アオイはショウとは目を合わさないままに、小さな消えゆるような声でそう言った。走行音や、社内アナウンスの中で何とか聞き取れるほどの声だ。アオイの耳元に口先を近付けて、これまた小声で返答をする。
「いえ、せっかく譲って下さったのに、こんなことになってしまい、こちらこそ申し訳ないです」
見知らぬ人とこんな会話をすることになるとは思いもしてなかった。特異な状況下で何か言わなければと口を突いた言葉だ。ショウは周りには会話を聞かれたくはなかった。
電車の中で会話をしている人をたまに見かけ、内輪話しで盛り上がったり、どうでもいい話しが耳に届くと辟易する。聞かなければいいのだが、一度気にしてしまうとそこから離れなれなくなってしまう。
たまに込み入った話しをする人もいて、知らない人が聞いているかもしれないのに、そんな話しがよくできるものだと感心してしまう。
まだ合って間もないと思われる人達の、ぎこちのない会話を聞くのは、その中でも苦になった。様々な理由の中で、行動を共にすることになった人たちの、お互いに気を使ったやり取りがもどかしい。
どんなことに興味があるのか、ないのか。何が好きで、何が嫌いなのか。当たり障りない質問を繰り返しては共通点を探し当てようとする。
どちらかが話しはじめると、無難な相づちを打ったり、必要以上に共感することもあり、一瞬盛り上がったりもする。それなのに胸の内では次に何を話そうか、多分そのことばかりを気にしているような、会話自体には何の中身もないやりとりが続いて行く。
とにかく一緒にいるあいだに、妙な間ができないようにするためだけの会話だ。奇跡的に共通の趣味や、関心事があれば幸運だ。一気に楽しいひとときに変わり、降りる駅があっという間に来たりする。聞いてる方もそんな人達からの呪縛から解き放たれる。
シュウがそういった気持ちでその人達をみているのは、自分も同じ状況に陥るからであり、そのような状況にならないようになるべく配慮してきた。突然降りかかった久しぶりの状況に気持ちが焦っていた。
実は出かけに躓いて、足を怪我してしまいましてね。と言おうかとして思い留まった。距離を詰めるために自分の失敗談を話すのは常套手段ではあっても、そこまでする必要はないし、なにより何の関係もないまわりの人たちに聞かれてしまう。
そういったことを考慮せずに口が軽くなってしまうのは、まさに不穏な関係性に耐えきれず、自己開示をしてしまう失敗例となる。自分の弱みをさらけ出し、チキンレースに負けてしまった結果だ。
「わたしは、どうも間が悪いというか、思い込みが激しいらしくて、、」そうアオイが口にする。
自分のことなのに他人事のように言う。確固たる自分形成がなされていない人が口にする言葉だ。これで主導権を握れたショウは気が楽になった。自分から話す必要がなくなり、相手に話させればいいだけだ。
「よくあるんですか?」と、肘を突く。肯くアオイは、それにつられてスルスルと話しはじめる。
道を聞かれた時に、勘違いしてしまい、一本違う道を教えてしまったこと。落とし物を拾って必死に追いかけたら、その人の物ではなかったこと。そんなエピソードをいくつか話した。
「いつも、あとから間違いに気づくんです」
見事なまでの失敗談だった。まわりにいる人も耳に入っているだろう。その中の何人かは自分にも経験があると同感し、何人かがトロいヤツだと静かに嘲笑しているはずだ。
満員の車内はカラダをまわりに預けられ、想像した以上に楽だった。この人には申し訳ないが座らなくてよかったと、あらためて自分の判断に確証を持つ。あと二駅ぐらい何とかもちそうだ。
シュウは不憫そうな顔を作ってアオイに相づちを打つ。こちらもこれでもちそうだ。
「一番最悪だったのは、、」もちろんアオイはシュウだけに話しているつもりだ。
話すことで贖罪した気にでもなるのか、まわりにも聞かれている感覚はなく、自分の失敗談を懺悔でもしているように話している。シュウは神の代理人でもないし、聞いているのは慈悲深い使徒達でもない。
「、、痴漢をしたひとを間違えてしまったんです」
シュウは目をつむった。まさかの内容だった。確かにそれは、ついうっかりでは済まされない思い込みで、ひとつ間違えば犯罪になってしまう。
どう反応していいかわからず、その人の横顔を見るともなしに覗きこむ。平穏な顔をして、車窓から見える風景を眺めていた。
平穏になれないのはショウの方だった。このタイミングでの突然の巻き込まれ事故だ。
まわりからは自分は知り合いと認識されているはずで、ショウはいたたまれなくなってくる。心なしか冷たい視線がこちらに向けられいる気がする。
せめてもの救いは、痴漢で捕まった側でないことか。そうであれば、すぐさまこの場を離れるたい心境になるだろう。満員の中で、脚を痛めている身でそがれできるのか、はなはだ疑問でしかない。
ここまで話しをして、今さら他人のフリもできず、とは言えこの場から立ち去ることもできず、願わくばこれ以上話しが膨らまないか、別の話題にすり替えたい。
ショウは先手を打つべく、当たり障りのない合いの手を入れる。
「そんなことがあったんですね。まあ、その話は、、」
「学生が困った顔をして、わたしに視線を投げかけてきたんです」
ショウが話しの途中でも、アオイは自分のペースで話し続ける。ショウは万事休すと目を伏せた。
「最初は何か分かりませんでしたが、直ぐに痴漢の被害を訴えているのだと感ずきました。でもどうしていいかわからないんです。学生は今度は視線を後方に向けて、目配せをはじめました。そこには背の高い人が後ろ向きに立っていました。その人に何かされていると、伝えようとしているのだと理解しました」
アオイはここまでハッキリとした口調で明確に話した。これまでの自信なさげな口ぶりではない。誰かに訴えかけるようにも聞こえる。
ショウは少し安堵した。この話の流れからすると、間違ったのはこの人ではなく、その学生ということになる。
緊張感があった周囲の人たちも、心なしかホッと落ち着いた雰囲気となる。何にしろ早く話しを切り上げたいショウは言葉を押し込んでいく。
「成る程、その学生が勘違いしたのですね。仕方ありませんよ、パニック状態だったでしょうし、後ろ向きなら正確にはわからないでしょうからね。最も間違えられた人にとっては、人権問題になるでしょうが、、」
これで幕引きとするつもりだった。これ以上の深掘りは不要だと、そんなシュウの思いが込められている。
それに今度はアオイはシュウの言葉に被せこなかった。それでシュウも締めてよいと、先ほどの言葉で結ぼうとした。アオイはシュウに話す機会を与えたというよりも、何かを待っているようだった。
「間違っていればですけどね、、」
その言葉は、誰かに突きつけるような言い方だった。自分から間違えたと言っておいて、そんな言い草はないとシュウは呆れてしまう。
もうすぐ駅だ。人が降りたら挨拶して間を取ればいい。いまさら言い合っても仕方がない。聞こえないふりをして時を稼ごうと両腕でつり革に捕まり、視線をアオイから切った。
「、、でも、間違いじゃなければどうなりますか?」
それでもアオイはまだ話し続ける。シュウもいい加減うんざりしてきた。もういいじゃないですかと、言おうとしたとき、シュウの後ろの方で人が動いた。
身動きが取れないほどの車内で、もう次の駅で降りる準備だろうか。次は大勢が降りる駅なので、それほど焦る必要はない。
電車に乗り慣れていない人が、やりがちな行動だと、シュウはその人が近づくと、少し通り道を作ってあげる。
その人はチャンスとばかりに、大柄なカラダをグイグイとねじ込んでくる。ヤレヤレといった面持ちで、シュウはやり過ごそうとする。アオイはまた車窓を眺めている。
電車は駅に止まり大勢の人が降りていった。先ほどのフライング気味の人も、無事降りられたようだ。
ふと見ると、アオイのとなりに学生服の子が立っていた。アオイに何か用でもあるのか、モジモジと何か言いたげに見える。まもなくドアが締まりますとアナウンスがされた時、その子はアオイにアタマを下げて急いで電車を降りていった。その姿を目で追うシュウ。
「知り合いですか?」
何か訳ありなのだろうか。聞いておいて、変にクビを突っ込んだことに後悔した。車内の人は減りはじめたとはいえ、これでまた変なエピソードでも話しはじめられたら目も当てられない。
アオイはクビを振った。なにか緊張感から解き放たれたように、フーッと息をついた。
「間違いでなくて良かった」そうボソリとつぶやいた。
「エッ!?」シュウのアタマの中で何かがつながっていった。
「もしかしてあのコ、痴漢に遭っていたんですか?」アオイは否定も肯定もしなかった。
「窓にあのコの表情が映ってました。なにか辛そうな表情でした」
それで痴漢の話しを切り出したのかと、シュウは悟った。あの時から、この人は自分の失敗談ではなく、その話題をすることでまわりに聞き耳を立たせ、痴漢に対して抑止力を働かせたのだ。
「何の確証もなく、誰かを咎めるほどの度胸はありません。かと言ってあのコを放って置くわけにもいかず、咄嗟に口に出ました。いつもは、それで失敗するんですが、、」
そう言って沈んだ表情でシュウの足を見た。
「いえいえ、これは、わたしの都合で、あなたの所為じゃありませんよ」
なんとも立場がなかった。もし自分があの人の立場だったら、そんな立ち回りができただろうか。できているイメージがわかないし、できるはずがない。
この人は何度も失敗しても、自分が目にしたことに対して正義を貫こうとしている。それがすべていい結果にならなくとも。いやエピソードを聞く限り明らかに失敗が多いのかもしれない。それでも弱気にはならなかった。
誰もが自分さえよければいいといった風潮がはびこる中で、誰かを助けたいという気概を常に持ち続けている優しさがあった。
散々この人のことを小バカにして、空気を読まない言動を迷惑がり、そもそも行為を無にしたからこんなことになっている。自分の小ささだけが浮き彫りになっている。
アオイは何度も首を振り、そして最後にアタマを下げてその場を去っていた。残されたのはシュウの方だった。電車が揺れてアオイは少しよろけていた。シュウはその姿にアタマを下げた。
アキは自分が何をしているのか、よくわからなくなっていた。その人と対面したとたん、言葉が出なくなってしまった。
この人は反対側のドアまで押されて、カサを取れずに次の駅で仕方なく降りてしまったのだと思い、アキも降りる駅ではなかったのに、席を立ちカサを取って後を追いかけてきた。
突発的にそうしなければならないと身体が動いた。カサを取り出すのは大変だった。すいませんと連呼して人をかき分けカサを掴み取り、再び反対側のドアまで進む。
ちょっとっ!と迷惑そうに口に出す人。口に出さなくても険しい顔をする人。そんな人たちに降りますと、アタマを下げてかき分けていく。最後は吐き出されるようにしてホームに降り立った。
電車を降りることが、こんなに大変なのかと身を持って知った。中には不憫そうな顔をして、道を譲ってくれた人もいた。どちらにせよ自分は異端であり、迷惑な存在であるのは間違いない。
多勢に無勢で、常に多数派が正である空間がそこに創られていた。留まる人側が多ければ、降りる方が反抗分子であり、降りる側が多ければ留まっていては悪になる。
大勢の側に付くことで権力を持ったような意識に支配され、弱者を下位に扱う。誰もがそんな認識を持たないままに、多数派に対して群集心理に飲み込まれていく。狭い車両の中で、そんな強権を発動している人達を見て、アキはどちらにも着きたくないと思うばかりだ。
「あのう、カサを取れずに、降りる羽目になったのかと、、 」
ようやくアキは、恐る恐ではあるがそう口にできた。シンはそれまでの間、ずっとあっけにとられていた。
「あなた、あのカサを取って、わざわざ電車から降りて追いかけてきたのですか?」
それ以外の選択肢はないはずなのに、シンは当たり前のことと思いながらも訊いてしまった。それは確認するというより、この人に自分のしたことを振り返って貰おうとするための言葉だった。
忘れ物をわざわざ持ってきたといった尊大な態度でもなく、困っているひとを助けてあげようといった慈悲の態度でもなく、どちらかと言えば、何かの使命感に突き動かされているようにみえるのもしっくりこない。
それだけシンにとっては考えられない行動であり、何か他の意図があるのではないかとの穿った勘ぐりも混じっていく。
