京都の東の端、山科盆地に位置する醍醐寺(だいごじ)の塔頭である三宝院(さんぽういん)は、秀吉の「醍醐の花見」で名高く、現存する空間はこの頃整備されたものが多い。皇族が代々住職を務めた門跡寺院でもあり、京都御所のような品格を感じさせる空間が広がっている。
朝廷は戦国時代に困窮を極めていた。応仁の乱の後即位した後柏原天皇から信長の養護を受けて困窮から解放されるようになった正親町天皇に至る三代、50年間ほどが最も厳しかったようだ。そのため長い間寝かせておかざるを得なかった王朝文化は、特に貴族趣味を好んだ秀吉による援助で見事に眠りから覚めてよみがえったのだ。
この王朝文化の目覚めを今も確認できるのが三宝院である。正式には隠居した住職が住む塔頭ではあるが、実質的には醍醐寺の中心的な存在である本坊であり、皇族や武家のトップクラスの客人を迎えるべく贅を尽くした桃山時代の京都の町の文化の力を今に伝えている。
拝観受付に向かうと、その受付のすぐ右側にひときわ目立つ門が目に飛び込んでくる。国宝の「唐門(からもん)」である。唐門は、朝廷からの勅使にだけが通ることのできる門で、武家の質実剛健さと王朝文化の繊細さが融合したような桃山時代の気品あふれる威厳を感じさせる。2011年に本格的な修理によりよみがえった漆黒の輝きは、金細工の背景として門全体を引き締めており、素晴らしい。
三宝院の建物は複数がつながった形で構成されており、通常拝観できるのは全体の半分程度、受付から見た手前側を占める国宝「表書院(おもてしょいん)」までの部分である。
表書院に至るまでに、葵祭の行列を描いた襖絵のある「葵の間」、秋の七草の襖絵「秋草の間」、長谷川等伯一派の作とされる竹林花鳥図の襖絵「勅使の間」と3つの部屋を通る。この3つの間は重要文化財だが、主役の表書院と庭園に対面するまでの気分をよりワクワクさせてくれるにふさわしい空間だ。
表書院は上中下段と3つの床の高さが異なる部屋で構成されており、もちろん奥に行くほど高貴な人が座するので高くなる。
手前の下段の間は、畳をあげると能舞台になり、上・中段から鑑賞できる。下段の間は蘇鉄の襖絵で彩られており、桃山時代から150年ほど時代が下った江戸中期、円山応挙の師とされる石田幽汀の作。上・中段の襖絵は「勅使の間」と同じく長谷川等伯一派の作とされる。
表書院は、寺というより「離宮」という方が空間を表現するにはふさわしい。門跡寺院ならではの凛とした空気を感じる。畳に座る際に、足を崩すのではなく正座しようという気にさせてくれる。
戦乱の世では、目を見張るような気品を感じる襖絵に囲まれた部屋で、これまた目を見張るような表情豊かな庭を眺めさせ、客人をもてなすような時間や場はありえなかった。秀吉が京都で人気があるのは、こうした都ならではの優雅な時間を楽しめる時間と場をもたらしたからだ。そんな時代の華となった稀有な空間が現代に残るのが、三宝院の表書院である。
表書院から眺める庭は、自己との対話を促すためにシンプルを極めた禅寺の枯山水庭園とは異なり、水・木・石それぞれの美しさが絶妙に調和され、とても表情が豊かだ。
現代の庭園は江戸中期に手を加えられている(回遊できるようにした、拝観時には回遊不可)が、二条城や兼六園、六義園、栗林公園のような巨大な敷地を歩いて楽しむ大名庭園とは趣が異なり、表書院から全体を眺めるにはちょうどよい大きさになっている。回遊しなくても充分に全体の表情を楽しむことができる。武家との嗜好の差が表れているのだろうか。
秀吉による醍醐の花見が催されたのは、秀吉がこの世を去る4か月前の1598(慶長3)年。この時代は世界中で今に残る素晴らしい芸術作品が制作された頃である。
イギリスではシェークスピアが「ハムレット」「ロミオとジュリエット」など幾多の名作を著し、スペインではエル・グレコが「オルガス伯の埋葬」「羊飼いの礼拝」といったトレドの教会やプラド美術館で見る者のまなざしをくぎ付けにする傑作を残した。
ローマでは時代の寵児であるカラヴァッジョが、ルネサンス以降混迷していたイタリア絵画に「女占い師」「聖マタイの召命」などの代表作で「光と影」という革新的な描写を提案した。これら作品は当時絵を学ぶためローマに滞在していたルーベンスを大いに刺激、欧州全土にバロック絵画という新しい花を咲かせるきっかけとなった。
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