2019年の美術展は、オーストリアの首都で芸術の都とも呼ばれるウィーンに注目が集まっています。その主役は官能的な表現で知られる画家、グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)です。クリムトなる人物はどんな人生を送ったのか、紐解いてみたくなりました。
- クリムトは、アール・ヌーヴォーと同時代に文化の最先端をけん引した世紀末ウィーンの寵児
- 欧州最後の名門・オーストリア帝国の抱えていた矛盾が、世紀末ウィーンの繁栄をもたらした
- 写実性に基づく絵画の概念を見事に壊したクリムトは、画家ではなくアーティスト
クリムトの個性「黄金様式」は、日本の伝統表現の影響も感じ取ることができます。ジャポニスムを象徴する画家はゴッホだけではありません。
クリムトは1862年、ウィーン郊外の彫刻師の家庭に生まれます。貧しいながらも暖かい家族で育ち、当時欧州でも最先端の文化的な繁栄を謳歌していたウィーンの街の空気にも刺激され、芸術の道を志すようになります。クリムトの斬新な表現を生んだ背景には、政治の矛盾をよそに文化や科学では最高潮を迎えていた当時のウィーン社会の”空気”がありました。
”世紀末”という形容詞が最もあてはまる19c末のウィーン
1857年、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はウィーンの街を取り巻く城壁を撤去し、環状道路のリング・シュトラーゼを建設します。リング沿いにはウィーン国立歌劇場/ブルク劇場/ウィーン美術史美術館など、現在も世界的に有名な建築が次々と建設され、ロンドン/パリ/ベルリンと並ぶ欧州の中心都市へと発展を遂げます。
1873(明治6)年には万国博覧会の会場が設けられ、明治新政府も出展したことから、パリに引き続きウィーンでも”ジャポニスム”がブームになります。クリムトの個性である平面的な表現や紋様のデザインは、ジャポニスムを意識したものと考えられています。
音楽では、ヨハン・シュトラウス2世/ブラームス/マーラーといったビッグネームが軒並み活躍し、著名な劇場と共にウィーンが「音楽の都」と称えられる地位を不動にします。文学ではカフカ、精神分析ではフロイト、生物学では遺伝の法則を発見したメンデル。あらゆる分野で巨匠が次々に登場します。
【Wikipediaの肖像写真】 フランツ・ヨーゼフ1世
文化や科学では欧州随一の繁栄を誇ったウィーンの活力は、欧州最後の名門・ハプスブルグ帝国の落日が導いていたという皮肉な側面も否定できません。
1848年、ハプスブルグ朝オーストリア帝国の実質的な最後の皇帝にフランツ・ヨーゼフ1世が18歳の若さで即位します。第一次大戦中の1916年に亡くなるまで68年もの長きにわたって在位し、帝国の落日をほぼ見届けることになります。
1848年はナポレオン戦争後の欧州の秩序を定めたウィーン体制が欧州全土で崩壊し、それまで抑圧されてきた民族主義や自由主義が一気に花開くことになった年でした。オーストリア帝国はその後イタリアやドイツ統一を目指す戦争に相次いで敗れて領土は縮小、ハンガリーに大幅な自治権を認め、欧州の中では落日の国という印象をますます強めていきます。
フランツ・ヨーゼフ1世は多民族国家の特性を生かし、異文化共生によって国の活力を維持する道を探ります。東欧の多民族やユダヤ人をウィーンに自由に受け入れ、文化や科学の発展を大いに刺激します。国家の落日の目前、政治の混乱とは逆に文化が成熟することは古今東西よくあります。18cフランス革命前夜のパリのロココ文化、19cの江戸の化政文化、15c京都の東山文化がその代表例です。
クリムトは”画家”というより、最初の”アーティスト”
クリムトは1880年頃、弟や友人と共に会社を設立し、すぐにウィーンのみならず帝国全土の建物の装飾を請け負うようになります。それまでウィーン美術と社交界に君臨していたアカデミック芸術のハンス・マカルト亡き後を継ぐ芸術家として一躍脚光を浴びるようになったのです。「旧ブルク劇場の観客席」が当時の代表作です。