「ええと、わたしが声かけたから、前の駅で降りられず、次の駅でカサも取れずに、仕方なく降りることになったと思い、それで、、」
シンは目を閉じて首を振った。本心でここまでやれば称賛に値する。自分の所為にするにも程があり、これでは相手によっては逆手に取られかねない。
「あのう、ここまでしていただいて大変恐縮なんですが、コレはわたしのカサじゃないんです。最初に声を掛けられた時に、そのように伝えたつもりですが、分かりづらかったら申しわけありません」
シンは苛立ってしまいそうな気持を抑えながら極力丁寧にそう言った。もしかしたら判断能力が低いとか、対話を潤滑にこなせない人なのかもしれない。
この人の言葉を聞いて、またやってしまったとアキは肩をおとした。何時も良かれと思ってしたことが裏目に出てしまう。すぐに思い出されるのが、見知らぬ人を介抱しようとした時だ。
通りを歩いていたら気分を悪そうにしている人が、ビルの壁に寄りかかっていた。まわりには人がおらず自分が何とかしないとと、思い切って声をかけた。
その人はアキを見もせずに、ただ口元を抑えて、今にも崩れ落ちそうだった。近くで見ればやはり顔色も悪く、それなのにアキが声がけしても、その人は何の反応もしてくれず無言であった。
言葉も発せず、反応もできないほど気分が悪いのか、ひとに自分の弱っている所を説明したくなく強がっているのか、アキの存在を消しているように見える。
アキからしてみれば、自分が空気にでもなったような気になった。もしかしたら自分はまわりから見えておらず、この声は相手に届いていないのかもしれない。それならそのほうがアキにとっては気が楽だった。
そう感じることはこれまでも何度もあった。そのくせ厄介事にはよく巻き込まれる。何か都合のいい時だけ、自分は他人に認識されるのだろうかとさえ思えてくる。
だからといって、このまま置き去りにするわけにもいかない。自分から声をかけた手前では、人の道に反する。懲りずに何度も声をかけ続けても、相変わらず無視を決め込んだかのように、何の反応もなかった。
その時、このビルの警備員と見られる人が寄ってきてくれた。ビルの中から自分たちの動向を目にして気になったのだろう。
アキはこれまでの状況を説明した。警備員は何度かうなずいて、ビルの中に医務室が在るから、こちらへどうぞと、その人の肩に手をやった。その人は自ら歩き出し、警備員が寄り添って進んで行った。
残されたアキは安心したとともに、釈然としない思いが残った。確かに自分は大丈夫かと訊くだけで、具体的な対応策を提示できなかった。しかし状況を言ってもらえれば、それに対処する手段を提案できたはずだ。
まったく何も言ってもらえなければ、どうすることもできない。そう憤りながらも、果たしてそんな上手くこなせただろうかと懐疑的になる。
結果だけみれば、自分など相手にせずに、このビルの警備員の助けを待ったことにより、間違いなくスムーズに事が運んだはずだ。
自分ができたことなど、せいぜい救急車か、タクシーを呼ぶぐらいだ。あのひとはそういった大事になるのが嫌だったのかもしれない。
自分なんかが首を突っ込んだところで、事態は何も好転しない。そんなことを見透かされているようだった。相手のためと思ってしていることも、実際には人を助けられない自分が嫌でしているだけなのかもしれない。
折り返しの電車が到着するアナウンスが流れた。シンは良いタイミングと、では、失礼しますと話しを終わらせようとした。
今回は会話になっただけマシだった。アキはそう思うことにして、念のために最後に確認を取ることにした。カサを少し上にして、露先の先端を包むプラスチックに引っ掛かったUSBメモリーを、シンの目の高さに運んだ。
「てっきり、コレはアナタが引っ掛けておいたと思ったものですから、、 」
アキはカサを持ったまま、自分の想い違いを反省している。
青ざめるのは今度はシンの番だった。見覚えのあるUSBが目の前にぶら下がっている。ポケットに手を突っ込むと、ハンカチしか入っておらず、今朝出かけに慌ててポケットに入れたはずのUSBがない。
電車に乗った時には、すでにUSBの存在は忘れており、何度かハンカチを取り出した時に、一緒に引っかかって、外に出てしまったのだろう。
これまでもそんな失敗は何度かしていた。無造作に後のポケットに入れた一万円札を、知らずに落としたときは、何度も通り道を往復して探したが見つからなかった。
今回はたまたまカサの露先に、USBのリングがうまいこと引っかかってくれたようだ。もしこのUSBを紛失していたら、半年間の実習の成果が水の泡となるところだった。
大学と自宅のPCに、バックアップは取ってあるものの、最終データになっているか自信がない。それをイチから確認すれば相当な時間を要するだろう。
大学と自宅でデータを行き来させているので、どちらが最新か分からなくなっている。どちらも一部が最新で、両方をつなぎ合わせて補修をしなければならない最悪の可能性もあった。
いずれにせよ、このUSBだけが最新のデータで、それ以外はそうである担保は取れていない。資料と付け合わせて確認して、データを再構築していくには相当な時間と手間がかかり、想像するだけで背中に冷たい汗が流れる。
先程まで邪険にしていたこの人が、救いの神にまで見えてくる。シンはカサの露先からUSBのみを取り去ろうとする。手が震えて一度ではうまくいかなかった。
「このカサはボクのではありませんが、このUSBはボクの物です。持ってきていいただき、ありがとうございました」
そう言うのが精一杯だった。自分の自尊心を保つための、ギリギリの言いかただった。もっとオーバーに喜んでもいいい場面だったのに、相手の表情と経緯を考えると、とてもそんな気分にはなれなかった。
「ああ、そうなんですね。どうしましょう。コレ」
シンにとってのUSBの価値を幾ばくかも感じられないアキにしてみれば、ポケットに収まってしまうUSBより、手持ち無沙汰になるカサの処遇のほうが心配だった。
電車がホームに入ってくるのが見えた。シンはさすがに、このままこの人を放置して乗り込めなかった。カサを自分のではないと否定してことで、電車を降りられなかったのは自分のせいだ。
さらに次の駅で引き返そうと降りた自分を追いかけて、あの状況でカサを、それもUSBを落とさずに持ってきてくれたことに、それなにり誠意を示したい。
この人は、シンの冷ややかな対応に憮然とすることもなく、かといって恩着せがましくもなく、それどころか何か自信なさげにしている。
それがここまでシンの対応を鈍らせていたのも事実で、もっと積極的に、明確に指摘してくれればこちらも適切な対応ができたのにと思うところはある。
電車は乗降客の動きが途絶えドアを閉じた。シンはホームに立ったままだ。アキがぼんやりと首をかしげる。乗らなくて良いのかとばかりに。
強気に出た時に失敗するパターンに陥ったシンは、謝罪の糸口が掴めない。せっかく大切な物を持ってきたのに、その態度はなんだと窘められたほうがまだ良かった。本心から謝罪して平謝りをすればスッキリするだろう。
それなのに相変わらず、自分が悪いのではないかぐらいの態度を保ち続けられ、どうにもやりにくい。シンはカサを受け取った。
「このUSB、本当に大切な物だったんです。無くしたら取り返しがつかなくなるぐらいに」
そこまで相手に付け込まれるような、自分の弱みを伝えて良かったのか、迷うところではあった。それなのに自分の今の立場を考えると、どうしてもへりくだってしまう。
そして相手の表情を見ると、だからといって何かを要求してくるタイプには見えなかった。どちらかと言えば親身になって話しを聞いていてくれている。シンは自分の目利きに自信はないくせに、今回は変に確信をしている。
「このカサは、ボクがこれから忘れ物として、駅室に届けてきます。どうぞご心配なく」
アキは申し訳ない思いでいっぱいだった。自分の伝え方が悪かったために、電車から降りられず、こうして忘れ物を渡すにも、段取り良くできていれば、折り返しの電車にも間に合っただろう。
それなのに言葉はもどかしく、要領を得ないためにこの人を引き止めてしまった。あまつさえ、この忘れ物のカサの処遇までも任せよとしている。
「あっ、いえ、これはわたしが、、」
後先を考えずに、つい口に出してしまった。これ以上この人の時間を奪ってはいけない思いが前面に出ていた。ムリなことではない。カサを届けるぐらいなら多分できるはずだ。
ふたりでカサを握り、食事のあとの支払いを主張し合う人たちのようになっていた。そしてふたりは譲りあうようにして同時にカサを手放した。カサはふたりのあいだに落ちて慌てて拾おうと手を伸ばす。
同調した動きを続けたふたりは、なんだか照れくさくなってしまい。無言でアタマを下げ合った。そのあとはシンの動きの方が機敏で、カサを持ってそれではと、スタスタと行ってしまった。アキがその後ろ姿を見送っていた。
何となく嫌な予感はしていた。
その人は足を痛めているように見えた。つり革を持つ手に必要以上の力が入っているのが目に見てわかる。電車が左右に揺れるたびに、カーブの前でスピードを落とすとき、そして曲がり終えてスピードが上がるときも、カラダに自重以外の負荷がかかると、バランスを崩さないように腕に力がこもっていた。
本当ならつり革ではなく、手すりに寄りかかった方がカラダを支えやすいはずだ。あいにく別の人がその場を占拠し、反対側の奥のドアの手摺には傘がかかっていた。隣に立っている人の持ち物だろう。
朝の車内は見かけた顔が多い。そこここに座っている人も日々同じ顔ぶれで、それぞれが自分の指定席を持っている。
電車に乗り、自分達がいつも座る席に見かけぬ人が座っていると、玉突きのように座る場所が変わっていく。整然とした車内の秩序は乱れ風景は一変する。
アオイは自分がそうなった場合は、まずはプランBとして座る場所を変える。座るところがなければプランCとして、立つ場所をドア横の手摺りにするか、連結の入り口にある手摺にするかを選択するといった具合だ。
今日は秩序ではなく、アオイの心が乱れた。アオイは今日も同じ席を確保していた。いつもと違っていたのは目の前に、足を痛めてそうな人が立ったことだ。
アオイが座っているのは横に長い10人掛けの一番端、ドア横の手摺りの隣りだ。降りる側のドアに近いので、そこをメインポジションにしている。足を痛めている人も多分同じ理由なのだろう。
見かけない顔なので常客ではない。何らかの理由でこの電車に乗り合わせた初見さんだ。もしくは今後は同じ時間と空間を共有し、秩序を守る同志となるかもしれない。
アオイの心が乱れているのは、席を譲るべきか、そうしないでおくか決めかねているからだ。この人が前に立った時からそれははじまっていた。
それは結局のところ、自分がどうしたいかだけなのに、決断に至る理由が見つからず、自分の中で堂々巡りをし続けて、脳の動きが衰えていく。
この人は席を譲って欲しいのか、そこから考えはじめてしまうアオイであった。もしそうでない場合、譲った立場がなくなり、再び座り直す訳にもいかず、その場で立ちすくんでしまうだろう。その後の展開がイメージできない。
快く座ってもらえた場合、近くで立っていても、話が弾むわけでもなく、何か見返りを求めているようで居づらくなるだろう。そんな状況になれば自分の居場所がなくなってしまう。
そうなってしまった時の収まりどころのない自分をまわりに晒したくない。小さな自分を守るのに必死になっている。自分がそうしないことの理由を探して、同時にこの状況下で何もできない自分を赦したかった。
まわりは皆な、多分寝た振りをして目を閉じている。普段なら新聞を広げている人も、新聞をヒザに置き目を閉じていた。アオイも普段なら降りる駅までは、目を閉じているので気づかなかったはずだ。
見えていない世界で何が起きても自分には何の影響も与えない。目にしたとたんにそれについて何かを考えなければならなくなってしまう。
アオイは見るでもなしに前に立った人の足元に目をやったところ、右足を少し宙に浮かせ、左足だけで支えているように見え、その人の顔を見たときに目が合ってしまった。
次は複数の路線が集合しているターミナル駅で、大勢の乗降客がある。せっかくの席を譲れば、しばらく満員の中で立ち続けることになる。
