところなんだから、自分たちでキレイにするのが当たり前でしょ」
そう言ってユキはグラスのビールを半分ほど飲んだ。コウはそこへビールを注ぎ足す。きっちりと3cmの泡を作った。
「若いコって、皆んなバイトでしょ? 以前みたいに自営やってる人なら、若いヒトも家族と一緒になって協力したでしょうけど、バイトなら時間外に仕事しろって言ってもね」
コウの言う通りだとショウは肯定した。ユキは納得しない。
「そりゃ、そうだけど、同じモールで働いている皆んなでやるっていうのが大切でしょ。そうやってお金だけじゃなくて、助け合ったり、仲間意識を持つことが、いざという時に自分のためにもなるのよ。掃除という手段を用意して、そういう連帯感を持つチャンスを提供してるんじゃない。だいたいね、、、」
止めどなくユキは持論を語りだした。コウは微笑みながらその話を聞いている。それが自分の仕事だとわきまえている。
ショウは不満が表に出ないように抑えつけていた。それがいけないことだとわかっていたも逃れられない。そして母親のことを思い出してしまう。自分の都合ばかりを押し付けて、コチラの言い分を聞こうとしないのだ。
例え聞いたとしても自分の若い時はこうだった、ああだった、もっと大変だったと、比較できない対象を持ち出してくる。大変なのは人それぞれの基準であって、誰かと比べて競い合うモノではないはずだ。
「、、だいたいね、わたしたちの若い頃は、目上の人に言われれば二つ返事でしたがったものよ。ああだ、こうだ、口ごたえなんかしようもんなら一喝されて、あとからもまわりの人にヤイのヤイのとお小言をいただくことになって大変だったんだから」
「ユキさん、経験済みですか?」ユキはコウの問いかけに、ユキはピンと来ておらず少し間が空いた「イヤだ、違うわよ。知り合いのハナシよ」。問いを理解して直ぐに否定する。コウはただ肯くのみだ。
あの人も若い頃は、最近の若い者はと言われたクチだ。ショウはそう嘯いた。比較対象ではなく、自分の基準から乖離があるかどうかで、結局は不条理に懐柔されるか、抗うかの差が出る。
以前は言えない環境に身を置き、泣く泣く従ってきただけで、声を上げられる今では自己主張が認められているし、しなければ流されて都合のいいように使われる。戦う環境を自分で作ったわけではない。そんな思いがアタマを巡る。
残り少なくなったグラスを手の中で転がす。お代わりをしようか考えあぐねている。今は目立った行動は取りたくなかった。
あの人のように、ひとの弱みを立てに取ったようなボランティアを押しつけることで、この国がどれだけの経済的損失を被ってきただろうか。
掃除をするなら清掃会社に依頼して行い、その費用をモール全体で負担すればいい。そうすれば掃除に駆り出される人達は、自分達の行うべき経済活動に従事できる。
清掃会社は無償の代行者に仕事を奪われることもないし、お金が動くことで地域の経済が活性する。掃除に来た清掃員が食事などでモールにお金を落とすだろうし、今後のリピーターになったり、知り合いに紹介するかもしれない。
そうすれば清掃会社を選択する基準も自ずと変わってくるだろう。単に価格だけで選ぶより、そこをキッカケにして今後の収益が見込めるかも判断材料に加えれば、多少高くても地元の業者を選ぶとか、最終的な利益を考慮すべきだ。
そういった人の行き交いが循環がする仕掛けを考えたり、清掃自体をイベントとして組み込むことだって出来るはずだ。
ユキの話しが途切れたところで、コウがさりげなくチェイサーを持って来てくれた。ショウは空のグラスを持ち上げ、コウの方に寄せて人差し指を立てた。おかわりの意だ。
コウはうなずいてグラスをさげた。こういったあうんの呼吸で意志が伝わるとこがいい。なんのストレスも感じずに物事が思い通りに進んでいく。
それが酒代の対価に含まれているのは当然だ。サービスではなく日常で自分で行えないことを代替えしてもらっているのだから、ビジネスにおいて正当な対価のやりとりとして成立し、お互いに報酬を得ている。
その一方で無償で清掃をさせる行為がまかり通っている。それを人情や、人の弱みに付け込むような奉仕を強要し、不払い労働をボランティアなどと耳障りのいい言葉に挿げ替えるから、この国の経済力は下降するばかりなのだ。