1894年に製作したウィーン大学講堂の天井画で現存しない「哲学/法学/医学」の三部作から、現代に知られる刺激的な作風に変化していきます。影響を受けたとされるアカデミック芸術との違いは衝撃的で、印象派の影響も見られず保守的だったウィーンの美術界の混乱は想像に難くありません。ウィーンにはこうした伝統にとらわれない芸術を創造する”自由な空気”があったのです。
この作品で守旧派との間で大きな論争を呼び、クリムトの主導で1897年に「ウィーン分離派」が結成されます。
【2019クリムト展 公式サイトの映像】 「ベートーヴェン・フリーズ」分離派会館蔵
世紀が変わった1901年からの10年間に、「黄金様式」と呼ばれる著名な代表作がほぼ制作されています。「ベートーヴェン・フリーズ」はその最たるものです。写実的な描写に紋様のような抽象的なデザインを加えており、現代の感覚で言うと「デジカメで撮った写真に様々な加工を加えた」ような仕上がりです。
【ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館 公式サイトの画像】 1901年「ユディト」
【ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館 公式サイトの画像】 1907年「接吻」
いずれも世界的に著名な作品です。赤裸々な性描写ばかりが着目されますが、日本の金碧障壁画のような金地に描いた紋様が、女性を包み込む構図はきわめて斬新です。紋様や主役のモチーフをアイコン化し、現実にはあり得ない光景を”デザイン”として表現します。絵画ではなく”アート”と呼ぶにふさわしい作品を世に提案した最初の”アーティスト”がクリムトでしょう。今から120年前です。
クリムトが世を去ると、オーストリア帝国も消滅した
クリムトの斬新な画風は最後までウィーンの上流階級には受け入れられませんでした。セックス・アピールが目につき「上品でない」と解釈されかねない画風に加えて、下流層とみなされる言葉遣いや装束を変えなかったからです。
日本人の想像以上に、欧米社会の階級による区別は厳格です。上流階級に受容されないと、社会の中枢で地位を維持することはきわめて困難になります。クリムトはそんなことは百も承知で上流階級と一線を画し続けたような気がしてなりません。ウィーンとオーストリア帝国が抱える社会の矛盾に無言で警鐘を鳴らしたのでしょう。
1918年、オーストリア帝国が第一次大戦で降伏する前夜、クリムトはこの世を去ります。世紀末ウィーンという歴史的にも稀有な文化の隆盛が終焉を迎えたことを象徴するようです。
【Wikipediaの肖像写真】 皇妃エリザベート(愛称:シシィ)
フランツ・ヨーゼフ1世は、メキシコ皇帝となった弟の処刑、長男の心中、ミュージカル「エリザベート」で知られる美貌の皇妃(愛称:シシィ)の暗殺、第一次大戦勃発の引き金となった甥の皇太子のサラエヴォでの暗殺と、相次ぐ身内の不幸に直面する悲劇の皇帝でした。
彼は古き良き帝国時代の象徴として、現在のオーストリア国民に加え、東欧の非ドイツ民族にも絶大な人気があります。様々な場で公に姿を表して文化を奨励し、異なる民族の価値観の”多様性”を称賛し続けます。通常は憎悪の象徴となり、処刑されることも多い最後の皇帝としては、歴史上他に類を見ない人気ぶりです。
フランツ・ヨーゼフ1世の”多様性”を認める価値観は、現在のEUにも受け継がれています。第二次大戦前に均等関税や外交政策の統一を提言したオーストリアの政治家:リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーは「EUの父」と呼ばれています。彼の母で、日本人として初の正式な国際結婚をしたと考えられているクーデンホーフ=カレルギー光子は、さながら「EUの祖母」でしょう。
クリムトは裕福ではない家庭に育ちました。古今東西、裕福な家庭に生まれないと創作活動が持続できないことが多い芸術家としては、自由と多様性が尊重された”世紀末”のウィーンで生きたからこそ、優れた才能を発揮することができたのでしょう。クリムトは”世紀末”という時代のみならず、”多様性”の寵児でもあるのです。
現在のウィーンの魅力を造った皇帝の物語
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