それはこの人にとっても同じで、アオイが席を譲らなければ立ち続けることになるだろう。席を譲るなら今しかない。駅が近づいて来るにしたがって、気持ちばかりが追い立てられていった。
考え出したら動けなる。瞬発的に動かなければ何もできない。脊髄反射だった。咄嗟に立ち上がって声をかけてしまった。声は裏返っていた。
その人は困った顔をして首を振った。続いてつり革を持つ反対の手で制止してきた。その瞬間で顔がカーッと赤くなった。恥ずかしかった。まわりの人が全員が、自分を見ているようだった。そして想像通り、断られたとはいえ、また座り直すわけにもいかず、その人の横に棒立ちしている自分がいた。
善意であれば、相手は必ず喜んで受け入れるわけではない。この人にも事情があり、100人が求めたものを、この人が求めているとは限らない。
そして最大の問題点は、アオイが自分の本心ではなく、善行をすることを自分に強要したことであり、そうすることで身を軽くしようとして、中途半端なまま自我を貫き遂行してしまったことだ。
それが一転、困ったように拒まれて、善行は悪行までは行かなくても、十分にはた迷惑になってしまった。アオイはその急激な落差についていけず、体内でも一気に体温が上昇し、そして見る見ると急降下していった。
駅に着いて大勢の人がなだれ込んで来た。席が空いているのを目ざとく見つけた人が、ふたりを押しのけて座席を確保した。その人は顔を上げようともせずにすぐに寝たフリをした。
すぐにふたりのまわりは人で固められ身動きがとれなくなる。さっきまで赤の他人で、近くにいても何の気遣いをする必要のなかったふたりは、今では気まずい雰囲気の中で、お互いを意識しなければならない存在になっていった。
何となく嫌な予感はしていた。
いつもより家を出るのが遅れたショウは焦っていた。出掛けハナに母親に用事を言いつけられた。預けてある保険の証書を準備しておいて欲しいと言われた。
急がなくてもいいと言われたが、それをどこにしまっておいたか、すぐに思い出せない。そういう頼み事は休みの日にとお願いしていても、気づいた時に言わないと忘れちゃうからとか、今日じゃなくて休みの日でいいからと、だいたい朝の出かける間際に言ってくる。
せめて前日に言って欲しいと伝えるも、そもそも帰りの遅いショウとは時間が合わない。メモに書いて置いておけばと提案しても、それぐらいのことも面倒なのか、どうしても口頭で伝えてくる。
それはふたりのあいだにコミュニケーションが減ったことへの、本能的な行動なのかもしれない。どのみち仕事から疲れて帰ってきて、テーブルにそんなメモが置いてあったら、それはそれでげんなりするだろう。そんな夜の遅くに探し物をしはじめる気にもならないはずだ。
どちらにせよ在処がわかっていれば、それほど時間もかからないことも、仕舞ってから数ヶ月後ぐらいに、ポツンと思い出したように言って来られると、どこに仕舞っておいたのか、思い出せないことはよくある。
金融関係なので今回は目星はついている。ところが以前にそう思って探した時に、どうしても見つからず、他の案件の場所もひっくり返して、見直ししても無かったことがある。念のため母親の片付け場所を探してみたら、そこにちゃんと仕舞ってあった。
その時の損失時間やら、徒労感は思いだしただけでも腹立たしい。母親はあっけらかんと、ああここに仕舞っておいたのね。と笑った。そんな経緯もあり、なるべく早く解決したかった。このまま仕事に行っても、気になってしまい集中力が削がれそうだ。
思い当たるファイルブックを取り出し、ペラペラとめくっていく。なんの書類か分からないものが、幾つもファイリングされていた。
開ける度に整理しなければと、その時は思っても事が片付けば、またいつか時間を作ってからとファイルを戻して、そのまま放置されたままだ。
今日もそうであり、そういった日々の積み重ねが、最終的には急いでるところで大切な時間を奪っていく。ようやくお目当ての証書が見つかりホッとする。
時計を見るといつも家を出る時間より2分過ぎていた。慌ててクリアファイルに入れてテーブルに置いたあと、イヤイヤと首を振る。
母親に声をかけずに置いておけば、見ていないなどと言われて紛失の元だ。部屋まで行って声をかければ、ますます家を出るのが遅れてしまう。取り出したファイルブックにクリアファイルごと戻して、元ある場所に戻し急いで家を出た。
遅れを取り戻すべく、少し早歩きで駅に進む。駅までの所要時間は歩いて8分なので、少し急げば間に合うはずだ。ショウは駆け足をはじめる。
普段なら走って駅に向かう人を見ると、時間管理がなっていないズボラな人に見えるため、自分が急いでいる姿を人目に晒したくはなかったが、今日はそんなことを言ってられない。
急いで家を出ると、そのあとで色々な心配事がアタマをよぎる。冷蔵庫の扉を締め忘れていないか、水を出しっぱなしにしていないか、灯りは全部消したか、コンロの火を消してガスの元栓を閉じたか。
こういう時に限って何ひとつ記憶に残っておらず、思い出すことができない。心配は募っても早まる足は止まらない。きっと大丈夫と、なんの確証もない安心感を植え付けようとする。
家には母親がいる。何か忘れていても対処してくれるはずだ、、 火の消し忘れ以外はと、新たな心配事を作ってしまう。
時計を見る。なんとか電車に間に合いそうだ。それでも歩みは緩めない。少し汗ばむ。朝から下着を汗でぬらしたくはないと少しスピードを落とした。そして目の前が真っ暗になった。
ショウは、あっと声をあげて地面に伏せていた。右ヒザに激痛がはしった。すぐにまわりを見る。幸い誰もいない。側溝のミゾのわずかな段差で躓いていた。
早く立ち上がらなければと急いだ。こんな醜態は急いで駅まで走る以上に、絶対に人に見られたくはない。ましてや誰かに手助けされるなど絶対に嫌だった。
右足では踏ん張れなかった。左足を曲げて両手をヒザにつき何とか立ち上がる。スラックスは破れてはいなかったが血が薄っすら滲んでいた。
恐る恐る右脚を前に出す。やはり力が入らない。仕方なく左足を軸に、右脚を引きずるように前に出す。自分では目立たぬようにしていても、周りから見ればぎこちなく歩いているのが一目瞭然だろう。
あのとき間に合うとスピードを緩めたばかりにと、後悔しても時は戻って来ない。せっかく挽回した時間も吐き出してしまった。もう間に合わない。駅に着いて、いつもは使うことのないエレベーターを待った。
自分のような若者がエレベーターなど使えば、周りに楽をしていると見られるだけで、使うことはこれまではなかった。幸いショウ以外に待っている人はいなかった。
エレベーターに乗り込みホームへのボタンを押した。いつも乗る電車は行ってしまった時間だ。歩くスピードも考慮して、会社に着く時間が10分から15分は遅くなってしまう。会社に着いてからの、しなければならない優先順位を変えなければとアタマを動かす。
ホームに着くと、すぐに次の電車が進入してくるところだった。ツイている。これなら5分ぐらいで何とかなりそうだった。まだ天に見放されたわけではないようだとショウは電車に乗り込む。
座席は全て埋まっていた。いつも乗る電車ならば、座ることができたのに、一本違えば顔ぶれも変わり、座席はすべて埋まっていた。
座りたい気持ちもあるが、ヒザの曲げ伸ばしで痛みが出る。座ったり立ったりに時間がかかりるし、座ってもヒザを曲げられそうになく、足を投げ出していては、満員になったときにまわりの客に迷惑だ。
そう思うと席に座るより、このまま立っていたほうが負担がない。立っていても右脚に力を入れなければ痛みも少ないので支障はなかった。
方向性が決まり、気持ちも落ち着いたところで、視線を感じ思わず目をやってしまった。目の前に座っている人と目が合ってしまった。
すぐに目を切ったが、その人は何か収まりが悪いように見え、ショウはすぐに悟った。席を譲ろうかとしているのだ。声をかけられるのは避けたいが、場所を移動するわけにもいかない。もうすぐ電車は駅へ着こうとしている。
突然その人は立ち上がった。どうぞ。アシ、イタイんですよね? 上ずる声でそう言った。
足を痛めている人に、席を譲らなければならないという道義心だけが、この人を突き動かしているようだった。そのために想像力とか、思考は停止し、このまま受け入れられること以外が発生した時に、対応できなくなっていた。
ショウは空いている右手で目を覆った。そのまま首を振った。言葉で拒否することができなかった。拒否のゼスチャーだと理解されないといけないので、席に戻ることを促すために手を振った。
その人は完全に浮足立っていた。顔が赤らみ、この先の身の振りどころを見失っている。それはショウも同じだった。何も起きて欲しくなく、そっとしておいて欲しい時に限って、思わぬところから横槍が入る。
それが善意から来ていれば、文句は言えない。それを呼び込む弱い自分を晒した代償だ。ふたりは次の駅まで身動きが取れないまま、やり過ごさなければならなくなった。
「スイマセンこんなことになっちゃって」なにか話さなければならないと、ついそんな言葉が出てしまった。
車窓からは線路と垂直に伸びた商店街が見えた。それもいつもなら目にすることのない風景だった。秩序が乱れていた。
何となく嫌な予感はしていた。
傘を手摺に引っ掛けたまま電車を降りようとした人がいる。
急いでいるのか傘のことを忘れているのかと思い、勇気を出して声をかけた。声は上ずっていた。
知らない人が周りにいる中で、知らない人に声をかけるのは初めてだった。カーッとアタマが熱くなっていくのがわかる。慣れないことをするものではない。
その人は降り際に驚いたように振り返った。そして首を振った。それは自分の傘ではないと言っているはずだ。
そして悲しそうな顔をた。それでまたアタマが熱くなった。どうすればいいのかと、少しパニックになりかける。親切心がアダになったようだ。
そんな経験はなんどかあった。それなのに、止めておけばいいのに、言わなかった時の負荷を考えると、つい口に出てしまう。
気づいたことを言わなかったために、相手のその後の不幸を考えると、自分の所為でと考えてしまう性格だった。
でもこれではその人のためではなく、自分のためにお節介をやいているにすぎない。
その人も自分の傘でないならば、無視して降りてしまえばよかったのに、親切心を放って置くことができなかったのか、もしくは傘を置き忘れた間抜けだと、まわりに思われるのが嫌だったのか。
いずれにせよ降りる手前で止まったため、乗り込んでくる大勢の乗車客の波にのまれ、反対側のドアまで押し戻されていった。
何かしてはいけないことをしてしまった申し訳なさだけが残った。自分の間の悪さに情けなさが募る。自分が楽になるために誰かを苦しませてしまった。
何となく嫌な予感はしていた。
シンがこの電車に乗る前からカサがそこに残されていた。シンよりあとに乗ってきた人から見れば、シンがカサを手に持っているのが億劫で、手すりに引っ掛けていると思うだろう。
乗車客の多い駅で降りなければならないシンは、いつもドアの近くの隅、座席の真横に陣取って立っている。
電車での移動をはじめたときに、ご乗車の方から奥に進んでくださいというアナウンスにしたがって素直に奥まで行ってしまった。
電車に乗ろうとすると、やたらと指示を受ける。
やれ、黄色い線の内側を歩け。ホームに入る電車に気をつけろ。駆け込み乗車はするな。必要とする人に座席を譲れ。電車の中は静かにしろ。モノを食べるな。聖人君主になれ、、
そこまでは言われないが、ありとあらゆる人の行動を制限しようとしているようだったる。
どれも社会生活をするうえで当たり前のことで、人に迷惑をかけないようにと、親から厳しく言い聞かされているシンにとっては守って当然の行為だった。
ただ、それを駅から駅のあいだ、際限なく繰り返し聞かされると気持ちが滅入ってくる。
それはそんなにも常識を守らない人がいる裏返しであり、刷り込みのように言い続けられると、却って反発したくなるなるのではないかと心配になる。
それに注意が多いと言うことは、それだけ守らない人が多くいる証であり、そうであれば自分ひとりぐらい守らなくてもいいのではないか、そこに大義名分があればなおさらで、そんな人間心理を増長させると聞いて事がある。
小心者であるシンはそんなことは出来はしない。その時もいいつけ通り、車両の奥で降りる駅を迎えた。そして当然のように降りない人の壁に阻まれて身動きが取れない。これでは声をあげて道を開けてもらうしか降りられない。