何のアイデアを捻り出さなくても、これまでそうしてきたからという大義を振りかざして搾取している。ショウにはあの人達の無思考や、労力をかけず仕事を消化しようとする行為が許せなかった。
いつしかショウの不満の矛先は、母親から母親の相談をしている行政の硬直化した仕事振りに向いていった。
アキは差し出されたギターを見て右往左往してしまい目が泳ぐ。オサムは意味深か気にうなずいている。グイグイとユウリに押し付けられて、アキは仕方なく手に取るしかなかった。どうやら捕食されたようだ。
「せっかくだからさ、これでさオサムにギター教えてもらいなよ。中古品だから安心して弾けるでしょ。もし気に入ったら買い取って貰ってもいいし。その時の値段は要相談で」
屈託のない笑顔でそう言われてしまった。アキはこういうオシに滅法弱い。ここまでされてしまえば、気に入ろうが入ろまいが買ってしまいそうだ。
「あっ、いいねえ。これも巡り合わせかもよ。簡単な曲でも弾けるようになれば、家でも練習できるしよ。オレは全然かまわないよ」
すでに買う流れになっている。オサムは講師を行うことも意を介していない。そして一度手にすると、脳内で所有願望が高まってくるようで、古びたギターもこうしてみると、自分を待っていたかのような錯覚になり愛着も湧いてくる。
「チューニングできる?」ペグを指さしてオサムが訊いてきた。
直ぐにクビを振るアキ。そう思えば高校の時に弾いたギターはチューニングなどしなかった。音程があっているつもりで弾いていた。
もしかして、それが原因でうまく弾けなかったのではないかと疑念がアタマに浮かんでくる。たしかに譜面通りに弾いても弦が変わると、なんだかしっくりこなかった。
そうであっても自分がヘタだからだと、音程の合わないまま何度も練習を繰り返していた。誰の手ほどきも受けず、チューニングの概念がなかった若い頃の自分が恨めしい。
「そう、じゃあ開放弦で上から1弦づつ鳴らしてみて、、」
これはもう個人レッスンのはじまりだ。自分基準ではあるが、これほどのギタリストにマンツーマンで手ほどきを受ければ、普通ならいいお値段になるだろう。
ここまでしてもらって、じゃあ失礼しますでは済まなさそうで、ますます外堀を埋められつつあるアキだ。これまで何かをはじめようとしたとき、誰かに教えを請うことはなく、どちらかと言えばそういう機会を避け続けていた。
自分のペースで行わないと極度に緊張してしまい、一歩も進めないと知っている。だからあえてその場に身を置こうとは思わない。
このような流れでなければ、ギターレッスンを受けることなどアキの人生ではなかったはずだ。今は丁寧に教えてくれるオサムを無下にすることもできず、素直に手ほどきを受けられる。
そうではあっても心臓が高鳴っていく中で一弦目の音を鳴らす。オサムに言われるがまま、ペグを一度緩めてからゆっくりと締めていく。そしてストップと言われたところで止める。手が震えてうまくペグを扱えない。
もう一度、弦を弾く。よければ次の弦に行くし、もう少し微調整が必要なら繰り返す。それを一番下の弦まで行っていった。オサムは根気よくつき合ってくれた。
ギターのチューニングが進むにつれ、アキはこれまでにない境地に誘なわれいく。音を鳴らし、息を止めて弦を張っていく。それと同調するように緩んだ心が少しづつ張りつめて、いい緊張感が生まれてくる。
自分がうまく制御できなく気持ちと身体がバラバラになってしまうことがあると、アキはそれを元に戻す方法がわからなかった。環境と内面と身体が一致して、自然と平静を取り戻せるようになるのを待つしかなかった。
うまく言語化ができないアキだったが、ギターのチューニングしていくと、なんだか自分の心うちまでも、調和と均衡がはかれるように調節されていった。
「ホントなら、ハーモニクスしたり、音叉使ってやるんだけどな。初心者ならこれぐらいで十分だよ。どうしてもちゃんとしたチューニングしたかったら、チェッカー売ってるから、それ使えば素人でもできるよ」
自分は撒き餌だと言いながら、しっかりと捕食者にもなっている。この調子でギターは安くとも色々な備品を勧められ、最終的にはソコソコの金額になっていく作戦なのではないか。そもそもこの中古のギターがいくらなのかもわからない。
これまでのアキであれば、この状態にパニックになっていただろう。次から次へと噴出する不安事項があっても、今のアキは受け止められていた。
