~ 夢の途中 ~

強い?弱い?上手い?下手?そんなの関係ない!
全員が全力疾走!そんな『何か』を感じさせてくれるチームを応援します!

「克服」

2010年10月06日 | 青木ブルーファイターズ
昨日は苦手の『さうすぽ』対策

21歳の速球派『さうすぽ』相手にバッティング練習。


最初はあまりの球速についていけず空振りばっかの【蒼き闘士達】

しかし、スピードについて行き出した3順目ぐらいから序々にいい当たりが・・・・・・

そーーです。そなんです。球速に恐れずに、しっかり踏込んでスイング出来れば恐れる事はない



あとは『さうすぽ』独特の角度にさえ慣れれば

必ず打ち崩せる




続いての『さうすぽ』対策その2・・・・・・盗塁

これは流石に難しかったようです

やはり『さうすぽ』の顔におもしろいように、だまされるだまされる。


この場合の盗塁は“覚悟を決める”こと

“覚悟”を決めれば実行する。  “覚悟”を決めれば大抵の事は乗り越えられる。

牽制でOUTも二塁でOUTも一緒ぐらいに思って勝負することが大事です。


あとは“継続”あるのみ



久々の【格言】

マンネリで大いに結構。ほかの人はマンネリまでいかないじゃないですか ~ 志村けん


ドリフから始まり、ネタであるバカ殿、変なおじさんについてのアンチ的な意見「マンネリ」について語った芸人としての言葉。
この言葉のあとが深い。

「マンネリ」は全然恥ずかしいことじゃない。

やってる方の気持ちが新しければ、笑いに古いも新しいもない。

ドリフも、僕のバカ殿も変なおじさんも、必死でネタ作ってとことん何年もやり続けてきて継続してきたわけだから。

みんなマンネリの域まで行かずに挫折して終わってる。

そんな芸人は敵じゃない



日々の練習に自信が持てる言葉です。

【蒼き闘士達】の目標も達成できるかどうか分かりません。

だけど『姑息な無駄は無駄で終わるが、壮大な無駄は財産となる』


これからもステキな財産をいっぱい作って活きましょう

「懇願」

2010年10月04日 | 日記
あたしの母が作る弁当は病気でからだが少し弱いからか、

不器用だからかわからないが、いつもお世辞でも上手と
いえないような弁当だった。

あたしは友達に見られるのが恥ずかしくて毎日ゴミ箱に捨て、
食堂で食べていた。




ある朝母が「今日は麻衣の好きなえびをいれとったけんね」と
いってきた。
 
あたしは聞く耳を持たず母を無視して弁当を持ち家をでた。


学校で弁当を開いてみるとそれはひどくへたくそなものだった。

殻も途切れ途切れにしかむけていないほどだった。


あたしはまたゴミ箱に捨て食堂で昼食を食べた。


帰宅すると母が「今日のお弁当どうだった?」
としつこく聞いてくるので

「あげな弁当捨てた!!

恥ずかしいけん今度から弁当つくらんでよか!!」
と強く言い放つと

「気付かんでごめんね」と涙ぐみながら呟いていた

それを機会に母は弁当を作らなくなった。




その半年後母は死んだ。

前から病気だったらしい。

母の部屋の遺品を片付けていると、1つ日記帳が
奥のほうからでてきた。 見てみると 


「きょうは卵焼きをいれた。 手が震えてうまく焼けんかった」や


「今日はおにぎりを作った
あまりうまく三角にできんかった」
など弁当のことばかり書いてあった。

そして・・・・・「今日は麻衣の好きな海老をいれた。

手が震えてあまり殻が上手くむけんかったけど、

喜んでくれるかな?」

と書いてあり、その日から日記は途絶えていた。
 


なんで食べてあげらなかったんだろう?

「お母さん、不自由なからだで一杯の愛情をありがとう

今は私がお母さんの仏壇に毎日お弁当を作ってます。

お母さん喜んでくれてるかな?」




※ この作品は、今月ピンチなんで 「お弁当を作って下さいというアピールです。

是非とも御検討の程、宜しく御願いします。」


「敗北」

2010年10月03日 | 日記

ある郵便ポストに差出人、宛先不明で切手も貼ってない手紙が投函されていた。
宛名は「てんごくのおとうさんへ」と書いてある。
どう見ても小学生、それも低学年の文字だった。
同僚みんなで集まり、差出人に返してあげようと内容を確認しようと開封した。
そこには平仮名だけでこう書いてあった。

「てんごくのおとうさんえ」
2の1 ひらした えりか

これからはおかあさんのおてつだいもちゃんとします。
いうこともちゃんとききます。
しごとでつかれてるおかあさんのかたももみます。
にちようとかやすみのひもあそびにつれてってといいません。
だからおねがいします。
わたしにランドセルとせいふくをかってください。(原文)

そう書いてありました。この手紙を見た郵便局員はいてもたっても
いられなくなりました。

それから投函されていたポストの近所の方に聞いて回り
差出人の女の子を捜し当てました。

近所の方の話では、以前小さな工場を経営されていたそうですが、
お父さんが病気で亡くなり工場を閉め、母一人・子一人での生活で
母親のパートで工場の借金を返しながら生活されているとの事でした。
この話を聞いた局員は誰からともなく立ち上がり
自然発生的にカンパを集め始めました。

そして女の子に手紙を書きました。

「えりかへ」
お父さんランドセルの事忘れててごめんね。
今日はすっごくかわいいランドセルとせいふくをえりかに送るね。
たんじょう日にもプレゼントを送るから、また手紙書いてね。
それからお母さんともなかよくしてね。

手紙と一緒にランドセルと制服を送り届けました。

その子は泣きながら笑って、いつまでも手を振って局員を見送ってくれました。


もうすぐ彼女の誕生日、局員達はプレゼントは何にしよう?
楽しそうな笑顔で考えてました・・・・・・・・・


う~~~ん。  あったかいですね。 人の優しさ、無限大です。

※ 本日、スプリンターズステークス(中山)に於いて『キンシャサノキセキ』敗北

ざけんなよ四位てんめーあそこまで外回りやがって



ヤバイ・・・・・     今月ピンチ確定。。。


「継続」

2010年10月01日 | 日記
感動しました。

これからも、すべての人に感謝して活きましょう。



私の父は、高校の時野球部の投手として甲子園を目指したそうですが、「地区大会の決勝で9回に逆転されあと一歩のところで甲子園に出ることができなかった」

と、小さい頃良く聞かされていました。
そんな父の影響もあってか、私は小さい頃から野球が大好きで、野球ばかりやっていました。
父も良くキャッチボールをしてくれました。

そして私は、小学2年から本格的に野球を始め、高校に入った私は迷わず野球部に入部しました。
ところが、高校入学と時を同じくして、父が病に倒れてしまいました。
その後入退院を繰り返し、高校1年の冬からはずっと病院に入院したきりになってしまいました。
父の体がどんどん細くなっていくのを見るにつれ、なんとなく重大な病気なのかなとは感じました。
父は、病床で私の野球部での活動内容を聞くのを一番楽しみにしてくれていました。

そんな高校2年の秋、私はついに新チームのエースに任命されました。
それを父に報告すると、一言「お前、明日家から俺のグローブ持って来い!」と言われました。

翌日病院にグローブを持っていくと、父はよろよろの体を起こし、私と母を連れて近くの公園の野球場に行くと言いました。
公園に着くと父は、ホームベースに捕手として座り、私にマウンドから投げるように要求しました。
父とのキャッチボールは、小学校以来でした。

しかも、マウンドから座った父に向かって投げたことはありませんでした。
病気でやせ細った父を思い、私は手加減してゆるいボールを3球投げました。

すると父は、怒って怒鳴り、立ち上がりました。

「お前は、そんな球でエースになれたのか!?お前の力はそんなものか?」と。

私はその言葉を聞き、元野球部の父の力を信じ、全力で投球することにしました。
父は、細い腕でボールを受けてくれました。
父の野球の動体視力は、全く衰えていませんでした。
ショートバウンドになった球は、本当の捕手のように、ノンプロテクターの体全体で受け止めてくれました。

30球程の投球練習の後、父は一言吐き捨てるように言いました。「球の回転が悪く、球威もまだまだだな。もう少し努力せんと、甲子園なんか夢のまた夢だぞ」と。

その数週間後、父はもう寝たきりになっていました。
さらに数週間後、父の意識は無くなりました。
そしてある秋の日、父は亡くなりました。病名は父の死後母から告げられました。
『ガン』でした。

病院を引き払うとき、ベッドの下から一冊のノートを見つけました。
父の日記でした。あるページには、こう書かれていました。

「9月11日  今日、高校に入って初めて弘の球を受けた。弘が産まれた時から、私はこの日を楽しみにしていた。
びっくりした。すごい球だった。自分の高校時代の球よりはるかに速かった。
弘は甲子園に行けるかもしれない。
その時まで、俺は生きられるだろうか?できれば球場で、弘の試合を見たいものだ。
もう俺は、二度とボールを握ることは無いだろう。人生の最後に、息子とこんなにすばらしいキャッチボールが出来て、
俺は幸せだった。ありがとう」


私はこれを見て、父の想いを知りました。
それから、父が果たせなかった甲子園出場を目指して死に物狂いで練習しました。

翌年夏、私は背番号1番を付けて、地区予選決勝のマウンドに立っていました。
決勝の相手は、甲子園の常連校で、見ていた誰もが相手チームが大差で勝利するものと思っていたようでした。

ところが、私は奇跡的に好投し、0対0のまま延長戦に入りました。
10回裏の我がチームの攻撃で、2アウトながらも四球のランナーが1塁に出ました。
そのとき打順は9番バッターの私でした。

相手のピッチャーの球は、140KMを超えていました。打てるはずもありませんでした。
あまりの速さに怯え、目をつぶって打とうとしたとき、亡くなった父の顔が一瞬まぶたに見えたように感じました。
気が付くと、目をつぶって打ったはずの私の打球は、左中間の最深部に飛んでいました。
私は夢中で走りました。相手チームの二塁手が、呆然として膝から崩れるのが見えました。

サヨナラ勝ちでした。

チームメイトは、感動で皆泣いていました。
応援に来てくれていた父の当時のチームメイトも、泣いていました。

スタンドの母に抱かれた父が、静かに笑って、うなずいているように見えました。

甲子園では、結局1勝もできませんでしたが、父のおかげで甲子園に出ることができて、
とても楽しく野球が出来ました。

そのときもって帰った甲子園の土は、全て父のお墓に撒きました。

甲子園に出れたのは、父のおかげだったような気がしました。






そして・・・・・・・『お父さん、僕にも子供が出来ました。
僕の息子にもきっとお父さんのDNAは入ってるよね?
お父さんの夢は僕が叶えた。僕達の夢は僕の息子に・・・・・・
今度は息子が甲子園できっと勝ってくれます。
僕達の夢はこれからも継続していきます。』



ありがとう、お父さん!!