元文化交流使として,先日の『古典の日』の文化庁主催のシンポジウムで,ご一緒させて頂きました河村晴久師匠より
碁が出てくる『能』の演目を探して頂きました。
めったに演目として登場しないようですが、機会があれば是非、是非,観たいものです。
女流棋士の祖とも言える『喜多文子名誉八段』は能楽師の喜多流14代家元の喜多六平太に嫁がれています。
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- 作者 左阿弥
- 素材 『源氏物語』空蝉の巻
- 場所 京・三条京極
- 季節 秋
- 時 室町時代
- 演能時間 約1時間30分
- 分類 3番目 鬘物
■あらすじ
常陸国より都へ上る僧(ワキ)が三条京極に着き、この辺りは父親が源氏物語の話をしていた中川の宿の跡であろうと感慨深く古歌を口ずさんでいると、尼(シテ)が現れ、お宿を貸そうと言う。そして源氏の方違いの話から、中川の宿、夕顔の宿の話など語るが、今宵の慰みに碁を打って見せようと言う。相手はと問う僧に軒端の萩と決まっていると言い残し、涙を流し消え失せる。僧の夢に空蝉、軒端の萩が在りし日の姿で現れた。源氏へ昔の思い出も恨みも残っているが、今は懺悔に碁を打って見せましょうと言い、碁の話を語る。源氏の巻の名を言い合いながら碁を打ち始め、空蝉は負ける。空蝉は乱れ心となり、昔、源氏が忍んで来た折、上着を残して逃げ去った事、その苦恨と恋慕が募るが、源氏も軒端の萩も恋しく悲しい深い想いに堕ちたけれど、お僧の回向と碁を打った功徳で成仏した喜びを述べ消え失せる。
■みどころ
この曲は空蝉によって、光源氏の空蝉に対する恋慕と苦悩が描かれている。この苦悩は、能には多く取り上げられているテーマであるが、その苦悩の昇華が、本曲では一曲の見せ場となっている仏教的な意味づけをされた碁の対局の場面となっている。
曲名から想像されるには縁遠い作品であるが、この碁を打つというのが大変な特徴である為この曲名がついたと思われる。室町時代、金春元氏による初演が(1460頃)「禅鳳雑談」に記されている以外は江戸時代、鳥取落にての所演があるものの、久しく廃曲となっていた。明治20年に金剛謹之助 昭和37年に金剛巌 平成13年に梅若六郎、大槻文藏にて復曲上演された曲である。その後観世清和の所演がある。
■ワンポイントアドバイス
この能には碁の用語が多く用いられている。難しい言葉が出てくる個所(クセ・上歌)は碁の話、碁を打つところであって、通常叙情的或は叙事的に書かれているクセ部分を、碁の用語を用いて生死を語っている。平安時代碁は女の打つものであった。
■舞台展開
- 旅の僧(ワキ)常陸国より都へ上り、三条京極ヘ着く。
- この所が、中川の宿の跡で、昔父親が源氏物語の話の中で出て来た所と感慨深く、古歌を口ずさむ。
- 尼が一夜を貸そうと声を掛けてきて、中川の宿の事、夕顔の宿の事など語るが今夜の慰みに碁を打って見せましょうと言い、僧の誰と打つかの問いに、軒端の萩に決まっていると云い、さめざめと涙を流し消え失せる。
- 僧が所の人に中川の宿、光源氏、空蝉、軒端の萩の話を詳しく聞く。
- 僧が弔いをしていると、夢の中に、空蝉と軒端の萩が現れる。
- 源氏の巻の名を言い合い、そして碁を打ち始める。
- 空蝉は碁の勝負に負けたことで心が乱れ、昔源氏が忍んで来たことを察知して、衣を置き抜け出し、源氏は間違って軒端の萩と契った想い出を述べる。そのことで空蝉の心も源氏の心も苦悩と恋慕に苦しんだことが語られる。
- しかし、僧の弔いと碁の仏教的功徳で成仏したと舞を舞い、喜びを述べ去っていく。