オサムの丁寧で優しい手ほどきや、もしかしてギターが弾けるようになるのではないかといった期待も後押しして、抗うことができないほど追従している。
「じゃあ次はコードね。おさえかた知ってる?」
そう訊かれてアキは自信なさげにこたえた「主要コードと、マイナーと、セブンスぐらいは何とかですけど、、」。
思い出しながら押さえられるぐらいで、スムーズに移り変えられる自信はない。
「上等、上等。そんだけ押さえられれば十分だ。今から教えるのは、オレが知る中では世界で一番簡単なコード進行で、世界で一番叙情的な曲だ。いい? ゆっくりでいいから、オレの言う通りコード押さえってって。まずはC」
オサムはCコードを抑えて、右手で弦を撫でるように鳴らす。キレイなハーモニーが奏でられる。
アキもオサムの指を見てから、Cのコードを思い出しながら指をおさえる。指先で弦を鳴らしても、オサムのような張りのある音は出ない。途切れ途切れでこもった音がするだけだ。
「オーケー、次はG」
一番下の細い弦をオサムは小指で押さえたが、アキには小指の握力に自信がないので薬指でおさえる。そうすると、その指を目一杯に畳まなければならず手を攣りそうになる。それでは弦が浮いてしまい、Cよりさらに音がこもった。
「いいよ。次はAm」
Amは比較的楽だ。ネックを親指と人差指で固定でき、残りの指も無理なく弦を押さえられる。はじめていい音色が出た。それでもオサムの音はもっと深みと重みがある。それがギターの価格の差であり、腕の差なのだ。
これだけ明確にわかれば仕方がないところで、うまくなればなるほど、その差は微小になっていくのだろう。それを聴き分けられることが、果たして幸せなのかは微妙なところだ。
どんなプレイヤーの音でも、それが素敵に聴こえれば良いはずで、だったらアキにはそれを聴き分けられる能力は要らなかった。眉間にシワを寄せながら、この音はちょっと違うねなどと、御託を並べても誰も幸せにならない。
「はい、それで、直ぐにF」アキはこれまでにない声を発してしまう「エフ、エッ、エフー」。オサムはそのリアクションを想定していたらしく気にも留めない。
Amからの流れで親指で1弦目、人差し指で6弦目を押さえるか、音が明確に出やすい人差し指で1フレットをすべて押さえる方法にするか。瞬時に悩んだ挙句に前者を選び、ミュートかというぐらいの酷い音を鳴らしてしまった。
「も一度C」オサムは気にせず先を進める。
Cに戻ってアキはホッとする。最初よりいい音が出た。ここまで弾いて気付いたのは、この曲は世界で一番有名な4人組のあの名曲だった。
「誰もが思いつきそうな、簡単なコード進行だけど、誰も思いつかず。それを繰り返しているだけなんだけど、飽きることなく聴きたくなる。そしてなによりあのヴォーカルを引き立てる旋律なんだよなあ」
そうオサムは絶賛した。アキにはそれほど思い入れはなくても、この曲をマスターできれば何度も弾いてみたくなる気がする。
復習するようにもう一度繰り返してみる。BメロではラクなAmは抜きでFだけになる。それでもサビの部分を口ずさむとそれっぽく聴こえて、もう一度チャレンジしたくなってしまう。
「うん、うん 、いいよ、一回目より断然いい」
オサムの言葉はリップサービスだとしても嬉しくなってくる。
「スゴイじゃん。もうそんなに弾けるようになったの?」
またうまいタイミングでユウリが合いの手を入れてくる。背中がこそばゆくなってしまう。
「買っちゃいなよ。そのギター。千円でいいよ」そこでユウリがすかさず金額提示をしてきた。
「千円!」思わず訊き返してしまった。「高かった?」アキは無言でクビを振った。安すぎる。
「ホカしちまう予定だったヤツだけどなあ。かと言ってタダてえのはよくないからね。妥当なとこだね」
オサムがそう言うと、アキは何度もうなずいた。レッスンまでしてもらって、タダでギターをいただくわけにはいかない。千円が妥当となるかどうかは、これからの自分の行動次第になる。
「値段なんてもんはさ、あくまでも指標でしかないにしてもさ、いくらかでも金は払った方がいいんだよ。自己投資への判断基準となるし、そうでないと自分の意識がないがしろになっちまうからね。満足する演奏ができるようになって、このギターの価値より自分の腕が良くなれば、次はそれに見合ったギターを買えばいいよ。言わばこのギターも撒き餌だね」
