寺社やお屋敷など歴史的建造物を初めて訪れた際に、中に入る前からワクワク感が高まることがよくあります。そんな時は大抵、敷地を取り囲む「塀」や「垣」が見とれるくらいに見事なのです。建物の第一印象は、入り口である「門」から受けることも多いですが、その前に「塀」や「垣」をじっくり見てください。デザインのかっこよさに気づくことも少なくありません。
1)敷地を取り囲む構造物の種類
ところで「塀」「垣」「壁」の違いをご存知でしょうか。敷地を取り囲む構造物の名前はたくさんありますので、まずは整理してみたいと思います。
- 塀(へい):敷地の外周を取り囲む、防御や目隠しのために頑丈で高いことが多い
- 垣(かき):敷地の外周を取り囲む、主に敷地内外との境界を示す
- 柵(さく):敷地内外の境界を示す、進入を防ぐ、すき間があるので見通せる
- 壁(かべ):建物の外周を取り囲む、室内を区切る
他にも城や都市・集落といった面積の大きい敷地を囲む構造物もあります。
- 石垣(いしがき):石を積み上げた土手
- 土塁(どるい):土を盛った土手、土居(どい)とも言う
- 濠(ほり):敵や動物の侵入を防ぐ巨大な溝、水を張らないものは「空堀(からぼり)」と呼ぶ
多様な名前がありますが、区別があいまいな場合もあります。しかしいずれの構造物も外部から目につきやすいため、意匠を凝らしている場合が少なくありません。また目的に応じ様々な工夫が隠されています。日本建築を楽しむ上ではとても奥深い存在なのです。
2)塀を見ると建物の格式がわかる
塀は、伝統的に土で造られてきました。近世になって防御目的が小さくなると、意匠がほどこしやすい板で作られるものも出てきます。
土塀(どべい)、練塀(ねりべい)
練塀 <大徳寺>
粘土質の土や泥に石灰や油、水などを練り混ぜて固めて造ったもので、アジア全般でみられる最も原始的な塀です。補強のため瓦を土の間に挟んだものは練塀と呼ばれます。経年劣化で一部がはげ落ちたものでも、かえって味が出ている場合、修理せずそのまま残されているものもあります。
【Wikipediaへのリンク】 土塀
築地塀(ついじべい)、定規筋(じょうぎすじ)
築地塀にひかれた定規筋 <醍醐寺三宝院>
土塀と同じく粘土質の土や泥で造りますが、壁の内部に木枠で骨組みを作り塗り固めていきます。内部に骨組みのない土塀より強度が増します。「大垣(おおがき)」と呼ばれる高さ5mを超す巨大なものもあります。
外見だけで土塀と区別するのは難しいですが、築地塀は公家や門跡寺院など格式の高い建物に用いられる傾向があります。皇室との関係を示す「定規筋」と呼ばれる最大5本の白い水平線がひかれていると、格式が高いと見られます。しかし定規筋があっても、美術品や用材を下げ渡されただけのように、必ずしも皇室との関係が長く続いているとは言えない場合もあります。その塀がきちんと景観を保つようメンテナンスされているかが、美しさを判断する基準になります。
【Wikipediaへのリンク】 築地塀
【Wikipediaへのリンク】 筋塀
その他の塀
建物の用途に応じて他にも種類があります。
◆透塀(すきべい)
上半分が連子、狭間、格子模様で見通しが効く、神社に多い。
◆唐塀(からべい)
透塀と同じく上半分の見通しが効く、唐破風がついており、仏教寺院に多い。
◆板塀(いたべい)
板で作る塀。上半分が土壁になっているものもあります。近世以降の数寄屋建築に多い。意匠の種類で源氏塀(げんじべい)、簓子塀(ささらこべい)といった分類もあります。
◆海鼠壁(なまこかべ)
壁に格子状に瓦を張り、すき間を漆喰で盛り上げるように塗った壁・塀、防火性が高くデザインも目立つため、城や土蔵に用いられます。
【Wikipediaへのリンク】 海鼠壁
3)生垣にはオーナーの趣味が表れる
垣は大きく2種類に分類されます。竹を編む、もしくは植物を壁状に植えた「生垣(いけがき)」と石を積み上げた「石垣」です。生垣は塀と異なり、防御や目隠し目的よりも敷地の境界や進入通路をさりげなく示すために使われます。そのため背が高くないことが多く、竹の編み方のデザインで客人をもてなそうとする遊び心があります。
デザインはとても多様なため、その垣が存在する寺の名前が付けられたものが多くなっています。進入通路を何気なく歩いていると見落としがちですが、竹の編み方、植物の植え方が実に個性があります。あえて見通しをよくしたくない場合には木の高さを高くすることもあります。まさにオーナーの趣味と客人をもてなそうとするサービス精神が表れています。ぜひゆっくり歩いてデザインを楽しんでください。
銀閣寺垣 <慈照寺>
光悦垣 <光悦寺・京都>
【Wikipediaへのリンク】 垣根
4)石垣は安土桃山時代に美しくなった
石垣は世界中で古代より見られる原始的な土木構造物です。日本でも、古墳や館を囲む土塁、山の斜面の農地など、主に基礎を補強するものとして使われてきました。戦国時代に城郭建築ニーズが高まると石垣築造技術も向上していきます。
「穴太衆(あのうしゅう)」は、戦国時代に活躍した石工集団の中でも、信長・秀吉政権下で多くの寺や城の石垣づくりを担いました。彼らが本拠地としていた延暦寺の麓の坂本には、現在も「穴太積み(あのうづみ)」と呼ばれる街並みと調和した美しい石垣が遺されています。本来の目的である頑丈さに、見た目の価値を加えた優れた職人集団であったと考えられています。
穴太積 <大津市坂本>
野面積み(のづらづみ)、打込み接ぎ(うちこみはぎ)
石の加工方法による石垣の積み方としては、戦国時代まではほぼ、自然石を加工せずそのまま積み上げただけの「野面積み」でした。表面にでこぼこが多く敵兵によじ登られやすい欠点がありました。
そのため石を積む前に石の表面のでこぼこを少なくし、表面や石同士が接着する上下面をよりなめらかにしてから積む「打込み接ぎ(うちこみはぎ)」が登場します。石垣をより高く、傾斜を急にすることが可能になり、防御力はかなり高まります。
打込み接ぎ <高知城 1603年築>
切込み接ぎ(きりこみはぎ)
大坂の陣が終了した元和以降は、さらに防御力を高めた石垣の積み方「切込み接ぎ」が登場します。エジプトのピラミッドのように方形に成型してから積み上げます。敵兵が自力でよじ登ることはほぼ不可能になります。見た目も幾何学的になって非常にスッキリし、巨大な石が使われこともありました。
壮麗な石垣は、石垣の原料となる花崗岩が瀬戸内海沿岸で豊富に採取できた西日本の城に多く見られます。小豆島は大阪城の巨石の産地として有名です。一方東日本は花崗岩の産地が少なく、石垣は多くありません。
切込み接ぎ <大阪城 1620年頃築>
【Wikipediaへのリンク】 石垣の積み方
【Wikipediaへのリンク】 穴太衆