室町時代の建築や美術品に関心を持つようになると「会所(かいしょ)」という言葉を聞くようになります。人が集まるために設けられた部屋や建物のことを指しますが、室町時代には政治的にも文化的にもとても重要な役割を果たしていました。現存するものは少ないですが、当時の文化を理解するためには必ず知っておきたい概念です。
室町時代の会所は「交際に必須な文化サロン」
「会所」はその字の通り、「人と会う」スペースを指します。平安時代の寝殿造りの貴族の館にあった「出居(いでい)」と呼ばれた、主人と来客が対面するスペースが起源と考えられています。会所という言葉は平安時代末期から使われ始め、室町時代に最もよく登場するようになります。
室町時代の会所は、「文化サロン」と言える上流階級の私的な交際や遊興の場でした。建物全体を指す場合と、建物内の一部の部屋を指す場合があります。
会所で行われていた文芸や遊興には以下のようなものがあります。
連歌(れんが)
- 現代の短歌のような韻律に基づいて作る歌を、複数の人が前作との関連を保ちながら連続して作って楽しんでいました。現代のように他の人の作品との関連を気にせず作るわけではないため、社交と文学の両方のセンスが求められました。
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闘茶(とうちゃ)・回茶(かいちゃ)
- 茶の銘柄を当てる利き酒のようなゲームです。侘び茶が一般的になると廃れていきました。
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猿楽(さるがく)
- 現代の能楽のことを、江戸時代までは猿楽と呼んでいました。能を大成した観阿弥・世阿弥が、3代将軍・義満から厚く保護されたことから、室町時代は上流階級の間で盛んに行われていました。
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月見(つきみ)
- 上流階級の月見は平安時代から、池に写った月をめでながら酒宴を行うものでした。会所には池が多く作られていましたが、月見が大きな目的だったのでしょう。
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花合(はなあわせ)・花競(はなくらべ)
- 2つの花の風流を比べるゲームです。現代の華道の源流と言えます。花札で遊ぶことを「花合」と言う場合もあります。花札は安土桃山時代にポルトガルから伝わったものですので、室町時代にはありませんでした。
醍醐寺・三宝院は、室町時代の会所が源流
室町時代の会所は、将軍や公家、有力武将の屋敷だけでなく、高僧の邸宅にもありました。文化教養に優れた上流階級の人なら身分を問わず、自邸に設けていたのでしょう。
会所では、身分が異なる人たちが同じ空間で一堂に会していたことも大きな特徴です。例えば、連歌会に皇族・僧・武家など官位の有無にかかわらず上手な者が一堂に会して楽しみました。会所で文芸や遊興を楽しむ時だけは、身分差を問わないという暗黙のルールがあったのです。身分はつりあっていても、歌が下手な者と一緒では確かに面白くありません。
現代で言うと、高級料亭や会員制の高級クラブ・ゴルフ場に相当する場と考えてください。ただし様々な文芸で秀で豊かな教養を持っていないと会所には入れてもらえません。社会的地位とお金があるだけではダメなのです。
室町時代までは、武家・公家とも文芸や教養は、上流階級で生きていくためには必須条件でした。文芸や教養がないと会所には呼んでもらえず、情報交換や自らのプレゼンスの誇示には著しく不利になるからです。室町時代は、文芸と教養を重んじる貴族趣味的な交際手法が、公家・武家・僧と社会階層を問わずに花開いた最後の時代だったのです。
江戸時代の建築ですが、会所の趣を今に伝える連歌を行うための建物が杭全神社に現存しています。
【公式サイトの画像】 大阪市指定文化財 杭全神社 連歌所
会所の主役「唐物」を権威づけた「同朋衆」
室町幕府3代将軍・義満(よしみつ)が鹿苑寺・金閣を建てたことはよく知られていますが、当時は金閣の北隣に「天鏡閣」という会所があり、金閣とも廊下でつながっていました。義満は日明貿易を通じて中国から集めた陶磁器・絵画・書などの「唐物(からもの)」を、権威の象徴として誇示しました。きらびやかに装飾された会所は多くの唐物が展示され、客人には羨望の的となっていきます。
唐物は当初、「押板(おしいた)」と呼ばれる可動式の板に置かれました。時代が進むと押板は部屋の中で固定化され、「床の間」になります。会所での唐物展示は、建築様式としての書院造の成立を大きく後押ししました。
唐物に美術品としての価値を確立したのは「同朋衆(どうぼうしゅう)」と呼ばれる、足利将軍の文化芸能ブレーンです。唐物の目利きはもとより、連歌会や茶会の仕切りなど、会所における文芸や遊興の運営を任されていました。時宗の僧が多かったため「阿弥」という号を名乗るようになりました。
【Wikipediaへのリンク】 唐物
【Wikipediaへのリンク】 同朋衆
東山御物の成立
8代将軍・義政(よしまさ)の時代には、現代に名を残す著名な同朋衆三代が現れます。代々の将軍のコレクションに義政自身の鑑識眼を加えた「東山御物(ひがしやまごもつ)」が、この三代によって確立します。
能阿弥(のうあみ)は、東山御物の選定を率先しました。諸芸に秀でる中で、特に水墨画の名手として知られます。出光美術館の「花鳥図屏風」は傑作です。
孫の相阿弥(そうあみ)と共に遺した「君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)」は、義政の東山御殿(現在の銀閣寺)における装飾や茶道具、唐物の品評をまとめた一級の美術資料です。この中で「上品」として高い格付けをされた中国の絵師の作品は、現在ほとんどが国宝・重文指定されています。徽宗皇帝、牧渓、馬遠、夏珪ら、まさにスーパースターたちです。
能阿弥の子・芸阿弥(げいあみ)に続き、その子・相阿弥も絵師として著名です。大徳寺・大仙院に襖絵が遺されています。狩野派の始祖・正信とほぼ同世代で、義政の東山御殿の造営には共にあたりました。
なお義政のコレクションでは、御物を「ごもつ」と読みます。「ぎょぶつ」と読むのは皇室のコレクションに限られるようです。でも間違えても怒られることはないでしょう。
【Wikipediaへのリンク】 東山御物
東山御物と会所の運命
義政の時代は唐物を殊に珍重する価値観が転換する時代でもありました。義満の北山文化の潮流である“きらびやかさ”よりも、東山文化の潮流となる“静けさ”を重視する「侘び(わび)・寂(さび)」が流行し始めます。茶の湯も、闘茶から「わび茶」に変化していきます。
義政の後半生に勃発した応仁の乱以降は、将軍家・公家とも経済的に困窮するようになり、会所で文芸や遊興にふけることができなくなります。財政難のため、東山御物の多くが戦国大名や京都・堺の町衆に売却され、コレクションは散逸します。この売却時の値付けには、相阿弥が大きく関与していたとみられています。
都では地方の戦国大名や町衆など政治経済的に実力でのし上がった勢力が台頭します。彼らは室町時代以前の武家ほど、公家にこびへつらって「官位」を欲するようなことはしません。「官位」は昔ほど役に立たなくなっていたからです。一方伝統的に公家は、実績がわからない新興勢力との接触を好みません。また経済的困窮も深刻でした。
交際の中心的な場も、わび茶をたしなむ「茶室」に移っていきます。社会階層を問わず上流階級が、会所で“一堂に交際する”ことはもはや不可能になったのです。
平和が訪れた安土桃山時代になっても、会所での上流階級の交際は復活せず、忘れられていきます。江戸時代に再び使われるようになった「会所」という言葉は、「ビジネスの同業組合、集会所」を意味します。
【Wikipediaへのリンク】 会所 (中世)