確かに物に金額という価値が付くだけで、その金額に見合った行動を取るようになるものだ。いつしか高額のギターを手に入れられる自分でありたい。それがギターでなくてもいいかもしれない。
「あのう、、」アキはオサムが言っていたチューニングチェッカーなるものがいくらするのか尋ねた。3千500円で、あとギターを持ち運ぶためのソフトケースも、ユウリが再びバックヤードから探してきてくれた。全部で締めて5千円となった。
「チューニングやってから演奏した方がイイよ。絶対に。手の動きと音が一致しないと、どうしても気持ち悪さが出るから、弾いてても楽しくないし、長続きしないんだよねえ」
オサムがそう教えてくれた。高校時代の嫌なイメージを払拭するためにも必要なアイテムだ。
「なんだかスイマセン。いろいろとしていただいて」
「いいのよ。こうして、ひとりでも楽器に興味持ってくれるひとが増えれば嬉しいし、これがきっかけで、あなたの人生に彩りを添えられるとイイわね。あとは次に高いギター買ってくれれば最高だわ」
そう言ってユウリは笑った。オサムもそれがホンネだろっと言って笑った。アキはその言葉で逆に安心できた。変に善意だけに凝り固まっていなくて、商売っ気がイヤらしわけでもなく、そう言ってもらった方が信頼感が高まる。
オサムが次の曲を引き出した。60年代頃から流行った男性デュオが創った、エンディングでライラライのハーモニーが印象的なあの曲だった。チャンピオンだったか、ボクサーだったか。そんな曲名とは余り一致しない、透明感のあるメロディだ。
タイミングよく店先をシャドウボクシングしながらランニングしていく人影があった。小柄で中学生ぐらいに見えた。もしかしたら女性かもしれない。
オサムと顔を見合わせて笑った。きっと同じことを考えていたはずだ。お約束で最後のパートはオサムと一緒に合唱した。ライラライ、ライラライラ、ライラライ、、
誰もがチャンピオンにはなれない。だが対戦相手がいて初めてチャンピオンが成り立つ。その他大勢もきっと大切な役割なのだ。それがオサムの回答なのだ。アキはそう理解した。
「不思議ですよね、、 」
アキが言いたかったのはこういうことだ。プロの演奏だって聴くのは自分のような素人であり、その人たちが良いと思って聴いているプロの演奏と、同じように良いと思っているのに、プロにはなれなかったひとの演奏と、どこにどれをだけの差があるのか。
自分だけがオサムのギターを上手いとは思っていないはずだ。メディアで名が売れているアコギ一本で歌う女性ミュージシャンがいるが、同じようにギター1本で演奏している、とある名もなき女性ミュージシャンは、地元のイベントでタダで観れたりする。
自分には、どちらも同じよう上手に聴こえるし、魅力的にみえる。テレビでしか観れないミュージシャンより、間近で聴く名もなきミュージシャン達の方が、強い熱量や、客に訴えかける力量が強く感じられるぐらいだ。
テレビに出るようなミュージシャンを、間近で観たことがないからと言われればそれまでではある。
大勢の観客が集まるようなコンサートの熱狂を観ていると、自分はそれだけで興ざめしてしまうところもある。なにかに囚われるように熱狂する人たちは、ミュージシャンに対してというより、その行為に意味付けをする必要性に追い立てられているようにもみえた。
それは勝手な自分の憶測で、実際がどうなのかはわかるはずもなく、自分がそういった大勢の仲間内に含まれるのが嫌なだけで、多分に斜めから物事をみているからだろう。
「 、、いったい何が違うんでしょうかね?」
オサムは次の曲を弾きながら、そんなアキの問いかけを聞き、しばらく考えていた。
「なんだろうね。その差って。オレにもわからねえな。想像だけど、きっと、誰もが誰かに支配されたいんじゃないの? じゃあ誰についていくか。だったら、なるべく大勢が注目しているヤツがいい。だからオレはここにいるんだろうな」
オサムがそう言った。そう言われて、自分の浅はかな問いかけが恥ずかしくなった。その理屈で行けばアキもまた、大した人物になれない。
もっともアキの場合は、はじめから自分の器を認識している。誰かから注目されたいどころか、誰からも触れられずに生きていこうとしていた。うまくならなかったのは何もギターだけではなかった。
「あの、最初にこのお店に入って来たときに思ったんですけど、置いてあるギターって、色んな値段が付けられてますよね。でもわたしにはその価値が伝わってこない。50万のギターと、100万のギター。見てもその差が分からないです。だからなんでしょうか? それも同じことなのかと、、」
こんなことを訊いていいのかと、気に止みながらもギターに絡ませながら、もう少し踏込んでみたかった。オサムはそれを理解してかどうなのか、スッと言葉を吐き出した。
「モノの見方は人それぞれでしょ。キミが今、その売れてないコに、売れっ子と同じような価値を見出すのも、10万のギターに100万の価値を見出すのも、誰かと一緒でなきゃいけないことなんか、何一つないんだから。オレはいいと思うよ。みんながみんな同じ人に価値を見出すより、自分がこれと思ったひとを好きになったら。オレがそのひとりだとすれば、それはそれで嬉しいし」
オサムの言葉が嬉しかった。それと同時に自分がそれほど深く考えて、誰かを好きになっているわけでないことに申し訳なくなる。
自分はまわりが価値がないと言っているモノに、価値を見出すことで、自分の存在価値を見出そうとしているだけなのかもしれない。
「オレはね。バイトっていうか、この店の呼び込みみたいなもんなんだよ」
「呼び込み、、ですか?」
「そう、サンドイッチマン。いや、音出してるからちんどん屋さんかな?」
それなら店内ではなくて、外で行なうのではと、アキはオサムの意図してるところを読み取っていない。
「こうやってギター弾いてると、キミのような子がフラフラ~とやってくる。そうすると、さっきのユウリちゃんが、捕まったエサを食べにやって来る。といった具合だな。こりゃ呼び込みというより生け捕りに近いか。ハッハッハ」
オサムはそう言って一人でウケていた。生け捕られた立場のアキには、余り嬉しい例えではない。アキは自分が捕食される側になったようで不安が先立つ。
確かに先ほどのユウリの言動をみていれば、自分など一口で飲み込まれるだろうと容易に想像がつく。こんなに素敵な音色に誘われてやって来たのだ。できればもう少し別な例えが良かった。
「誰が、エサ食べてるってー?」ユウリが店先から声をあげる。
どこまで地獄耳なのか。アキが慄いていると、オサムはニカっと笑ってどこ吹く風と気にしていない。きっといい関係性なのだろう。
「手ぇ見てみ」そう言ってオサムは、手のひらを差し出した。
指先が硬そうなのがわかる。ギターの弦と相まみ合ってきた軌跡だ。
「毎日弾いてたら、こんなんになっちまった。別にそれが嫌なわけじゃないよ。ただ、どんなに努力したって報われないことはあるんだよ。オレだってよく思ったさ。どうしてこんなヤツが売れて、オレはダメなんだってね。キミが疑問に思っているのとなんら変わらない、、 」
オサムはアキに話しかけながらも、アルペジオで美しいメロディを奏でている。聴いたことのない曲だった。オリジナルの楽曲かもしれない。少し哀愁を感じさせる曲調で、心が絞られる。
「 、、売れたヤツに訊いてみたことがある。そいつも言っていた。どうして売れたのかわからないってね。全員がそうじゃないかもしれないけどよ。もちろん誰だって、大勢に聴いてもらいたくって演奏してるわけだ。だけどそうなるかどうかは、誰にもわかんねえのかな」
アキは物悲しくなってきて瞳が潤んできた。オサムの心境に同調したのかもしれないし、ギターのメロディにやられたのかもしれない。もしくは自分に引っかかっていたトゲが抜けたからなのかもしれない。
自分でもわからないのだから、誰にもわからないのだろう。
思い起こせば今朝の出来事もそうだ。良かれと思ってしたことが迷惑にもなれば、しなかったことで後悔することもある。何もしなくても巻き込まれることもあり、ともすれば主導したことで矢面に立たされることもある。
どれも自分の意思とは別のところで物事は進んでいき。誰か彼かの意図する状況のために、この身を削られていくこともある。
「ごめんなさい、、」アキは指先で潤んだ目先をおさえた。
「オレの演奏で涙してくれるなんてうれしいねえ」
オサムは気を遣っているのか、そんなふうにはぐらかしてくれた。アキも何か気の利いた言葉でも言えれば良かったのだけれども、あいにくそういった語彙を持ち合わせてはいない。
