私のつれづれ草子

書き手はいささかネガティブです。
夢や希望、癒し、活力を求められる方の深入りはお薦めしません。

NO!といえる私

2009-04-11 | 15雑観
華美にならず、わがままを言わず。
ちょっと変わった環境に一人っ子として育った私は、周りの大人たちに都合のいい私であるよう、上手くコントロールされてきたような気がする。

結局のところ、そうそう都合のよい私のままではいなかったのだが、いいおばさんになってもある種の呪縛から逃れられず、冒険ができないし、あと一歩が踏み出せない。

無難な安全圏で、静かに居続ける傾向がある。

自己主張をしない私が、多分本来の気質を発揮するのは、静かに観察し続けた結果、受け入れ難いあるいは同調しかねる事柄に対して「NO!」と言う時である。

限界点を超えて、拒否モードに入った時の私の頑なさは、いつのころからか周知の事実らしく、私の拒否スイッチが入ることを密かに恐れている人がいるのを知った。

私が「NO!」を突きつけると、もうお手上げらしいのだ。

本当は「YES」と言える自分に未だ憧れていたりするのだが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

性善説か性悪説か

2009-04-05 | 15雑観
性善説に立つのか性悪説に立つのかによって、思考は全く異なった経過をたどるだろう。

生きる時どちらに立つのがより楽かと考えれば、どうかなぁ。

日本の教育では性善説をとっている場合が多いのだろうけれど、年齢を重ねるうちに、小さな悪事を重ねる他者を目撃したりして、結局のところ性悪説に傾いていくことが多いのではないだろうか。

安定した社会にあるときは、一生を性善説に立って終えることのできる人も多いのだろうが、こう乱れてくるとね。

単純に、経済的環境によって善悪が決定される訳でもないところがもどかしい。

私は、お嬢さん学校でならした学校に通うお嬢ちゃんが、いわゆる窃盗に類する犯罪行為に何のためらいもなく走るのを目撃して以来、経済的物差しが善悪の判断基準にはつながらないと悟ったけれど。

昔から子供の童話などには、経済的に豊かな家の意地悪な子が、貧しい家に育つ健気な主人公をいじめる…なんてストーリーはありふれていたけれど、雑多なストレスやコンプレックスが人間をゆがめてゆくものなのだろう。

初め性善説に立っていた人間が、性悪説に転向して行く過程が、一番生きにくくて面白くない。初めっから性悪説で生きていれば、変わってしまった自分の感覚を嘆く必要もないのだろうから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お金の使い方

2009-04-02 | 15雑観
私が一番きれいだったころ、某上場会社のある管理職のオジサマがのたまったフレーズを、今日、不意に思い出した。

「どんなふうに、どれだけお金をかけてもらったかで、人はつくられるものだよ」

見所のある若手社員を高級クラブに連れまわし、その領収書を経理に回すに際して出た台詞だった。

仕事に対しても、社内の勢力争いについても、熱い情熱をもつその方は、受験から得た知識と、職場内での情報に偏りがちなエリートの若手を、海千山千の高級クラブのおねーちゃん達と会話させることで、何かしら学びとってほしい…と期待しておられたのだ。

そうした一見無駄な出費や経験が、人の厚みをつくり深みをつくる…という考えからだが、とても頭のよい(学歴ではない!本当に頭の回転がシャープでなお且つ人の心情に敏感)その方の話には、いつも説得力があった。

多分一方では、満開を過ごして葉桜になりかけている私に
「つきあうのなら、しっかりお金をかけて自分を成長させてくれる男とつきあえ」と諭しておられたのだが。

それとても、まったくもって男の論理で、やはり私は、私なりの選択しかできなかったけれど。

そして今日、実家の古屋を片づけていて思い当たったのだ。
お金の使い方、お金のかけられ方という話に。

たいして価値もないのに、きちんと折りたたまれ、しまい込まれた雑多な紙や布、衣類。
良いものなのに、使わないまま棚の奥にしまい込まれた食器や陶器といった道具類。
廉価なものをくたびれるまで使い、新しいものはその存在を忘れられるまで人知れず保存され、時代遅れになっていく。

我が家のこの処し方では、私がこんな風になっているのも道理か。
無理もない…と思った次第。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野次馬スピリット

2009-03-27 | 15雑観
現在の住まいに居を移して、発見したことがある。

自分が、非常に物見高い野次馬気質の持ち主であるということである。

前面を昔の街道に接した住まいなので、日に何度も緊急車両のサイレンを耳にすることになる。

特に深夜の緊急車両の音ははっきりと聞こえ、私は必ずどこかの窓からこっそりと覗いてみるのを習慣としている。
現場に出かけて行ってまで様子を確認する訳ではないので、まだしも…と思うことにしているのだが、非常に下品で野次馬気質にあふれる自分を認めざるを得ない。