アナウンスは乗るときは奥へ行けと言っても、降りる時に奥の降りる方のために道を空けて下さいとは言わない。黄色い線の内側を歩いても、駆け込み乗車をしなくても、、 エトセトラ、エトセトラ、そこは自己責任に転嫁されるようだ。
狭い隙間にカラダをねじ込んで、スイマセン降りますと、アタマを下げながら通ろうとしてみた。
降りるんならこんな奥に居るなよとばかりの冷ややかな視線や、時にはあからさまに今から降りるのかと強い口調で言われた。放送の指示通りにしたのに、、
道半ばでドアは閉じられた。乗車の群集でドア周りは固められていた。強靭なラグビーチームのスクラムを一人で押しのけることはできない。
かくして車両の奥にいたために降りられなかった世間知らずでマヌケ面を大勢のひとに見られた。気まずい空気の中でひと駅やり過ごすことになった。
自分が迷惑をかけた認識もないのに、ことごとく周りからは存在自体を否定されているようで、そのたびに自分の不甲斐なさで気が滅入る。
ここでもまた、人に迷惑をかけないようしていたのに、露骨に邪魔者扱いされ、知らなかった無知と、公共の呼びかけに馬鹿正直に従ったゆえの失態を受け入れることになる。
何か自分は元々そういった負を背負って生きなければならないのか、どれだけ自分としては、まともな行動をとったとしても、まわりからはそのように見られないことが何度もあった。
同じようなことは過去にもあった。このあいだなど、駐輪場を出るときに、取り出した自転車を通路に一旦止めて、サイフの在処を探していた時、どこに入れたのかと、ポケットやらカバンやら、いろんな場所に手を突っ込んでいたら、見知らぬ人にこんなとこに止めるのかと嫌な顔でたしなめられた。
最初は何を文句言われているのか分からなかった。どうやらそれは、奥の空いている場所でなく、出口に近い通路に自転車を止めようとしていると思われたようだ。通路に置かれている自転車は他にも数台あった。
シンは駐輪場から出るところで、探し物をしているだけだと言いたかったが、言葉が出てこなかった。なによりコチラの言い分も聞かず、見た目だけで通路に自転車を止める人間だと思われたことがショックだった。
結局それを即座に否定しきれず、スイマセンとアタマを下げて駐輪場の外に移動した。その人は未だ憤懣やる方ないといった感じで、フンッと鼻息荒く自転車を止めに行った。
我は物言えぬ庶民の代表であり、悪人を退治した英雄気取りだろうか。うがった見方をすれば、あの人は今日こんなことがあったと、家族や知り合いにのたまうのだろう。自分がそこにいなくても、自分が貶められている想像が繰り返される。
次の駅ではさすがに気の毒に思ったのか、まわりが気づかいしてくれて道を作ってくれたおかげで降りることができた。そんな経験を経て、それ以降はドアに近い場所を確保するようになった。
今日は朝方に一時激しく雨が降っていた。今はもう止んでおり、朝日も零れている。早朝の雨の中に出かけたひとが降りる時には止んでいたため、引っ掛けておいた傘の存在を忘れて降りてしまったのだろう。
自分がその立場なら、あっという間に忘れ去るだろうと思われることへの共感で、この状況下では逆に気になって仕方なく、カサのことばかり考えている。
普段からそうであれば、忘れ物などしなくなるはずで、そうであれば、いまのシンのように忘れ物以外の思考がストップしてしまい、それはそれで様々な支障を及ぼすだろう。
そう思えば忘却は理にかなっているのか。手から放たれたモノは、その時点で自分の所有物では無くなってしまうと仮定すれば、そうした忘却が新しい叡智を生み出してきたのかもしれない。
そんな思いにふけっていると、次の駅に到着するアナウンスが流れ出した。
シンはカサを見ないように、さりげなくドア脇から横にズレて行き、降りようと並んでいる人の後ろに付いた。そんな行動は余計に怪しまれそうであっても、カサを凝視しながら場所を移動するよりはマシだろう。
車窓からホームが見えてきた。今日も大勢の乗車客が、エサを待つ野獣のようにして待ち構えている。少なくともシンにはそう見えた。ドアが開いてモタモタしていれば乗車客に丸呑みされてしまう。
最初の頃に、降りたあと立ち並ぶ群集を前に、どこを進もうかとオロオロしていたら、乗る人達のジャマになり舌打ちを食らった。ドアの隅から横手に降りていくお作法を知らなかった。
電車がホームに侵入し、スピードを落とし停車の準備にはいる。カサとの距離も自分の持ち物と思われないぐらい十分とれた。電車が止まりドアが開こうとするとき声をかけられた。
心臓が跳ね上がる「傘、忘れてますよ」。震えた声が届いた。
シンは無視すればいいのに振り向いてしまった。向こう側で座っていた人が心配そうな顔をしてカサを指差していた。同時に大勢がシンの方に目を向ける。見なければ良かったとすぐに後悔する。
その人の身になれば、傘を忘れて電車を降りようとする自分を気遣い、勇気を持って声をかけたのだ。それを無視することはシンには出来なかった。
その一瞬の躊躇が命取りになった。
怒涛の如く乗車客がなだれ込んできて、シンはあっという間に反対のドアまで押し込められた。降りますと声を出すことができない。これまでと同じだった。
今さらそんなことを言い出しても多勢に無勢、どうすることもできない密集の状態の中で、通り道を空けてもらえるとは思えない。シンは約束の時間に間に合わなくなるかもしれないと心が痛んだ。
次の駅は押し込まれた側のドアが開いたので、そのまますんなりと降りられた。カサのことはもう忘れていた。それを指摘してきた人のことも。
急いで反対側のホームに行くために階段を駆け上がった。普段の運動不足も響いて半分ぐらいで息が切れてくる。登り上がった通路の窓から、新旧混在した建物が立ち並ぶ商店街が目に入った。
上から見るその風景は、カラフルな屋根と、古い甍の波が散りばめられたちょっとしたテーマパークのようにも見えた。ひと駅すぎるとこんな場所があったのかと、一瞬だけ気に留めて今度は階段を駆け下りる。
反対方面に向かう電車はまさに出発するところで、大きな警告音と共に、駆け込み乗車はおやめくださいとがなり立てている。
シンは心が怯んだ。自分の利益を優先するために、公序に逆らおうとしている。それでも待っている人のために急がなければならない。
降りた客が階段を上って来る。数人だがその人たちをかき分けて進む。スイマセン、通りますと声を出す。そんなことこれまでしたことがなかった。
ホームに着く。ドアが閉まりかけていた。シンは駆け寄った。ドアの前には駅員がいてシンを止めようとする。シンは制止する駅員をすり抜けて、閉まろうとするドアに手を突っ込んで無理やりこじ開ける、、、
シンは止まっていた。そんなことはどうしたってできなかった。駅員がそれでいいとでも言うように微笑んでいた。シンは愛想笑いして息を整える。目の前を電車が走り出していった。
「あの、、 」そんなシンに声をかける人がいた。振り返るシン。それは自分にカサを忘れていると声をかけた人だった。
続きをどうぞと、ワカスギが小首を下げて促す。マキはワインをひと口含んでから話しはじめた。
「あそこにはね。アップライトのピアノが置いてあったの」。ワカスギの疑問を解消するようにそう言った。
「そうなんですね」。相づちをうつ。
「この商店街、、 今はモールって呼ぶらしいんだけど、ここの中央広場に移設したの」
何度もうなずくワカスギは、自分なりにその言葉を咀嚼していく。そして、当然のようにこの疑問にたどり着く。
「なぜ手放したのですか? あっ、ムリならば答えなくてもいいですよ。ちょっとした好奇心です」
片方の頬を膨らませるマキ。異物が入っているような険しい表情で長考に入る。
その表情は意図せず、ワカスギを甘美な世界に誘っていく。そしてその時間が長いほど、最後に至る言葉を待つこの時間は有効になっていく。
「わたしが弾けなくなったから、、」。そう言って左手をプラプラとさせた。
その原因が左手に不具合があると示しているのか、見た感じでだけでは結論づけるに至らない。
「簡単に言えばそうなるんでしょうけど、そうなった要因は、けして一つ二つではないと、先ほどのアナタの話しを聞けば想像はつきます。イヤなことを思い出させてしまったならスミマセン」
「まあねえ、話しだしたら3部作になっちゃうぐらいだけど、アナタの理論でいくと、こうなると決まっていたってなるのなら、それもすべてムダ話でしかないわね」
「いえ、その工程を否定するつもりはありませんよ」。ワカスギは申し訳無さそうに急いで否定した。
「ばかねえ、冗談よ。でもね、自分でも笑っちゃうけど、こうなることを望んでいた部分もあるし、さっきのタマオみたいに自分から仕向けた部分もある。だから、自業自得なのかもしれない。弾けなくなったのは物理的要因もあるけど、精神的要因の方が大きいかもしれない。それでもわたしに弾かせようとする利権者が、こうしていつまでも追いかけて来る。誰の差し金なの? 、、無理なら、答えなくてもいいけどね」
マキはそう言って微笑んだ。今度はマキが頂点を向かえる番になった。
未来を予知するような言い方をしても、所詮は物理的な原則に当てはめた、因果応報的なことを言っているだけだ。事故とか災害とか大きな話を絡めて、いかにも真理と思わせるレトリックも含めて、それを透かされた恥ずかしさもある。
「申し訳けないですが、それは、、 」
「でしょうね。お酒飲んで、宿探しまでは仕込み通りだろうけど、タクシーがあんなんなのは想定外だったわね」
「いえ、タクシーも仕込みで、ココに来るように段取られていたようです。無理やり飲みに付き合わされて、駅から遠いところに放り出されて、上手いこと宿を紹介するだなんて。挙げ句に財布まですり替えられてて」
「だから動揺してなかったのね。たとえ財布が空でも、あたしがいることがわかったから、成功報酬のアテができたし。ああ、そういう意味なら、わたしがどうにかしてくれるって言うのは間違いじゃないわね。えっ、そうしたらアナタの報酬を使い込んじゃったことになるのかしら?」
「いえ、ぼくはただの会社員ですから給料しか出ませんよ。さしずめアレは必要経費ですかね」
「だったらパーっと使っちゃっても問題ないわね」
マキはそうおどける。ワカスギはどうぞの意味で手を表にする。
「別にぼくがなにか働きをしたわけじゃありません。誰かの敷いたレールに乗っかってココにいるだけです。それにしても驚きです。久しぶりですよね。ココに顔を出すの?」
誰かがゴーサインを出して、ワカスギをここに導いた。ホギかタマキが通じていると考えるのがセオリーだが、それならワカスギが出張る必要がない。
「どうしてそう思うの?」。そう訊いた時点で、それが正解と言っている。
「まあ、いろいろと、、」。こめかみ辺りを指先で掻き、言葉をぼやかすワカスギ。
「良いから言ってみて。それも守秘義務があるの?」。そこまで言われれば気になってしかたない。
「そうですね、最初にぼくのビールを取ってくれたとき、こんなのあるんだって顔で、奥から取り出してました。彼のビールとは違う銘柄でした、、 」
マキはハナをふくらそませた。そんなところまで見ているワカスギの目利きと、迂闊に自分の履歴を披露する不甲斐ない自分の両方が腹立たしかった。
「それだけ? それじゃあ、状況証拠でしかないわね」。精一杯の切り返しだ。
「、、 店主のひとのアナタを見る目がそんな目をしてました。久しぶりに見るアナタの動作、言葉、ロビーの雰囲気。それらを懐かしんでいるようで、嬉しそうでもあり、悲しそうでもありました。それはあるべきものがそこにないからでしょう」
マキは、その一角に目をやった。もうおどおどとする必要はない。今は正視することができた。
「それは結果論でしかないんじゃない? まあ、いいけど。 、、あのピアノが運び出されて、初めて来たの。ホントに無くなっていた。ホギさんには悪いことしたわ。誰かが弾くと思ってたんだけど。心が痛かった。来るんじゃなかったって今は思ってる。えっ、タマオも仕込みじゃないわよね?」
首を振るワカスギ。否定ではなくわからないという意味だ。
「でも、そうするとアイツと出会った時点で、わたしの未来は決まっていたってわけね。アナタ云々じゃなくてね、そうでも考えないと、自分が酷くツイてない人間って気になる。でっ、どうするの。報告しなくて良いの?」