「もちろん、演奏も素晴らしいです。色んなことが自分の思い通りにならないのはわかってるんですが、だからって誰かの思惑のままにされるのでは、やりきれなくてやるせない気持ちになってしまって」
アキには自分の真っ直ぐな感情しか口に出てこない。
オサムはゆっくりと、1弦づつ指先で弾いて曲を締めた。硬質化した指先が、この柔らかなメロディを生み出しているならば、この世は多くのことで、実態とその根源には、相反する事象が多いのではないだろうか。
「コラー! オサムー! なにお客さん泣かせてるのよーっ」
ユウリだった。確かに立場的にはオサムに分が悪い。
「いえ、違うんです。わたしが、その、オサムさんのギターとか、曲に感動して、その、つい、ホロリと」
珍しく気の利いたセリフが出た。オサムは肯定しづらいのかクビをヒネったり、うなずいたりと挙動が定まらない。ユウリは半信半疑といったところか。
そんな疑われるような前歴があるのかと、さっきまで関係性を肯定していたのに、人と人との間柄は目に見えることだけでは収まらないこともある。
「あっ、ごめんなさい。いつまでも長居して。そろそろ失礼します」
そう言って、アキは席を立ちアタマを下げた。今がそのタイミングだと考えた。ユウリはその肩を抑えて、アキを再びイスに座らせる。座面のビニールカバーに穴が空いているのか、クッションの空気が抜ける音がした。
「いいのよ、気にしなくも。アナタさえよければいつまでいても良いから。どうせオサムは1日中こんなんだし。あっ、そうだ。ちょっと待ってて」
そう言ってユリエはバックヤードに入って行った。オサムは笑顔でうなずいてアキを見ている。
今日の目的は達成されてしまった。あとは特に何か用事があるわけでもない。好きなだけ居て良いと言われるのは嬉しいが、ただこのまま対面していても、間が持ちそうにない。そこへユウリが戻ってきた。
「あった、あった。これこれ」そう言って差し出されたのは一本のギターだった。
多くのギターがその店内に展示されていた。金額は10万から50万までの品揃えが幅広く、高いものだと100万を超えるものまであり、アキは度肝を抜かれてしまう。
何がその金額の差になっているのか、見ているだけでは判断基準に見当がつかない。店の奥でギターの弦をチューニングしながらメロディを奏でている人がいる。
一度、喉を鳴らしてからその人に近づいていく。この人が自分のお目当てのヒトか。そうだとすれば自分の存在を気づかせてはならない。
今日は会社が休みの日で、通勤途中にあるモールに近い駅で降りた。朝早くから開いているような店ではないと知ってはいても、気持ちを抑えきれずにいつもの通勤時間に合わせて家を出ていた。
電車を降りる時にちょとした出来事があった。最初は自分の勘違いで、相手に迷惑をかけてしまったのかと肝を冷やした。
最後は丸く収まって安堵したが、やはりこんな日ぐらいゆっくり家を出ればよかったと、またしても自分の判断が面倒に巻き込まれる要因になっており、せっかくの日なのにと気持ちが落ち込んだ。
気を取り直して午前はブラブラとモールを見てまわり、お目当てのこの店の開店時間も確認した。そのあとはコーヒーショップに入り時間までゆっくりしていた。
ドリッパーのヒトが入れてくれたコーヒーは、普段飲むモノより酸味が弱く、優しい舌ざわりだった。気持ちを落ち着かせたいアキにはピッタリで、飲み干すころには心身ともにスッキリとしていた。
また寄ろうと帰り際にレジに置いてあったカードを手にしていた。ひとりで店をキリモミしているその人は、嬉しそうに微笑んでいた。
気持ちも入れ直したところで、満を持して店に向かっていく。店に近づいたところであの音色が聴こえてきた時は、良い意味で総毛が立った。
店内に入って行くにつれ、音響設備が整っているかと思うほど、音が奥深くなっていく。その人は作業に集中していて、幸いにもアキが近づいているのに気づいていないようだ。
接客の観点からすれば誉められた状況ではないにしても、アキにすればこのまま気づかないでいてほしかった。
空気を伝わってアキに届くその音は、カラダに当たり、耳から侵入してくるとアタマの中で残音となる。アキが全然知らない曲でも、聴き心地が良く、次に弾かれる音に常に期待していた。
「何か気になるギターあったら、弾いてみていいよ」
ななめ後方から、気づかれないようにその姿を見ていたのに、その人はアキに声がけしてきた。アキの心臓が跳ね返った。このままギターの音色を聴いていたかったのに、これでおしまいかと観念した。
それなのに、その人はそれだけを言って、引き続きギターの音合わせを続けた。
もしかして自分に話しかけたわけではないのかとまわりを見た。ここにはアキ以外には誰もおらず、やはりこの状況ではアキに言っているとみるのが正しいだろう。
そう言われても何て答えればいいのか、すぐに反応できない。それに気になると言われても、なにが自分の気に入るギターかわかるはずもない。
そもそもが、アキはその目的で店内に入ったわけではない。おいそれと数十万するギターを手にするなど恐れ多すぎる。万が一にキズでも付けて、買い上げることになったら、今の手持ちでは間に合うはずもなく、少ない貯金を切り崩さなければならないだろう。
言うだけ言って、躊躇しているアキを気にかけるわけでもなく、その人は美しいメロディを奏でていく。
チューニングが終わったようで、これまでは途切れ途切れだったメロディは、曲のアタマから通しで演奏されていった。
それは何処かで聴いたことのある、懐かしいメロディだった。思わず口ずさみたくなりそうでも歌詞が出てこない。歌えたとしてもギターの音色のジャマになるだけなのでその気はない。
サウンドはさらに厚みを増していき、左右の五本の指が休むことなくうごめき、アキが知っているメロディの合間を縫って副音も複雑に絡んでおり、ボーカルのメロディに対して、音を深めるサブメロディ重ね合わせていき、ベース音が織り交ざっていた。
高校の時にうまい奴が演っていた奏法で、自分もやってみようと何度も練習したものの、どうしてもできなかった演奏だった。それを見ている分にはいとも簡単に、それも高校の時に見た以上の正確さ、音のハリ、流れるメロディを奏でていく。
この人はアキに自分の腕前を披露しているわけでもなく、弾いている内に熱中しだして、自然とそうなっているようだった。
アキは前に回り、食い入る様に指の動きを凝視した。もしかして名のある演奏者なのだろうかと、そんな期待もしたくなるほどのテクニックだ。
以前モールをブラついていた時に耳に届いたギターの音色。音源から流れてきたものではなく、生の音のダイナミックさと、ヒリヒリとする危うさに耳を奪われた。
どこから流れているのかと、あたりを見渡す。楽器屋の看板が目に入った。ギターのイラストの下に、カタカナでカノウと書かれているだけのシンプルなモノだ。
およそモールにある他の店とはかけ離れた、前世の遺物といった佇まいだった。アキにはそれが却って好印象となった。
その日は約束の時間があり、店の前を素通りするしかなった。店の前に立った時には、すでに音は止んでおり、店内も薄暗く中の様子は伺いしれない。
本当にここでいいのか確信が持てないまま、後ろ髪を引かれる思いでその場を離れた経緯があった。
次に弾き出した曲は、アキにとって苦い思い出の曲だった。仲間内のひとりの彼女が良い曲だと勧めてくれた輸入盤で、今では世代を超えて大ヒットした曲だ。
アキも直ぐにレコードを買って何度も聴いた。そして友だちに無理を言ってギターを借りて、前奏だけでも弾けるようにと、指先がボロボロになるまで練習した。
それでも演奏するというより、何とか音が出るというレベルから抜け出せず、彼女と友だち以上になることを諦めると同時に止めてしまった。そしてギターに触ったのはその時だけだ。
そんなこともありしばらく避けていた曲だった。もはやラジオでも滅多に聴かなくなった今、このタイミングで耳にするとは何の偶然か。
間近で聴くと、さらに空気の振動がビンビンと肌に響いて、心の奥まで振動してくる。アキがこんなふうに弾けたらいいなと望んでいた弾き方をしている。
最後のAメロが終わり、前奏と共に世界で一番有名と言っても過言でない、ギターソロに入ろうとした。アキはそのリフを想像するだけで肌が粟立った。
「オサムーっ!」元気のいい声が店内と、アキと彼に響き渡り、ふたりは同時にビクリと背筋を正した。
黒のTシャツに、緩めのデニムパンツ。紺地のエプロンをした店員が胸を張った。Tシャツの背中とエプロンの腹の部分に、店の名前がプリントされている。
倉庫から弦や、ストラップなどの在庫を取り出してきたあとで、手に幾つもの商品を抱えていた。商品の隙間から胸のネームプレートが見え、そこにはユウリと書かれていた。
ダメでしょう。お客サン来てるのに。ギター弾くのに集中してちゃと、オサムをたしなめ、アキに振り向き、ゴメンナサイ、いつもこんな調子でと、アタマを下げた。
店の客と言われ恐縮してしまう。オサムのギターが聴きたかっただけで、ギターが欲しい訳ではないアキは返答に困り、ただアタマを下げるしかない。
買う予定で来ていないので、資金も持ち合わせていない。押しに弱いアキなので、こういったタイプの店員にグイグイと言い寄られると、ローンとかカード払いでとか勧められて買ってしまいそうだ。
何か言ってこの場を取り繕わねばと焦っていると、余計に言葉が出なくなる。素直にギターの音色に釣られて入店しただけで、買う予定はないんですと伝えたかった。
「なんだよ~、ちゃんと接客したぜ。気になるギターがあったら手にとって弾いてみてって。なあ?」
そう、オサムに同意を求められ、首をコクコクと振るアキ。
「そう言うのは接客って言わないの。手に取ってって言われても困るよねえ?」
今度はアキは、引きつった笑顔で応える。肯定も否定もできない。それにしても一応客であるアキに、何故かふたりは一切の敬語はなく、以前からの友達のように話しかけてくる。
それが別に馴れ馴れしいという感じではなく、初めての店なのにアキを優しく懐柔していく。それで随分と気持ち楽になって言い訳の言葉も出てきた。
「あの、店長さんのギターがすごく上手で、聴き惚れてしまったというか、、」
店のふたりは、アキの言葉が終わらないうちに、声をあげて笑いはじめた。何がおかしいのか戸惑うアキ。ユウリに笑われるのはまだしも、上手だと誉めたはずのオサムにまで笑われてしまい、自分ごときが上手などと言うのも憚れるのかと焦ってしまった。
「ゴメン、ゴメン。オサムのこと店長だって言うから。そんな勘違いしたのアナタがはじめてよ。このヒトたんなるバイトよ」
「バイト?」オサムはウンウンとタテに二度クビを振って肯定した。
「そう、バイト。なんだったらわたしは店員だから、格付けとしてはオサムより上だし」
ユウリは満面の笑みでそう言った。オサムは若い子に呼び捨てされて、そんなことを言われているのに一緒になって笑っているだけだった。
アキは焦って、ユウリにアタマを下げた。それは気づかず、失礼しましたと平謝りする。店員だからといえ、そこまで卑屈になることもない。案の定、また大声で笑われることになる。
「やっだ、何それ。アナタ面白いわねえ」
全く言われる通りで、自分でも迷走しているのがわかる。ただ、そういった流れを作り出したのはユウリであって、どちらかと言えば、乗せられただけだと言いたいところだ。
とは言え反論できるはずもないアキは、引きつった笑顔をするだけだ。オサムはひと通り笑ったあとで、アキに近くのイスに座るように勧めてくれた。
ユウリは、アブラばっかり売ってないでちゃんと商売してね、と言って商品の陳列をはじめた。オサムはクビをすくめて聞き流す。
「キミは、この曲好きなの?」
アキにそう聞きながら、先ほどの曲のイントロを弾き出す。五本の指から弾き出されるメロディは、やはり複雑に絡み合って奥深いサウンドを創り出していた。
「どうしてわかるんですか?」アキは素直に疑問を問う。
オサムはニヤリとするだけで、理由は言わず演奏を続ける。とても一本のギターから紡ぎ出される音源とは思えない。自分が弾いていたメロディとは全く別物だった。
「凄いテクニックですね。もしかしてプロの方ですか?」おだてるつもりもなく、そんな聞き方をしていた。
オサムは目を見開く。これはまた笑われる流れだ。そう心配するアキをよそに、オサムは表情を緩めるに留めていた。アキの天然っぽい言動を可笑しがるよりも、自分の過去を思い起こす思考が勝った。
「プロになろうとしてた。でもよ、オレぐらいの腕のヤツはいくらでもいるんだよ」
この人のウデを持ってしてもそうなのかとアキは愕然とする。そういう話はいろんなところで耳にしていた。そしてその言葉を聞くたびに、彼らをほめたたえている自分の存在がより小さくなっていく。
これほどの演奏ができても、かの世界では平凡であり、下界に降りてきてはじめて、自分のような耳の肥えていない者から、唯一崇められるに留まっている。
それが現実であるとわかっていても、すぐには受け入れがたいアキは、以前より引っかかっていた疑問を、勢いでオサムにぶつけてしまう