これ、自分のいる環境の安全を確認しようとしている訳で、防衛本能の高さでもあると思うのだが、それでは良く言いすぎるか。

基本的に自分に影響しない他者のことについて、恐ろしく無関心な性質なので、このスピリットは、家ネコが他のネコが我が家の庭に現れたのを確認するや、うち中の窓をめぐって監視するのに似ている。

野次馬ならぬ野次ネコっていうところだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

建築家 安藤忠雄

2009-02-26 | 15雑観
建築家の安藤忠雄氏が、ちょっとしたマイブームである。

先々週だったか、BS朝日の「一期一問」とかいうインタビュー番組で、安藤氏の語りを聞き、すっかり心奪われたのだ。

自叙伝を出されたと聞き、早速取り寄せる。
歯切れの良い、さっぱりとした文章に益々惹かれる。

もう少し低価格であれば、何冊か取り寄せて友人に配り、布教?したいような気分でさえある。

氏は、こよなく日本を愛していらっしゃる。
100年に一度の厳しい経済状況下で、一流の建築家であっても楽ではない経営をなさっているだろうが、このまま危機に呑まれることなく、這い上がることのできる勤勉さと根気強さを持つ日本人の復活を信じていらっしゃるのだろう。

一昨年亡くなった黒川紀章氏も、晩年は日本の政治を憂えて政界に打って出ようとなさっていた。

勤勉で大人しく、共産国以上にある種平等な社会を形づくっていた戦後の日本人が、すっかり変貌してしまったことに危機感を覚えていらっしゃったに違いない。

歴史に耐えて長く残る建築物をつくる、一流の建築家ならではの視点があるような気がする。

昨日は、そんなことを考えながらNHKラジオの「ラジオ深夜便」に出演されたインタビューを聞いた。
一昨日も安藤氏のインタビューだったらしい。
聞き逃したことが残念だ。

4~5年もののミニコンポに初めてラジオアンテナをつなぎ、録音の準備をした。
ラジオはとんと聞かなくなってしまったが、言葉がすべてであるから、NHKラジオの日本語のクオリティはまだまだ高い。

昨日は「ラジオ深夜便」の宣伝をするも、ことごとく「今、我が家にラジオはない」という返答が返って来て、少なからずショックを受けた。

地震がきたらどうするの?
情報源はラジオでしょう!

…というのも、もう古いのだろうか?

ここしばらく、我が家を訪問する人は、ほぼ強制的に安藤忠雄氏のインタビュー録画や録音を聞かされ、本は貸せないが素晴らしい!と講釈する私の布教にあうことになるだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鬱の時代

2009-02-23 | 15雑観
昨日、NHKスペシャルを見た。
鬱で苦しむ人100万人時代だそうである。

びっくりしたのだが、精神科の専門的臨床研究をしなくても、医師であればメンタルクリニックの開業ができるのだそうだ。

…という訳で、外科や整形外科、内科などと違い、机と免許があれば少ない資本金で開業できるメンタルクリニックを始めるDr.が増えているとか。

結果が明確に現れにくい分野だけに、適切な対応をされないDr.にあたってしまうと、人生狂ってしまう可能性さえあるわけだ。
怖いなぁ。
医療の世界はミスの許されない世界であるからして、Dr.は高い見識の人々であって欲しいと願うが、ますます人間に対する愛情なくして、損得勘定では渡れない時代になっているのかもしれない。

自殺大国ニッポンの大量鬱時代の到来が、メンタルクリニックの開院ラッシュを後押しをしているのは事実。

しかし、社会を挙げて、我が国は鬱状態に陥っているような気がする。

ニュースを見れば、目を覆いたくなるような無残な政界、財界。
庶民は総じて生活を格下げし、ちぢみ志向の国民性で、せっせと節約モードに走る。

自分のお金ではない税金を差配する国は、相変わらず上手い使い方をしているとも感じられない。

政策のありかたも、お金の使い方も、あらまほしき姿は「繊細かつ大胆に!」だと思うのだが、そう考えるのは決して私だけではあるまい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尊ぶこと、誇るべきこと

2009-02-21 | 15雑観
「全然勉強していなかったけど、受かったんだよね」
などという言い方で、入学、入社、各種資格試験の結果について語る人がいる。

センスがある。
あるいは自分は受験技術に秀でている。
もしくは、要領がいい…といったことを尊び、それが自分に備わっていることを暗に誇示しているのかもしれない。

しかし、それは愚かなことなのだとこの歳になって漸く認識している。

私も「一生懸命やった訳でもないのだが、なぜか受かってしまった」などと気のない合格を語り、仕事に就いたり、入学の権利を得たり、資格や免許を受けたことはある。

だが、それは所詮そこがゴールであって、それ以上の何の向上にもつながっていない。

尊ぶべきは、情熱をもって努力を積み重ねた上に、自分の人生を成立させ続けていることだ。
その場合、合格はスタートラインであり、その分野での成長と進歩が限りなく継続される。
努力の積み重ねの結果としての合格こそを誇るべきであり、如何に情熱を傾けて努力し続けることができるかどうかが人生の価値なのではないか。