「報告は明日、会社ですることになっています。直ぐにアナタを連れ戻そうというつもりは、ないんじゃないですか。もちろんこれは、ぼくがそう感じただけですけど、、 」
少し乱れかけた髪をかき上げるマキ。これからの面倒事への対処が煩わしくアタマにのしかかる。
「遅かれ、早かれなんだから。そのうえでアナタに訊くけどね、どうしてわたしが、ここで身を隠すようにピアノを続けていたか推察してみて?」
そう言って、マキはワインをついだ。今はそれをツマミに愉しもうという腹だ。
「そうですね、、 さしずめ、あらかじめ用意された舞台で、予定調和を演じることに嫌気が差し、こういった場末の、、 」
言葉にトゲがあるかと心配してマキをうかがうが、ワインを口内で転がし愉しそうにしているのを見て先を続ける。
「 、、自分が目当てでもない不特定多数の客の前で演奏することで、自分の本当の価値を見いだしたかった。偶然性の混沌の中で一体感や、強い熱量を目の当たりにして恍惚を知り、アーティストとしての渇望を満たされるようになった、、 」
マキは、音の立たない安っぽい拍手をした。グラスは空になっている。
「あたらずとも、遠からず、、 んー、でも、カスったぐらいか」と笑った。
「そんな中で、、 」。そう言われたからなのか、ワカスギは続きを語り出した。その際にワインを注ぐのも忘れない。
「 、、物理的なものか、精神的なものか、思うように弾けなくなっている自分と、それでも称賛してくれる周りとのギャップが相容れなくなり、いつしかピアノをお拒絶するように遠ざかっていった。それでもこれまでの経緯を知る者が、挫折からの再起を売りに、もう一度表舞台に立たせようとしている。なにより、その美貌に陶酔しているスポンサーが多く、金の成る木を前に、会社としてはこのまま引退させるわけにはいかない」
頬杖をついてブスッとした表情のマキがボヤく。
「なによ、最後くだりは。自分の所の会社事情のまんまじゃないの。いいの? そんなこと本人に暴露しちゃって」
「ぼくのような下っ端には、そこまでの込み入った話は降りてきませんから。アナタの見解を聞いたうえで、あくまでもぼくの推察です。持ち得た資源の多さゆえに、苦労が多かったと心中ご察しします」
マキは満更でない表情をしていた。遠回りな策略が、マキの気持を和らげていたのは間違いない。
「アナタを送り込んできた理由がわかった気がする。うまいこと懐柔されたのかもしれない」
「なんだいマキちゃん。こんなオトコに懐柔されたって。ボクを差し置いて。ひどいなあ」
いつの間にか裏戸が開いていた。タマキが大袋を下げて帰っていた。決まった未来では無くなりそうだ。マキは声をあげて笑い、ワカスギは声を殺して笑った。
部屋のひとつのドアが開いた。眠たげな女性が目を擦りながら言った。ショートの髪が無造作にはね上がっていた。
「静かにしてくんない? 明日も早いんだから」
「そりゃ、どう言うことだいマキちゃん」首を傾げるタマキ。
マキがアーモンドを一粒、口に放り込む「ココで酒を飲んでいたから、、 」。カリッと音を立てて咀嚼する。
「 、、厄介事に巻き込まれた。そうですね。あなた達の未来も決まっていたんです」
ワカスギが言葉を引き継いだ。蚊帳の外のタマキは面白くなく顔を歪めた。
もう一度マキはサイフを改める。10万はありそうだった。全員分の宿代から、酒代からを払っても半分以上は余裕で手元に残る。
「それで、アナタのね、未来がどうなってるか知らないけど。どうせ決まってる未来なら、楽しく過ごすという選択肢もあるわよね? だってアナタ、想定外の展開にして、既定路線から外そうとしてるんでしょ。ちがうの?」
そう言ってマキはサイフをワカスギの方へ投げた。そして指には3枚の万札が挟まっていた。
「タマオさあ。近くのコンビニでテキトーにツマミとか買ってきてよ。酒はここのを飲めばいいから」
「コンビニの酒のが安くないかい?」。そう言いながらもマキの指から万札を抜き取る。
「セコいこと言わないの。だからアナタはタマオなのよ。まだ結構、在庫が残てるからさ。店の関係者として売上に貢献しなきゃならないでしょ」
どっちがセコいんだと言いたいタマキは言葉を飲み込む。文句あるとばかりにマキがワカスギに目をやる。
コンビニで3万円のツマミとは、どれぐらいになるのかと、けしてセコい話でないく、ワカスギは額に手をやり目を瞑る。タマキはブツクサ言いながら裏口から出ていった。
「アナタ、狙ってたんでしょ。この展開」
タマキが締め損ねた扉が、風の力で閉じられた。ギィーという音を立てて退室を知らせる。無表情のままに答えるワカスギ。
「そうであればアナタは、ぼくが決めた通りの未来にいるわけですね」
ハナから息を抜くマキ「以外とそうやって煽ることもできるんだ」。
「それでもあなたは、ぼくがそうした意図をもって行動していると知っていて、ぼくの仕掛けにノッてきた」
ワカスギの目線はロビーの奥に留まっていた。その一角だけが壁も、床も、まわりより少し小ぎれいに見えた。何か大きな物が、例えば戸棚のような物が置かれていて、それが取り去られた跡のようだった。
「どうだろ? だってアナタ、こんなに現金が入ってるなんて知らずに誘い込んだんでしょ? アナタのサイフと同様に、空っぽだったらどうするつもりだったの?」
目立つ一角ではあり、そこに目がいってしまうのも仕方がないことだ。マキにはそれが気にかかる。
「どうもこうも、その運命のままに従うだけです。どちらかが見かねて、ぼくに援助してくれるとか、、」
マキはワカスギの視線を遮って、カラダをテーブルに預ける。胸のふくらみの揺り返しでドレスが波を打った。
「ないわね。店主に言いつけて、とっとと追い出してもらうから。結果オーライで考えてるなら、少し甘いんじゃないの」
チーズやナッツを摘みはじめるマキ。新しいツマミのアテができて安心したわけではなく、逆に落ち着かなくなっている。ワカスギはそれをさらに突いてマキを刺激する。
「もう、アナタもわかってるんでしょ、、 」
マキはピクっと隆起し、こめかみが引きつった。苛立ちを感じさせる言葉だ。そこになんの信憑性もないはずなのに、それが各処に血を巡らせて行く。
「ぼくには何の力もありません。ただ運命にしたがって、生きているだけです。こうすれば、未来がこうなる。ああしたから、歴史が動いたなんてものは、都合よくそう思いたい人の。そう、まさに独り善がりでしかありません」
マキがタマキをなじった言葉を引用された。血のめぐりが肢体をシビレさせて、粘質部分から粟出してくる。
「誰もが自分が変えたと思い込んでいる世界を信じているだけで、周りからすれば、平常な一日が整然と執り行われているに過ぎません。もちろん、それについて、ぼくはその人たちを否定するつもりはありませんよ。これはぼくの見解で、ぼくの目の前で動き続けている世界について話しているだけですから」
マキは言葉が出なくなっていた。ワカスギにカラダを固められ、弛められ、徐々に力が入らなくなっていく。
すべてが決まっていると断言されれば、虚しさが先に立つ中で、どこか気が楽になる自分がいることも否めなかった。
ワカスギとは住む世界や、見ているモノが違っているだけと思いたかった。そう自分に言い聞かせようとするほど、その術中にハマっていく気がする。
目の前の男が、それを当然とばかりに受け止めて、悠然としていればなおのこと、溢れるほど強く勃興する力を感じてしまう。
マキに目の前を塞がれたワカスギは、今度はカラダを捻り、裏戸を気にしはじめた。マキはそこも気にかけて欲しくない。覆い隠すすべがなく。何度も視感に晒される。
少し前からマキもタマキの戻りが気になっいた。あれから随分と時間が経っていた。
ワカスギはビールを飲み干したようで、手持ち無沙汰に空のカンを回している。おかわりを待っているのかもしれない。
ワカスギは、マキがタマキの戻りが遅いことを切り出すのを待っているようだ。それを言いだせばワカスギの思うつぼだ。そうなると決まっていたのだから。
むしろマキがパシりをさせて、タマキが自由になれる状況を作り出していた。3万円はタマキがそうするのに十分な金額だ。それは同時に自分の価値が3万円であることを認めることになる。
ワカスギはマキの動向を待っているようだ。この状況を変えようとマキは立ち上がり、タマキが残していった空きカンと、ワカスギのそれを引き取り、カウンターへ向かった。
途中でゴミ箱へカンを投げ入れる。フリーザーを開け手を奥に突っ込んでビールを取り出し、ワカスギのもとに戻った。
「あのさ、わたしからもひとつ言わせて貰うけど。持論てヤツを、、 」。そうマキは切り出した。
「何かを成し遂げようとすると、いつだってその前に先ず乗り越えなければならない壁があった。それが何なの知りたかった、、」
マキの本意を見極めようと、ワカスギは上目遣いでマキの目を凝視した。マキも視線を外さない。
「誰にでも起こる事象だと言えばそうだし、誰かに特定された事なのかもしれない。ただ、わたしはこれまで、何度も、本来ならば必要のない壁を、まず越えることからはじめなければならなかったの。それがムダな労力だったのか、それとも、その障壁を乗り越えた者だけが、高みへたどり着けるのか、もしその障壁がなければ、何も手にすることができなかったのか。その答えは明白だと思わない?」
そう言いながらもマキは、どちらに転んだのか明白な表情ではなかった。アタマを持ち上げて空を仰ぐワカスギ。耳たぶを少し引っ張る仕草をする。
「少なからず、アナタの言葉に感化されて、決まっていた未来に巻き込まれるのに付き合ってるんだから、それについて何か腹落ちする言葉があっても良いと思うんだけど」
小首を傾げると幾束かの髪がマキの目を覆った。あたかもそうなることが自然であるように、指先で髪を耳にかけ直した。
「ボクには、アナタが何を手にできて、何をできなかったのか、窺い知ることはできません。ただ、今のアナタを見る限り、、 」
首をひねるマキ。耳をワカスギに向け言葉を逃さないようにする。
「 、、それがアナタに悪い作用を及ぼしているとは見えません」
「そう、、 必然なのね、、 」
ビールの礼というわけではないだろうが、ワカスギは空になったグラスへワインを注いだ。いなくなったタマキの代わりに。そうしてマキに着座を勧める。
「ただ、そうして先人たちが勝ち取ってきた権利なり、行使できる場を、生まれたときから、当たり前のように履行している者たちは、あって当たり前のものとして、なんのありがたみもなく、さらに自分の都合のいいように解釈して、本質から外れて歪んだモノにしてしまうことは残念でなりません」
マキはワイングラスを持ち上げ、乾杯のポーズで賛同を示す。
「ホント。そうやって、無意味な行為をこなしていかなきゃならなかった。本来なら経済的な働きであることも、これまでもこうだったという慣習と、金のことは口にしないという美徳に収められてしまう」
ワカスギも缶ビールを持ち上げマキに応える。
そして目線はあの一角に向けられる。意識的なのか、無意識なのか、どちらにせよその行為はマキを誘っていく。
「アナタがサイフの心配をしないのも、詐欺や犯罪の仮説にノッてこないのも、タマオが戻って来ないことも、それらすべてに関心がない理由がようやくわかったわ」
ワカスギはそう切り出した。唐突なのは承知のうえだ。それでもなぜか、いま言うべきだと決め込んだ。
「ほとんどの事象は、すでに決まっているのに、人は何も知らぬままに明日に希望を持って生きています、、」
身近な人には言いにくいことも、明日会うはずもない行きずりだから言えることがある。
「オイオイ、ニイちゃん。何をおっぱじめるつもりなんだい。ココは哲学を語るような場所じゃないでしょう」
何を言い出しはじめたのかと、タマキが言葉を突っ込んでくる。その表情はマキに同意を得ようとしているのがアリアリだ。
「人生観は語ってもいいんじゃない。酔ったうえでグダグダ言うのと変わんないんだから」
タマキの言葉にはつれないマキが、ワカスギに目配せして先を促した。この若者が絡んでくれば選択肢に広がりができる。それを考慮して誘い込んでいる。
「アナタ。タマキさん。アナタはもう明日の朝どうなっているのか決まっているのに、それがあたかも自分で選択したかのような錯覚を得ている。そしてそれが思い描いた結果でなければ、運のなさを悲観したり、自分以外のせいにして精算しようとする」
タマキはマキを見た。マキは愉快気に笑みを漏らしている。もうマキの未来は、タマキの希望通りでないと示唆している顔に見えた。薄ら笑いを浮かべるタマキ。
「わかったよ。確かにね、ニイちゃんの言うことも一理あるねえ。だが一般論としてはどうだろかな。悲観的観測ばかりじゃく、予想以上の幸運が待ってることだってあるんじゃないかい?」
もう一度、マキを見る。考えごとでもしている表情で、目線は壁面を見渡している。まだだ、ゼロではない。この若造を言い負かすことで事態に変化があるはずだ。そんな望みを捨てきれないタマキであった。
「ムリだと思っていたことが、奇跡的に成功したとか、ダメ元でやってみたら上手くいった、なんてこともあるでしょうに。だから人は明日への希望を持って生きていけるから。そうじゃないかい?」
マキがニヤリと笑った。よし行けるとタマキは続けざまに滑らかに語りだす。
「だいたい人類の進歩なんてものは、偶然の積み重ねで成り立っているんだからさあ。思い通りに行かない事も、後から正解だったなんてこともあるよね。望まなかった前戯も、最後にはあってよかった思えることだってさあ」
なんの例えだと、目線で天を仰ぐマキは、否定の意味でナイナイとクビを振る。そしてタマキはつられるようにクビを傾げる。例えばという意図を含んでワカスギは人差し指を天に差す。タマキはついその先を見てしまう。シミの付いた天井があるだけだ。
「ぼくが言っているのは、悲観とか楽観ではなく、ただ事象だけが面々と続く未来があるだけということです。アナタが言う偶然の積み重ねも、誰の視点からの偶然であるか。それを仕組んだ者にとっては必然でしかないのに。それと同じように、アナタにとって素晴らしく奇跡のような出来事も、誰かにとってはただの日常にしか過ぎず、場合によっては悲観すべき出来事かもしれません。すべては個々人に捉え方に依存するだけです」
声を漏らしそうになったマキは、すんでのところでタマキの一言でとどまれた
「えっ、なんで?」
喜ばしいことが悲しむべきことになる意味がわからない。喜びは万人共通のはずだ。ましてや自分の前戯を喜ばない女性がいると思えない。
「そういう男のひとりよがりが、生産性を阻害してると理解できてない時点でダメね」
独り善がりとは自分だけが良い気持ちになっていることか。それが生産性が落ちる原因と言われた気がするタマキは心外である。若者どころか、これではマキにまでもやり込められてしまう。
こうなればと最初にワカスギの行動を見たときに、気になっていたことをカマをかけて言うしかない。これがハズレればジ・エンドだ。
「だったらさあ、ニイちゃんの明日ももう決まってる訳だねえ。その財布の中身がそれを物語ってるでしょ」
片目を細め、いかにも知っている風に指摘をした。これでワカスギがどう出るかタマキは待つ。マキも無関心であった視線をワカスギに向けた。
ワカスギに動揺はなかった。むしろ遅い指摘と言えた。なぜあのとき店主のホギも言ってこなかったのか、それほどワカスギの行動は余りに不自然だった。
そして思ったほどタマキはニブいわけではなく、このふたりも気づいていたのだ。サイフに金が入っていないのではないかと。ワカスギは後ポケットから財布を取り出してテーブルに置いた。
「このサイフはぼくの物でありません」
眉間にシワが寄る。思惑との違いにタマキが確認をしようと手を伸ばそうとする。しかし、その前にマキが取り去った「じゃあ、誰のなの?」。
首をふるワカスギ。それを見て、マキは勝手にサイフを広げた。数枚の札が入っているのを確認して怪訝な顔をする。横目で見たタマキがヒューと口を鳴らす。
「誰かの物と入れ違ったのでしょう。たとえば、一緒に飲んだ得意先の上役の人の物とか、、」
「直ぐにどうにかしないところをみるとワケ有りね。その財布はいいとして、アナタ。自分の財布が心配じゃないの?」
ワカスギは首をすくめる「どうせ大して入ってませんから。タクシーはポケットにあった千円札で払いましたし、そのヒトの言う通り、実は家に帰るお金も、ココのホテル代もなかったんです。前金と言われ、とにかく時間を作ろうと、、」。
「朝方に逃げ出すつもりだったのかい? なんだいニイチャンの未来が一番悲観的じゃないの」
ワカスギは薄っすらと笑みをこぼす「、、悲観するかどうかは、ぼくの判断次第ですよ」先程も言いましたけどとはあえて言わない。それがタマキには二重に堪え言葉を詰まらせる。
「何時の時点でサイフがすり替わってしまったのか。その時点でもうぼくの未来は決定づけられたんです」
「取り違えたのではなく、すり替えられたと考えるの?」
「ぼくは自分が間違いをしない人間とは思っていません。取り違えた可能性もあるでしょう。もしくは先方が間違えたかもしれません。それと同時に、第三者によって仕組まれたことも否定できません」
「誰かにとっての必然、、」マキの言葉にワカスギは知らぬ顔をして言葉をかぶせる。
「 、、なのかもしれませんね」
ふーんといった表情でマキは面白がっている。ナッツもチーズも必要なく、ワインが進んでいる。これではまたワインが足りなくなりそうだ。
「諦めてるの? なんだかそれじゃあ流され過ぎじゃない?」。マキは方向性を変えてきた。
「そうだねえ。今からだって、どうにでもなるじゃない。どんなことだって取り返すことはできるでしょうに」
ココぞとばかりにマキの否定的な意見に乗っかってくる。タマキはふたりの駆け引きを気づいていない。
誰かにとっての誰かには、当然ワカスギも含んでいるはずだ。まだそこに行くには早い。ワカスギは一度目を閉じてから意を決したように話し出す
「非難を承知で言いますが、ニュースで報道される痛ましい事件。どうしてその場所で起きたのか。何故その人が選ばれたのか。たまたま巻き込まれたというのでは、余りにも悲劇ではないでしょうか? 例えば、楽しみして出かけた家族旅行の先で、暴走したクルマに追突された。親戚一同で集まって楽しい夕べを過ごしていたら災害に巻き込まれた。もちろんその人達のせいではなく、そこで起きることが決まっていて、たまたまそこに居たに過ぎないとしたら。運が悪かったで片付けってしまうのは、ひとがそう思わなければやりきれない、心の自己防衛をするためにバイアスをかけているにすぎません」
ワカスギの言葉に、納得がいかないタマキが尋ねた。
「じゃあ、ニイちゃんのサイフがすげ替えられたのも、その場にニイちゃんがいただけって理屈かい? そりゃ運が悪い以外のなんだってんだか」
「すげ替えられたかどうかはわかりません。ここに別の人のサイフがあり、ぼくのサイフが無くなっているという事実しか、ぼくにはわからないんですから」
意外な顔をしてマキが問いかけた「アナタ、サイフの中、見てないの?」。
一度首を縦に振り「開いてもいません」。とワカスギは言った。
「フーン、そういうこと、、じゃあカードが一枚も入っていないのも知らないんだ」
そこにタマキが食いつく「そんだけ金持ってて、カードなしは解せないねえ。現金主義にも程があるんじゃないの」。
そこでマキはワインを飲み干した。空になったグラスにタマキがワインを注ぐ。口のなかでワインをころがすマキは、何やら思案してから言葉を発した。
「現金には手を付けず、カードを頂いて最大限利用する。で、その財布は知らぬ誰かに押し付ける。そうね、できれば気の弱そうな、お金に不自由している人が好ましいわね」
「で、ニイチャンの出番ってわけかい」。タマキが追随する。
「自分の手持ちより多くリターンがあれば、損したとは思わないし、カードなんかより現金の方が遣いやすいから」
「ああ、その日のうちに遣っちゃうねえ」
「お金を遣ってアシがつけば、その人の犯行にミスリードさせることもできる」
「知能犯の思うツボだねえ」
とたんにふたりの会話が活発化してきた。それはマキがリードを取っている。そういう言葉のやりとりを待っていたのか、ワインの進みもスピードが増し、タマキが健気に給仕する。
「アナタがその場所にいなければ、こんな厄介には巻き込まれなかった。それは同情するけど、それはわたしたちも同様よね?」
自分達も被害者の仲間入りを宣言しても、マキは楽し気であった。
「五千円。前金だ」。宿帳を確認したホギは、ワカスギにそう伝えた。
ワカスギはとにかく一度座りたかった。立ったまま札の枚数を数えると目まいがしそうだった。
件のタクシードライバーは、飛ばすけど良いかと訊いてきたので、ワカスギはホテルは近いのか遠いのか尋ねた。タクシードライバーはニヤリと笑ってすぐそこだと答えた。
すぐ近くなのに急ぐ理由がわからなかった。それなのに、どうぞと言ってしまった。そう言わなければいけない気がしたのだった。ここはタクシードライバーの好きにさせれば良いと。どうせ乗りかかった船ならぬタクシーだ。
そしてワカスギはすぐに後悔した。信号の度に加速、減速が繰り返され、直線で幾台ものクルマを抜き去った。角を曲がる動作も激しく、スピンターンでもするかのような切込みをしてタイヤが鳴った。
角を曲がった立ち上がりでは、道幅一杯に膨らみつつ加速をするので、クルマが前を向いた時にはかなりのスピードがでており、他車がいればすぐさま抜き去っていった。
初乗り区間なのでホンの5分ほどの乗車にも関わらず、これ程のダメージを受けていた。タクシーから降りて平衡感覚が狂っていた。それもすべて自身が望んだ結果だから仕方はない。
ホテルの佇まいに感心して、気になるカップルを目にした。ある程度の情報の整理ができ、宿の目処が立ったところで気持ち悪さがぶり返してきた。
「スイマセン、ちょっと座らせて下さい」
ホギにそう断ってワカスギは手近にあるテーブルから椅子を引いた。
「酔ったか?」。ホギはそう聞いた。
その問いは酒に酔ったと訊いているようにみえなかった。多分に、あのタクシーに運ばれた客が一応に見せる姿なのだ。
ワカスギはどちらともつかない曖昧な首肯を見せるのが精一杯だった。どう見られてもよかった。無理やり飲まされた酒でイヤな酔いかたをして、さらに運転の粗いタクシーに乗ったと、そんな言い訳など意味もなく、すでにこうなると決まっていたことだ。
「いつものことでしょ」ワインの女がそう言った。ワカスギにではなくホギに言ったようだ。
ホギは反応しなかったが、相席の男がちょうどいいハナシのネタだとばかりに食いつく。会話が途切れてしばらく経っていた。
「なんだいマキちゃん、やけに詳しいねえ。もしかしてココは定宿かい?」
「つまんないこと、訊くんもんじゃないわ。タマオはに関係ないでしょ」
言葉は厳しくても、微笑みながら静かな口調でそう言った。だが目は笑っていない。
「関係ないって、冷たいなあ。それにボクの名前はタマオじゃなくって、タマキだってさあ」
顔はニヤけて、優しい口調でマキを正す。こちらも目が笑っていない。
お互いに自分の価値は高め、相手を下げようとする魂胆だ。主導権を握るための駆け引きをしている。
「細かいこと、こだわらないの。あんたタマつい、、 」
ワカスギには仲よさげに話しをしているように見えるふたりを横目にして、イスに腰掛け一息ついた。後のポケットからサイフを抜き出そうと、腰を浮かす動きも億劫なのか、力を入れないと動作が伝わっていかない。何とかポケットから抜き出し、長財布を開こうとする。
この世は奇妙なことがしばしば起こる。自分の認識範囲内であれば、それば現実的な出来事で、そうでなければ奇妙な怪奇現象に振り分けられるだけのことだ。
人が自覚できていることなど、さしてあるわけではなく、多くの怪奇現象を偶然の出来事とひとまとめにしてしまう。最初からそうなると決まっていたのに、そう考えなければ気持ちが収まらないからだ。
ワカスギは取り出したサイフを開くのを止めてポケットに戻しクビを振った。尻の収まり具合が良くない。そう思えばタクシーの中でも違和感があった。もっとも走り出したらそれどころではなかったが。
さて、どうしたものかと思案する。ホギはワカスギの様子を伺いつつ、どう出るのか次の行動を待っている。よくあることだとばかりに平静を保って楽しんでいた。
ワカスギは、今度は前ポケットに手を突っ込み、タクシーや、コンビニでのお釣りだのを握り出してテーブルにひろげる。600円ぐらいはあるようだ。
「スイマセン。ボクにもビールをいただけますか?」。振り向いてホギにそう伝える。
ホギは少しだけ口角をあげた。思ったほどボウヤではないことに感心しながらも、それは表情に出さないように努めている。
「300円だ。 、、前金でな」。ホギはそれだけ言うと、フリーザーから缶ビールを取り出してカウンターに置いた。
良心的な値段で良かったと安堵しながらも、受け取りに行くのは難儀だった。仕方なく背もたれに手を掛けて大仰に立ち上がる。
「よかったらこっちに来て飲みなよ」。マキがそう声をかけた。
そう言ってもらいたくてビールを頼んだ節もあるワカスギは、ただタマキには気を遣う素振りで目線を送ってみた。ホギは笑いを堪えきれずムフッと声をあげた。
その様子を見て、すかさずマキがワインのアテにしていたアーモンドを投げつける。ホギには当たらず、カンカンと音を立てカウンターの奥に転がっていく。ホギは口に手を当てた。
「なんだい、天秤にでもかけられちゃうのかな。ボク?」
ワカスギとしても諍いはゴメンだった。ビールの男には粘着性の気質が見て取れた。300円をカウンターに置いたワカスギは、元に居た椅子に座り直してプルトップを開けた。ひと口飲むと少しアタマが晴れた
「あら、フラれちゃったようだねえ。マキちゃん」。マキの株価が下落したとみて、今度はタマキが強気に出る。
ホギはそれをみて奥の戸を開き中に入って行った。トイレにでも行ったのか。まだワカスギのホテル代は未納のままだ。
「手札も知らないのに、、 勝負はこれからなんじゃない」
勝負とはマキがどちらを堕とすのかを指しているのだろう。意に反して戦いの場に上げられていることに、些かの不安と好奇心が同居していた。
ビールを飲みきっていたタマキは首をすくめた。次の酒に代えたいところで、ホギにオーダーするタイミングを逸してしまった。
マキも手持無沙汰にワイングラスの底を指先で押さえて、テーブルの上でクルクルと回していた。残りで持たせるか、空けて部屋に戻るか考えあぐねている。
皿の上のナッツやら、チーズのアソートは、まだいくつか残っているので、できればもう一杯飲みたいところだった。
「飲み足りないんでしょ?」マキはそう言って席を立つ「ビールでいいよね? タマオ」
他の酒にしたっかたはずのタマキは、ビールも、名前のことも否定せずに、トロンとした目でうなずきながら、マキの動きを目線で追っていた。
黒いロングのタイトスカートが歩く度に脚にまとわりついて、深く切り込んだスリットから、その度に透明感のある肌が現れる。
桃の底部のように膨らんだ臀部は歩く度に右へ左へ揺れ動いた。本人はそれを意識して行っているわけでなく至って自然体だった。それなのに男たちの創造量は勝手に盛りあがっていく。
マキの肢体が醸し出す歪みと復元。単なる肉体の伸縮が神々しく目に映り、タマキは満足そうな表情を浮かべ、ワカスギも目が離せなくなっている。
マキはホギが不在のまま、カウンターの中に勝手に入って行くとフリーザーを開け、缶ビールと赤ワインのボトルを取り出した。
「アナタももっと飲む?」。小首をかしげて問いかけるマキに、ワカスギは無言で首を横に振った。
「あら、お金なら心配いらないわよ」。と、当然のように言う。
カウンターで頬杖を付き、前かがみの体勢でワカスギに選択を迫ってくる。大きく割れた胸元に極細のプラチナが光り、丸みを帯びた胸部に張りついていた。
ワカスギは生唾を飲み込むのをガマンして、先程ホギが入った戸へ目をやった。
「大丈夫よ。もう戻って来ないから」。どうやらそこはトイレではなく自部屋だった。
「でも、ぼく宿代払ってませんよ。前金だって、、」
「だから大丈夫だって、、 」。マキはワカスギのテーブルまでくると、ワインボトルを支えに体重をあずけた。
反動で胸が眼の前で揺れた。さっきから気になっていたが、やはりノーブラのようだ。
「 、、わたしもこのホテルの関係者だから」今度はタマキがブーッと息を吐いた。ビールが空で良かった。
「オイオイ、なんだよ、そういうことかい。とんだ食わせモンかな? さんざんメシとか奢らされて、ホテルに誘って、やけにショボいホテルだと思ったら。 、、そう言うことかい」
タマキはこれまでと同じ調子で静かに文句を並べた。その言動から怒りの深度は見えてこない。それだけに不気味さがある。そしてロビーの雰囲気が悪化しているのは間違いない。
ホギが事前に察知して身を隠したのはこのためで、マキが連れて来た客と揉めることも織り込み済みなのかもしれない。
このようなことをハニートラップと言っていいのか。タクシーの運転手といい、こういった客引きをしてまで宿泊を埋めさせる理由があるのか。ワカスギはそちらに興味を惹かれていった。
「安く見ないでくれる? すぐにそういうコトと直結させるって、思考が偏ってるって自白してるようなものよ」
そう言ってマキはビールをタマキに放り投げた。綺麗な放物線を描いて、それはタマキの手に落ちた。
受け取ったタマキは憮然としてプルトップを開ける。プシュいう破裂音とともに泡が溢れてくる。それはそうだろう。ワカスギは予想通りの展開に呆れて目を瞬かせる。すかさず口をつけるが口に両端から多くの泡が滴っていく。
「ガマンできないからそうなるんでしょ。半分は出ちゃったんじゃない?」
タマキは、しかめっ面で、手を振って泡を飛ばしている。
マキは、ふたりのあいだのテーブルの椅子腰をおろし、タマキのいるテーブルから、グラスとアソートを引き寄せた。大きなグラスの底辺に少量のワインを注ぎ、指先で底を押さえてデキャンタする。
「キビシイねえ、最後の一線ありきで御婦人との時間を消費するか、その時々を有益なものとして過ごすかってことだよね。でもさあ、それがなくなったら人類は滅びるね」
ワカスギは、それで決心がついた。自分が今日ここに来た理由がわかった。全部決まっていたことだと納得する。
「あの、ぼく思うんですけど、、 」。ワカスギがそう言いはじめた。
扉が床と擦れる音とともに開いた。
勘に障るほどでもなく、とはいえ気づかないわけでもなく、適度な擦れ音が客の来店を知らせている。
入っていいのか戸惑いながら、恐る恐る半身を入れた状態で、若い男がホテルの内部を伺っている。
カウンターの前のアンティークチェアに深く座り、新聞を読んでいるのが店主のホギだ。新聞の端から中に入ってきた若者に視線を向ける。そしてまた新聞に目を落とす。かと言って文字を読んではいない。
造形物のようにそうしているだけで「いらっしゃいませ」という常套句を口にしないのも、新しい客が入店をためらっている要因なのだろう。
その客が前かがみになって、気分が悪そうに足もともおぼつかないでいるのは、単に酒に酔っているだけでもない。ホギはそんな客を何人も見てきており、取り立ててめずらしいくもない様子で察しをつける。
入店した男、ワカスギはカウンターの奥に目をやる。ボードに掛けられた鍵がひとつしか残ってないのは、四室しかない部屋のひとつに空きがあることを意味している。
空きがあり安堵しながらも、同時にここで満室だった場合どうするつもりだったのか。送迎してきたタクシーのドライバーの言葉を信用して、言われるがままついてきたまではよかったが、ひとりホテルに入ったとたんに心細くなっていた。
ラジオか、有線から静かな音楽が流れていた。クラシックハリウッドの映画音楽に聴こえる。そこは現世離れしていた世界観があった。そしてそれはワカスギ好みにあっていた。
その音楽はこの宿の雰囲気にマッチしており、薄っすらと靄に包まれたロビーも、西部開拓時代の安宿を映画のスクリーンから切り取った面持ちで、それが実際にそうなのか、自分の眼が霞んでいるのか定かではない。
映画のロケ地に使われても、おかしくないほどの存在感と、重厚な雰囲気がそこにあった。自分が映像関係の仕事をしていたら必ずリストに上げるはずだ。
人気映画のシーンで使われて人気のスポットにでもなれば、誰もが同じ体験を味わいたいと、あっというまに予約の取れないホテルになるだろう。
だったらまず、あの会社のプロモーターに連絡して、ワカスギは仕事の取引先関係の伝手を追っていこうとしてイヤイヤと首を振る。そういうことは今夜の一夜を無事に乗り越えてから考えればいいことだ。
ここに来た理由はただひとつ。終電に乗り遅れて、流しのタクシーに引っかかり、遠方の住家に帰るタクシー代より安く泊まれるからと紹介されたからだ。
確かに家まで帰れば1万5千円は下らないだろう。それが初乗り料金と、ホテル代の5千円で済めば社会人2年目で薄給の身には随分と助かる。街のビジネスホテルより格安だ。
素泊まりで食事は出なくても、朝食は出てからどこかで食べれば良いし、そのほうが時間を気にすることなく、好きなモノを食べれて好都合だ。
今夜は楽しくもない接待に同行し、好きでもない料理を食べて、先方の都合でこんな時間まで飲み歩くことになり、上司にも放っぽりだされ、どうやって帰ろうか途方に暮れていたところだった。
年代物の外国車がスーッと寄ってきて、何かと思えば5千円のホテルを紹介すると、控えめに下げたサイドウィンドウから声をかけられた。
いかにもといった胡散臭さがあった。クルマを見ても正規のタクシーでないのは明らかだ。それなのに自動ドアでもない後部ドアを、自分で開いて乗り込んでいた。
ドライバーが密かに漏らす笑みに吸い込まれていくように、、
受付のカウンターと、待合室兼ロビーが手狭な空間に配置されている。ロビーにはカップルが一組いた。ふたりは小さなテーブル席に座り、黙して酒を飲んでいた。
男はエールビールを、女はボトルの赤ワインを飲んでいる。自分でボトルを手にしグラスを満たす。男のわきには数本のカラになった空き缶がころがっていた。
友好的な関係には見えない。なにかを探り合っている間柄なのか、それとも関係を清算する段階に来ているのか。
彼らがどの部屋を埋めている客なのか、成り行き次第では1部屋に収まるかもしれないし、2部屋に分かれているのかもしれない。もしくは1部屋から2部屋の空きができことも考えられる。
入店してきた客のワカスギは、仕事の癖もあり様々な邪推してしまう。ついついまわりの人間を観察し、推測の範囲を広げはじめてしまう。
好ましいことでなく、自分でもイヤな性分だとわかっていても、ついつい思考が先立っていく。それが仕事に活かされるので身にはなっている。
それになにか不思議なもので、今は気分が悪いにもかかわらず、なぜかいつもより感度が高く、膨大な情報量が流入してくる。だからタクシーにも乗ってしまった経緯もあった。
そういったことは年に何度かあった。どういうタイミングでなるのか自分でもわかっていない。それがコントロールできればいいのにと何度も悔やんでいた。
ワカスギは店の雰囲気に気圧されながらもおずおずと店内へ、そして店主の元へ進んで行き、カウンターに手を付いた。そうしないとカラダを起こしていられなかった。できれば腰を下ろしたかった。
適当なスツールがあるはずもない。ホギは静かに顔を上げた。
テーブルの女はチラリとそちらに目をやり、少し微笑んでワイングラスを口にした。濃い色の口紅が飲み口に付き、それを親指でスッと拭き取る。手慣れた動作だった。
相席の男はそれを体の良いツマミとして、助平な顔で見てビールをひと飲みした。それでふたりの今の現状が見て取れた。そして画的にいいアングルだ。
関心はあるもののふたりにばかり集中しているわけにはいかない。ワカスギは一向に接客しようとしないホギに向かって話しかける。
「あのー、タクシーの運転手に勧められて、、 アカダさんと言う、、 」
言葉半ばでホギは立ち上がり、カウンターにまわりワカスギに対面する。
「コレを渡せって、、 」そう言ってワカスギは運転手から貰った名刺をホギに差し出した。
これを出せばなにか割引が利くとか、サービスがあるとか、何かを期待していた。それであるのにホギは、それをひったくるように手にして、すぐに握りつぶして捨ててしまった。ワカスギはガッカリする表情を読み取られないように堪えた。
ホギは何もなかったかのように宿泊帳を指先で押し出した。ワカスギはカウンターの上に荷物と外套を置き、従順に宿泊帳にペンを走らせはじめた。もうここに泊まるしかないのだ。
最初に入った時の不安な気持ちは消えていた。ワカスギが書いているあいだにホギはカウンターから出て、裏扉を開き外に行ってしまった。ワカスギが入ってきた扉は裏口だった。
ホテルの裏口はモールの通りと反対側にある。10時になればモールの通りは閉鎖されるので、それ以降の人の行き来はモールの外に面しているこの裏口からになる。そんな店があと数件はあった。
横付けしているタクシーのドアをノックする。サイドウィンドウが控えめに5センチほど下がり、手が伸びてきた。
ホギはポケットから取り出したクシャクシャになった千円札を2枚その手に渡す。
「5千円の客の2千円取られたら赤字だ」毎回同じセリフを言うホギに、アカダも同じ言葉を返す「ゼロより3千円のほうがいいだろ」そう言うとすぐに手を引っ込めウィンドウを上げる。
インセンティブをいただけば長居は無用とばかりに、60年式のローバー製のタクシーは、子気味良いシフトチェンジを繰り返し、その場を後にした。
静かになった通りで、ホギの耳にアメリカンロックを奏でるピアノの音が、かすかに遠く聴こえた。
無事一泊すればタクシードライバーに謝礼が入ることになっている。この雰囲気に圧されて尻込みして帰ってしまう客も中にはいた。
アカダに謝礼を払うのは気に入らなくとも、こうして定期的に客を運んでくれており、助かっているのも事実だった。
今日はこれで満室となり、ホギひとりで経営している手前、深夜の対応はしないので営業終了になる。表玄関はすでにクローズの看板がかかっていた。
ろくに掃除もしない部屋に素泊まりさせて3千円ならほぼ丸儲けだった。先ほどのテーブルの男女は別々の客で、ひと部屋づつの支払いだった。もっとも女の方はわけありで満額の支払いではない。
ただ、これからの流れによっては、使う部屋はひとつになる可能性もある。そしてそれはこれまでの経験上、高い確率でそうなる。部屋のかたずけがひとつで済んで2部屋分の上がりが入いればホギも都合がいい。
扉を閉じてカウンターの定位置に戻る。ワカスギは宿泊帳とホギを交互に見て落ち着かない様子がありありだ。初めて来た客は常にこんな感じだった。
かといってそんな客がリピーターになるわけでなく、どこからか漂ってきた宿無しが一夜の泊り先を求めてやって来るぐらいだ。
サービス精神もなく、儲けにも関心がないホギがこのホテルをいまも続ける理由は別にあった。開店当初のことをがアタマによぎる。
それは懐かしさもあり、時の流れの儚さもあり、現状の虚しさも同時に去来して、鼻の奥にツンとした油の染み込んだ木の匂いが蘇り、何とも言えない気分になる。
会計を終えた老婆は、そちらに目を配ることもなく、ようやく精算できた荷物を持って出口に向かいだした。エコバック2袋分だ。店員はたどたどしいニホン語で「ありあとごらいまひたあ」と言って見送る。
あれだけ迷惑をかけておいて、老婆は店員にも、フードの女性にも、お礼の言葉ひとつ述べず老婆は去っていった。それが当然のことだという認識なのか、別に迷惑をかけている認識がないのか。
当のふたりも、そんなことは気にしていないようで、フードの女性と店員は顔見知りといった然で、何やら一言、二言会話をすると、店員は肩を上げて、おどけた風で困った顔をして見せた。
彼女達の様子を見ていると、よくある日常のひとコマであるように見え、対照的にその後ろに座り込んでいる男は、レジ前のフロアで大きなカタマリと化している。茫然として目がうつろのままで違和感しかない。
誰も座り込んでいる男には、声をかけようとしないし、かけられない。すると何人かが手にしていた端末で、その男を撮影しようとした。すかさず振り向いた女性は、フードの奥から冷徹な眼を光らせる。
何かを言ったわけでもないのに、誰もがかざしていた端末を下ろして、その目を見ないようにした。彼女の先程の行動、物言わせぬ眼光に、誰もが圧倒されていた。
会計を終えた彼女は膝を折って、へたり込んでいる男の耳元に口元を近づける。何か言葉をかけているのだろうがまわりには聞こえない。
何事か言い終えた彼女は立ち上がって店から出ていった。ドアの開閉時に流れるメロディがこれほど不似合いに聴こえるのもめずらしい。そんな殺伐とした店内が残されていた。
なんだか出来すぎた一幕であり、テレビカメラがどこからか出てきて、番組の企画であることをネタバラしするのではないかと言う声も聞こえた。そんな笑いでこの場を取り成しすことを望んでいるのだ。
男はユラユラと、魂が抜けたようにユラユラと立ち上がり、何も買わずに店を出て行った。その手には何も持っておらず、レジ横商品か、タバコでも買うつもりだったのか。
後ろ姿の男は、グレーのスウェットの股間にシミが見えた。それで座り込んでいた床に目を移すと、薄っすらと水が滲んでいた。それは水ではなく失禁の痕だった。
彼女のシャドウで肝を冷やし、そんな事態になっていれば、恥ずかしくて反撃するどころか立ち上がりもできない。さっきの耳打ちはそれを言い含められたのだろう。これでは捨て台詞も吐けず、そそくさと退散するしかない。二度とこのコンビニでお目にかかることはないはずだ。
レジの店員が商品を補充していた店員に共通言語で声をかけた。コミュニケーションが取れるなら、どうして混雑しているときに声をかけなかったのかと誰もが思ったはずだ。
呼ばれた店員は、言葉ではなく、何故そうするのか理由がわからないらしく、何度も訊きなおしている。バーコードリーダーで商品をスキャンしながら、時折その店員の方に目をやって急がせているレジの店員の声が段々と荒っぽく、大きくなっていく。彼は彼女をなだめるような口ぶりで、指示にしたがう返事をしたようだ。
一旦、バックヤードに入った店員はモップを手に戻ってきた。レジの店員は、腰に手を当てて、男の店員にひととおり言葉を浴びせたあと濡れた床を指さした。
男の店員は大げさに両手をうえに上げ、なにやら言い返している。どうしてこんなところが突然濡れているのかを問いただしているのだ。自分がそうでも訊いただろう。ただその答えは聞かないほうがいいとユウヘイは気の毒がった。
男の店員は、今頃になって店内の異変を察したようで、レジの店員とやり取りをかわす。なんてことだとばかりに片手を上げるが顔は笑っていた。レジの店員もこの時ばかりは薄ら笑いをした。なにか気の利いたことでも言ったのだろう。
彼らの共通言語が理解できず列に並ぶしかできない人々は、なにがおかしかったのか全くわからない。おかしなもので人数はコチラの方が多く、この国の原住人であるのに、なにか疎外感がありバカにされているような気持になる。
言語が通じないのは、なにか暗号でやり取りしているのと同じで、解読できない文章は人々に不安をあたえるし、それが元で諍いが起きる。
同じ言語でも意味が通じ合わなかったり、通じても対応しなければ同じことで、先ほどの老婆とのトラブルを見ていれば争いの火種はどこにでもある。
レジの店員は再び無表情になり、レジ打ちを続けながらアゴ先で隣のレジを差す。カウンターを開いて男もレジ打ちに参加した。
その後の店内は、先程の騒ぎなどなかったかのように、いつもの風景に戻っていった。列は順調に流れていく。先程の騒ぎを知らない新しい客も入ってきた。彼らには日常の光景でしかない。
新鮮な空気が入って来なかったから、列が滞っていたのではないかとさえ思える。それほど先程までの店内は息が詰るほどの圧迫感の中にいた。彼女がそれらをすべて解き放っていった。流れが止まって血が濁っていた動脈が、再び滞りなく流れ出したのだ。
それと同期するようにユウヘイは、じわりじわりと血が沸き立っているのを抑えられなかった。楽しみにしていたボクシング中継が、自分でも不思議なくらい、どうにでもよくなっていた。
目の前でおこなわれたノーヒット・ノックアウト劇は、それほど印象的で圧巻だった。当たってもいないことがそれをさらに増幅させていた。では当たったらどうなるのか。その想像を掻き立てられた。そして、それ以上の興奮をテレビから得られるとは思えなかった。
今にして思えば列に留まっていてよかったと、自分の判断を珍しく評価した。プロテインバーの男に見習って、離脱していれば、あの場に立ち会えなかったのだ。
あのまま家に帰っていれば、ビールを飲めなかったことを悔やみながらも、テレビ中継で疑似体験から得られる脳内分泌物に興奮感情を操作されて、気分の高揚の中にあったはずだ。
それとともに楽しみが終わってしまったことへの虚しさも同居する。それは過去の悦楽体験の追随であり、経験のうえで得た精神浄化を呼び覚ますための儀式でしかなかった。過去の事例の繰り返しの域を超えることはない。
彼女が何者なのか知りたかった。店員とも顔見知りのようだった。この近くに住んでいる常連の客であるはずだ。ユウヘイも仕事帰りによくこのコンビニを利用していても、これまでは時間帯が合わなかったのだろう。
どこかのボクシングジムに所属しているのか、それともボクサー崩れか、単なる喧嘩で鳴らしてきたツワモノか。
ユウヘイは、自分の目利きを確かめたかった。女子のボクシングはこれまでは観たこともなく、所詮パワーもスピードも男は比較にならないと見ていた。
それなのに、間近で見た名も知れぬ彼女の得も知れぬ能力はどうだ。こうして自分の心を鷲掴みにしている。男より強いとか、男に比べてどうだという比較論ではなく、ユウヘイの中では、彼女という存在自体が重要になっていた。
ユウヘイもようやくビールを買うことができ、会計を済まし店を出た。店を出てみたら少し気持ちが落ち着いてきた。熱狂の渦の中で少し気持ちが昂ぶり過ぎていたようだ。
冷静に考えればおかしな事ばかりだった。別世界にでも引き込まれていたような錯覚に陥りそうだ。
最初は誰もがお年寄りに迷惑してれいた。レジ打ちにも、もうひとりの店員にも不満があった。店のオペレーションにも問題がある。
どうしても嫌なら列に並ばず買わないという選択もできる。多くの損得勘定の中で、自分の選択肢を正当化するために、誰かの不備を詰ったり、とにかく人のせいにしていた。
そこで人々の不満を代表するかのように立ち上がった者が、そのやり方のマズさもあり、周囲の同意を得られずにスケープゴートとされた。
あのとき列の誰もが事態が収束するとは思うどころか、余計に拗れると悲観した。男が手を出したためにそれが決定的になるはずだった。
それが一瞬にして事態は解決してしまった。やり方はどうであれ、彼女の一撃ですべては無しになっていた。それが皆が畏敬を持って彼女を見送った要因なのだ。
決して正しい行いではなかったはずなのに。混迷化しようとしていた事態を収めただけで、その価値は高められ、暴力は無しになった。
その激情に飲み込まれたのはユウヘイも同じだった。物事の真偽は正論ではかたれない。悪貨は良貨を駆逐することもあれば、異物が悪巣を浄化することもあるらしい。行いの良し悪しを超えた異景を目にしたとき、人はこうも従順になってしまうのか。
何時だってそんな机上の理論をぶち壊して行くのは、凡人が妄想してひとり悦に浸ることを、実際にやってのける常人離れした行動だけなのだ。
夜風にも当たり、さらに気持ちが整理されていくと、ひとつの疑念が深まっていく。当たってないとしても、あの状況は彼女に取って不利なのではないかという心配だ。
画像の撮影は止めさせたが、削除したかはわからない。コンビニなので防犯カメラの画像もある。誰かが面白がって投稿し、拡散されて話題になったりすれば、防犯カメラを確認することに発展して、あの男の出方次第で過剰防衛として訴えられることも否めない。
そこで彼女がプロのボクサーであれば深刻な状態になる。そうでなくても今の時代は、たったひとつの汚点で、それがいくら過去のことであっても、責任は、いま取らなければならず、それが元で表舞台から降ろされることもある。
なぜかしら負のイメージが進んで行く。自分が見つけた原石が、こんなことで消し去られるのではないかという、期待値の損失を怖れている。まだ何者でもない彼女にここまで肩入れしてしまうことに苦笑いして肩の力を抜いた。
専門性の高い人間が、自説を説いていくうちに、暴走してしまい着地点から離れてしまうこともある。彼女が巻き起こしていった劇場に飲み込まれているのだ。
そうしてユウヘイは、ビールを家まで持ち帰ることはせず、プルトップを開け、ビールを煽るとブラリとモールの通りを進んで行った。
一台の古い外国車がユウヘイの横を駆け抜けていった。普段なら舌打ちをするか、悪態をついていたところだ。ユウヘイは何か自分の存在意義を見つけた気になり、いつしか足取りも軽くなっていった。