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美の偉人ものがたり「藤田傳三郎」_人にも事業にも抜群の審美眼

2019年05月12日 | 美の偉人ものがたり

明治日本の三大美術コレクターと言えば、東の益田孝(鈍翁)と原富太郎(三溪)、西の藤田傳三郎(ふじたでんざぶろう)です。三人のコレクションの中で唯一大きな散逸を免れ、日本の実業家系美術館の中でトップクラスの古美術コレクションを築いたのが藤田傳三郎です。

  • 五代友厚と並ぶ明治の大阪財界の偉人、渋沢栄一に匹敵するほど多くの企業と経営者を育てた
  • 残念ながら、偉大な功績の割には実像がきちんと伝えられていない人物の”代表格”
  • 原三溪と共に美術品を値切らないことで有名、名品を入手した古美術商は真っ先に傳三郎に見せた


美術の世界のみならず実業界でも、今に伝わる偉大な功績を残した明治の英傑です。現在2019年5月に奈良国立博物館で開催中の藤田美術館展で注目されています。藤田傳三郎の人物像を探ってみたくなりました。


東京 椿山荘

藤田傳三郎は1841(天保12)年、長州・萩の造り酒屋の四男に生まれます。伊藤博文と同い年で、木戸孝允・井上馨・坂本龍馬ら明治維新の志士たち、岩崎弥太郎・渋沢栄一・五代友厚といった明治の日本経済をけん引した名経営者とも同世代です。

天保年間は黒船来航の直前です。大飢饉や天保の改革の失敗によって幕藩体制の行き詰まりが決定的になった時代ですがが、明治ニッポンをリードした人物を大量に輩出した時代でもありました。

長州藩内改革派のリーダー・高杉晋作を早くから支援し、伊藤博文/井上薫/山県有朋ら後の明治新政府のリーダーたちとの人脈を築いていきます。明治になった時、政治家や官僚でなく実業の道を選んだことが傳三郎の人生を決定づけることになります。長州藩出身の新政府の実力者を通じて、払い下げや軍需物資調達の情報を得、政商として巨万の富を築きます。

三菱の岩崎弥太郎と並ぶ、明治というイケイケドンドンの時代の寵児でした。

【藤田美術館公式サイト】 ABOUT 藤田傳三郎


偉大な功績の割に実像が伝えられていない

傳三郎は明治になってすぐに大阪に出てから10年も経たないうちに、住友や鴻池と並ぶほどの大阪の大商人に急成長します。1878(明治11)年に五代友厚が主導して設立された大阪商法会議所(現:大阪商工会議所)の発起人に住友の広瀬宰平らと共に名を連ね、五代急死後の二代会頭に就任するほどの信用も得るようになります。

急成長した人物が何かと妬まれるのは世の常です。1879(明治12)年に、井上薫の失脚をはかった冤罪のニセ札事件に巻き込まれ、反政府的な自由民権運動の講談師が”悪徳商人”として傳三郎をネタにします。尾ひれがついた話が瞬く間に世に広まり、傳三郎も弁明を一切しなかったことから、マイナスイメージが長く定着することになります。

こうしたスキャンダルに巻き込まれなかった岩崎弥太郎とは、現在に至るまで人物像の語られ方が大きく異なります。「傳三郎は高杉晋作の奇兵隊に入って人脈を築いた」という現在も多く記述が見られる傳三郎の伝記のくだりも、最新の研究では否定的に見られているようです。

萩の有力な造り酒屋の息子だった傳三郎が、藩内では危険分子と見られていた高杉に表立って協力するのは、はばかられるのが自然だからです。藩の将来を語る高杉に共感し、密かに支援した傳三郎に人を見る目があった、と私は感じます。


華麗なる藤田一族、関わった企業名が物語る。

ニセ札事件の冤罪が晴れた後、建設業を中心に傳三郎の事業はさらに拡大を続けます。傳三郎の財界での信用はまったく揺らいでいなかったのです。長浜~敦賀間の鉄道敷設、琵琶湖疎水、大阪の天満橋/天神橋など五橋の架け替え、佐世保軍港の建設など、国家的プロジェクトを次々に手掛けます。

1887(明治20)年、傳三郎は当時の日本の建設業界をともにけん引していた大倉喜八郎率いる大倉組と建設事業を合併させます。この会社が現在のスーパーゼネコン・大成建設です。

1883(明治16)年には、日本初の紡績会社・大阪紡績(現:東洋紡)を渋沢栄一らと共に立ち上げます。工場で夜間操業を行うために民間で初めて用いられた、電池を使わない「電灯」を見ようと見物客が殺到したため、工場見学を行ったと伝わっています。”工場見学”もきっと日本初でしょう。

鉄道の建設だけでなく運営にも関心を持ち始めた傳三郎は1888(明治21)年、日本初の純粋民間資本の私鉄・阪堺鉄道(現:南海電鉄)を開業し、大成功を収めます。鉄道ニーズは高まる一方でしたが、鉄道国営主義に固執していた政府だけでは建設が追い付かなかったことに、見事に風穴を開けました。

1884(明治17)年、政府から秋田・小坂鉱山の払い下げを受けます。小坂鉱山の事業は藤田財閥の中核事業となって数多くの人材を輩出するとともに、現在も非鉄金属大手・DOWAホールディングスとして存続しています。

1891(明治24)年、傳三郎は甥の久原房之助(くはらふさのすけ)を、経営が傾いていた小坂鉱山を立て直すべく派遣します。房之助は貿易商を志し、ニューヨークで商売に成功していた森村組(現:ノリタケ/TOTO/日本ガイシ等森村グループの源流)に入社していましたが、商才に目を付けた傳三郎から半ば強引に引き抜かれます。

房之助は見事に小坂鉱山を立て直しますが、1905(明治38)年に藤田組を退社します。藤田組は傳三郎が大阪に出た直後から兄二人も事業を手伝っていましたが、組織が大きくなり兄弟の関係にきしみが生じたことが房之助退社のきっかけでした。自らを強引に引き抜いた傳三郎への反発があったかもしれません。

房之介は茨城県日立市の鉱山を買収し、久原鉱業を設立します。本流の鉱山事業は日本鉱業となり、現在は日石と経営統合してJXTGになっています。鉱山で用いる機械の修理製造部門が1920(大正9)年に久原鉱業から独立したのが現在の日立製作所です。

第一次大戦後の恐慌で経営危機に直面した房之助は、妻の兄・鮎川義介(あいかわよしすけ)に経営の立て直しを託します。鮎川は1928(昭和3)年に久原鉱業を日本産業に社名変更し、戦前に日産コンツェルンと呼ばれた巨大財閥、現在の日立/日産/JXグループを築きあげます。

【日産自動車公式サイト】 LEGEND 01 鮎川義介

久原房之助、鮎川義介と聞いて、どこかで聞いたことがある名前と思った方も少なくないでしょう。日産コンツェルンは金融・商事部門がなく、戦後の財閥解体後は他の財閥のように再結集することはありませんでした。日本産業の名前も日産自動車グループ以外は使用していないため、グループとしての由縁が連想されにくくなっています。

半面製造業では、日立金属や日立造船も含む日本一の巨大財閥でした。久原房之助の兄・田村市郎(たむらいちろう)が創業した現在のニッスイ/ニチレイもグループに含まれます。

藤田財閥は、三井/三菱/住友を凌駕する規模の財閥になっていた可能性があります。久原房之助が独立しなかった、昭和恐慌で藤田銀行が破綻しなかった、という二つのIFが成立していれば、です。藤田家は人材の輩出では、まさに”華麗なる一族”でした。


人物だけでなく物事を見極める目もあった

傳三郎には人を見る目はもちろん、物事の本質を見極める目も持っていた気がしてなりません。必要と判断したことにはどんなにリスクがあっても惜しみなく人と財を投じました。岡山県の児島湾干拓事業がその好例です。児島湾干拓地には「藤田村」という地名がのこされており、傳三郎は偉人として地元では篤く尊敬されています。

児島湾干拓は江戸時代から少しずつ行われてきましたが明治になって事業が途絶え、岡山県が民間の出資者を探していたところに傳三郎が応じたものです。数十年かけて土地を造成し、農業が軌道に乗ってからでないと資金が回収できない干拓事業は、営利事業としてはリスクが高すぎることは言うまでもありません。単なる政商なら決して手を出さないスケールの大きさです。

傳三郎は干拓事業のすべてを、1886(明治19)年に福沢諭吉が経営していた大手新聞社・時事新報から引き抜いた本山彦一(もとやまひこいち)に託します。この名前も聞いたことがあると思った方も少なくないでしょう、毎日新聞を朝日と並ぶ戦前の二大新聞に育てた名経営者です。

本山は20年に渡って干拓事業を軌道に乗せるのと並行し、経営が傾いていた大阪毎日新聞の面倒も見るようになります。1911(明治44)年に東京日日新聞を買収し、戦時中に現在の題字「毎日新聞」に東西で統一されます。

傳三郎の眼力のエピソードは、直接藤田組に引き抜いた人物だけにとどまりません。明治の大阪で数多くの大企業の立ち上げをサポートした銀行家・岩下清周(いわしたきよちか)です。岩下は三井銀行大阪支店長として大阪で人脈を築きますが、担保よりも人物を見抜いて融資を実行するやり方で本社と衝突します。傳三郎は設立に参画した新興の北浜銀行の経営メンバーに岩下を誘います。

岩下の業績で最も有名なのは、日本有数の名経営者に称えられる小林一三の人物を見抜き、阪急・東宝グループの原点・箕面有馬電気軌道に出資したことです。現在の近鉄の源流・大阪電気軌道の経営を軌道に乗せた世紀の難工事・生駒トンネルの決断でも知られています。


藤田邸跡地も、”すごい”の一言

傳三郎は1912(明治45)年にこの世を去り、長男の平太郎(へいたろう)が藤田組を引き継ぎます。平太郎も父と並んで数寄者で、現在の藤田美術館の所蔵品の厚みを増しています。”あの曜変天目茶碗”も、平太郎が1918(大正7)年の水戸徳川家の売立で落札したものです。

傳三郎は死を前にして、広大な大阪本邸を三人の息子に分割して相続します。現在の藤田美術館と藤田邸公園となっている「本邸」は長男の平太郎、結婚式場・太閤園となっている「東邸」は次男の徳次郎、ブライダル施設・ガーデンオリエンタル大阪となっている「西邸」は三男の彦三郎が、それぞれ受け継ぎます。

3つの屋敷は第二次大戦末期の空襲でほぼ全焼しますが、奇跡的に焼け残った建物が二つあります。2017年まで藤田美術館の展示棟として利用されていた「蔵」と、太閤園の料亭として現在も使用されている「淀川邸」です。太閤園は大阪の老舗結婚式場としては最高格で、東京の椿山荘や目黒雅叙園と同じ位置づけです。

藤田邸公園は年間を通じて自由に散策でき、藤田財閥の面影をしのぶことができます。公園は、近松門左衛門の浄瑠璃の最高傑作「心中天網島」で知られる小春・治兵衛の実際の心中現場となった大長寺の跡地でもあります。

「椿山荘」は、1918(大正7)年に平太郎が山縣有朋から譲り受けた東京別邸です。戦後に藤田観光の所有となり、東京を代表するホテル・結婚式場になっていることは周知です。箱根の小涌園も平太郎の別荘でした。

藤田観光は、「藤田」ブランドを今に伝える唯一の企業です。建設会社・フジタは傳三郎一族とはまったく無関係です。第二次大戦中に経営が行き詰った藤田組を再建した安田銀行出身の小川栄一(おがわえいいち)によって、1955(昭和30)年に藤田組から独立しました。

小川は、それまで上流階級以外には無縁だった「観光」に目を付けます。椿山荘など藤田家の遺産を活用して会社を大きく成長させます。京都の二条で鴨川をのぞむ美しい別邸跡地に開業したホテルフジタ京都もその代表例です。現在のリッツカールトン京都です。

小川は藤田組の資産を乗っ取ったように解釈されがちですが、決してそうではありません。藤田美術館にとってはコレクションの散逸を防いだ恩人でもあります。藤田家の美術品は戦時中の経営危機に伴い、銀行の担保として差し押さえられていましたが、小川は優先的に借金を返し、担保を解除させます。藤田家の不動産も、終戦直後の急激なインフレを見越して売却を急ぎませんでした。

【藤田観光公式サイト】 知られざる60年(初代社長・小川栄一の思想)



大阪 藤田邸公園

大阪随一の数寄者としてもその名を轟かせていた藤田傳三郎は、公の場に姿を表すことを嫌った人物でもありました。会社に出社することはなく、自邸でしか人とは接触しませんでした。第三者を通じて情報発信するようなこともしません。世間でどう言われようが、公の場では一切情報発信しません。上に立つ者は情報発信しないと言う、日本古来の価値観を貫いた人物でもありました。

その傳三郎のスタイルは、美術品蒐集にも表れています。古美術商が持ってきた品を目にして、値段を聞かずにYes/Noを審美眼だけで判断します。箱書きや由来など、第三者が認定した価値を一切顧みることなく、純粋に美しさで判断します。

藤田傳三郎は、人物/事業/美術品、どんな対象でも将来の価値を見極める目を養い続けた人物でした。明治の様々な偉人の中でもその審美眼はトップクラスであったことは間違いありません。現在行われている奈良国立博物館の展覧会で、その偉人ぶりをたっぷりと確認することができます。


バブル崩壊後に明治の名経営者の足跡を見つめなおした名著

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<大阪市都島区>
藤田美術館
【公式サイト】http://fujita-museum.or.jp/


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