なんてことを考えたりしているのは、建築家、安藤忠雄というひとの自叙伝をいたく感動しつつ読んでいるためである。

決してチャンスに恵まれていた訳ではない安藤忠雄氏が、エネルギッシュに並々ならぬ努力を重ねて、日本を代表する建築家になられたという事実に感銘をうけている。

と同時に、薄っぺらな自分を歯がゆく恥ずかしく感じるのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「雨の中の私」という絵

2009-01-14 | 15雑観
「雨の中の私」というテーマで絵を描かせ、それによって心理状態を診断するという心理テストを、健康ネタのTV番組でやっていた。

「実のなる木」やら「食卓の絵」やらと同じ要領で描いてみる。

私が描いたのは、草原の中央で天を仰いで手を広げ、横なぐりの激しい雨に、傘もなく打ちつけられる自分の姿。

やってしまった…という感じだ。

雨=ストレス(横なぐりの激しい雨は相当に強いストレス)
傘などをさし、雨から身を守ることができていれば、社会のストレスにきちんと対処できているということらしい。

なかには、家の中から雨を眺める私を描く人もあり、こうした場合、ストレスとは縁遠い、誰かから守られている要領の良い人…ということになる。

私のような絵を描く人は、激しいストレスに身をさらされている状態で、気分転換が必要なケース。

ストレス耐性が落ちてきているのは、ひしひし感じているところなので、病気にならないうちに、適度に発散しておかないと…。

状態が進むと、絵に描かれた自分は小さく小さくなり、そうして、降りしきる雨の直線に消されてしまうことになる。
そんな風になってしまうのは、悲しいからねぇ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

釈然としない

2008-12-14 | 15雑観
釈然としないのだ。

私のように、世間の片隅でかすかに息づいている存在でも、不況の気配をひしひしと感じているというのに…わが国の対応といったら。

信仰もないし、政治的イデオロギーも持たないが、普通の家庭や企業ではありえないバランスの膨大な借金を抱えながら、とにかく何かしなくてはとばらまかれる国庫金のばらまき先にどれ一つとして共感できない。

今必要とされ、守られるべきは
「寒い冬が来たけど命だけは保つことができるよ…」
「やる気が出れば、がむしゃらに働いて取り戻すこと、這い上がることもできるんだよ」
という「安心」と「希望」のはずなのだけれども、綺麗に整備された道だけを歩いてきたお坊ちゃま、お嬢ちゃま出身の政治家達には、所詮イメージできないことかもしれない。

社会は結局ピラミッドだと思うけれど、底辺が揺らいでしまうとその構造は維持できないはずなのだ。
どうせ使うのならそこじゃないでしょう…そこを固めたって、土台がボロボロ崩れて行っているもの。

私には何もできず、力もないけれど、余りに不甲斐ない感じがする。
十数年来の円高だけれども、この有様のわが国の通貨が、何故他国の通貨に比べて高くなりうるのか…。どうしても釈然としないのだ。

汚職で追い落とされたTという政治家がいたけれど、この際、多少ダーティでも、底辺から自分の力でたたき上げ、のし上がった人物に彗星のように現れてほしいような気がしてくる。
もちろん、良心のある人であることが最低条件だけれども、人の心をつかむのが上手で、決して恵まれてはいない環境から、のし上がる為のノウハウとセンスを磨いた存在の「たたき上げ」っていうのは、復権の時を迎えているのではないかという気がする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

捨てる

2008-12-12 | 15雑観
基本的に捨てられない家系なのだ。
父も母も、祖母も、みんなとってもものもちのよい人々だった。

いつまでも、いつまでも古いものに囲まれていること…あるいは、ほとんどゴミでしょう…と思われるものがきちんと整理されていつまでもしまわれている環境が、とてもいやなことだったのだけれども、気がついてみれば自分も捨てられない人になろうとしている。

捨てないことで救われたこともあったが、捨てる決断をする前には、それなりの覚悟で価値判断し、フィルターにかけているので、そうした整理作業を怠って来たと言った方が良い。

ものぐさな自分が、のろのろと一つ一つのファイルを手に取り、選別をする。
単純な行為なのだが、一つ一つの有意味か無意味かの判別は、真剣な作業であり、やり直しの効かない行為だ。

今日も、大物を4つ…多分、間違いなくこの先の私には不要であると判断を下し、大型ゴミの集積場に運んだ。
一時は確かにその役割を果たしてくれていたモノ…それを自分の手で葬ってやる。

環境事業局の職員の方で、誰かそれに目を留め、拾ってくれるなんてことはないだろうか、再生される可能性はないだろうか…と、かすかに希望を残しつつ…。
人生模様も、葬ったつもりがひょんなことから復活…なんて展開も全くないわけではないのだから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする