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清凉寺ものがたり_お二人の国宝の生き写し像は今も輝いている

2019年04月10日 | 美の殿堂ものがたり

全国に数多ある清凉寺式釈迦如来の”原本”と、光源氏がモデルとされるイケメン阿弥陀如来。個性が全く異なる”超”美仏が二人もいらっしゃる嵯峨・清凉寺は、敷居が全く高くありません。嵯峨大念仏狂言が現在も人気で、京都でも有数の親しみやすい寺です。

  • 国宝の清凉寺式釈迦如来は釈迦の生き写しとされ、まっすぐに直立する姿はとても神々しい
  • 国宝の阿弥陀三尊は光源氏のモデル・源融(みなもとのとおる)に生き写しとされ、妖艶な美男
  • 京都人には嵯峨の釈迦堂として親しまれ、壬生・千本と並んで大念仏狂言が人気


嵯峨嵐山エリアでは随一の、仏教美術と庶民信仰の歴史がつたわる名刹です。仏教を通じて発展した日本文化の奥深さを体感することができます。


本堂

現在の清凉寺の地は平安時代初め9c、嵯峨天皇の皇子・源融の別荘がありました。源融が生前に発願していたものの一周忌になってようやく造立された阿弥陀三尊像をまつる寺として、896(寛平8)年に別荘跡地に棲霞(せいか)寺が建立されました。この阿弥陀三尊が現存する国宝です。寺名は別荘名にちなんで名づけられ、この寺が現在の清凉寺の前身となります。

それから1cほど後、中国の普賢菩薩の聖地と呼ばれる霊山・五台山を訪れた東大寺の僧・奝然(ちょうねん)が、帰国の際に現地の仏師に彫らせた仏像を携えました。この仏像が国宝の釈迦如来です。古代インドの王が釈迦の生存中に彫らせ像を模刻したと伝わることから、”釈迦の生き写し”とされ、中国伝来の仏像の中でも清凉寺式として別格の扱いを受けます。

奝然は京都の愛宕山を五台山に見立て、麓にこの釈迦如来を安置する寺を建立しようとしますが、建立は存命中にはかないませんでした。南都・東大寺の息のかかった有力な寺ができることを警戒した延暦寺の横やりが入った、とする説があります。中世の宗教史によくある、歴史環境的に違和感がない説です。

奝然が1016(長和5)年にこの世を去った後、棲霞寺境内に弟子が建立したのが清凉寺です。清凉寺の寺名は、五台山の別名にちなんでいます。以降、次期は定かではありませんが、棲霞寺と言う寺名は廃れ、通称名:嵯峨の釈迦堂と正式名:清凉寺が定着していきます。


大方丈

現在も親しまれる「釈迦堂」という寺名の由来は、棲霞寺創建から半世紀ほど後に、皇族が建立した清凉寺式とは無関係の釈迦如来をまつる堂宇に由来するとする説があります。この釈迦如来は現存しないこともあり、中国からの請来当初から相当な知名度があったと考えられる清凉寺式釈迦如来をまつる堂宇として有名になったと考えることもできます。

どちらの説が有力かを断定することはできませんが、源融に生き写しの阿弥陀如来より、どちらかの釈迦如来が中世においては有名であったことだけは間違いないでしょう。清凉寺は鎌倉時代に融通念仏が盛んになり、その流れで戦国時代には現在の浄土宗になります。平安時代以来の釈迦如来信奉の根強さに、融通念仏や浄土宗が本尊とすることが一般的な阿弥陀如来が”遠慮”しているように見えます。清凉寺の奥の深さを感じます。


2017年4月に本堂で行われた嵯峨大念仏狂言

法然が開いた浄土宗の”先輩格”にあたる融通念仏(ゆうづうねんぶつ)は、鎌倉時代後期の13c末に、円覚(えんかく)が京都で布教し瞬く間に人気を博します。当初から布教のために何らかの芸能が行われていたと考えられています。円覚は壬生寺も再興します。現在のような芝居形式の大念仏狂言は、室町時代から続いている記録が残っています。

清凉寺は京都でも有数の融通念仏の道場として定着していきます。とても親しみやすい境内の趣は、大念仏狂言の人気に支えられていると感じられます。リズミカルな動きをするパントマイムで、現代人が見てもとても親しみやすい演劇です。

応仁の乱など、伽藍は幾度も火災に合っていますが、お二人の”超”美仏は常に大切に守られてきました。江戸時代初期には豊臣秀頼の寄進で伽藍は再興されますが、元禄時代に焼失します。現在の本堂(通称:釈迦堂)は元禄時代に、将軍・綱吉と母・桂昌院の寄進で再建されたものです。

江戸時代の清凉寺は、本尊・釈迦如来の出開帳(でかいちょう)で有名でした。1694(元禄7)年の火災以前の記録は残っていませんが、以降の約170年間で、江戸/大坂で10回ずつ、京都市中で19回も行っています。本尊・釈迦如来は鎌倉時代に摸刻が流行し、奈良・西大寺の本尊など全国に100体以上確認されています。

”釈迦の生き写し”とされる人気は、江戸時代でも絶大であったことがわかります。出開帳によって収入を確保するマネジメント意識も、清凉寺はきちんと持っていたのです。


宇治・平等院鳳凰堂

源融は、光源氏のモデルの一人とされていますが、源氏物語が執筆された頃から120年ほど前に没しています。紫式部が本当にモデルとしてイメージしていたなら、100年以上も語り継がれるような絶世の美男子だったということになります。

宇治の平等院や東本願寺の渉成園は、元は源融の別荘でした。左大臣まで上り詰めた有力な貴族としてだけでなく、風流もとても愛していたことがうかがえます。光源氏のモデルという話もあながち作り話のようには聞こえません。

境内には豊臣秀頼の首塚もあります。1980(昭和55)年の大阪城の発掘調査で頭蓋骨と首のない胴体骨が発見され、法医学調査から秀頼の遺体ではないかと推測されました。断定にまでは至りませんでしたが、清凉寺に埋葬され「秀頼公の首塚」として拝観することができます。

仏像、芸能、縁のある人物、清凉寺の文化の奥深さがとてもよくわかります。



瀬戸内寂聴が語る清凉寺の魅力

清凉寺(嵯峨釈迦堂)(京都市右京区)

http://seiryoji.or.jp


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