私のつれづれ草子

書き手はいささかネガティブです。
夢や希望、癒し、活力を求められる方の深入りはお薦めしません。

魂の記憶?

2009-07-21 | 15雑観
スピリチュアルなものとか、占いとか、前世とか…信じない私である。

しかし、先日、スピリチュアルなものを看板にする某番組を見ていて考え込んでしまったことがある。

私には、悲しみも怒りも特異な感情も抱えてないにも関わらず、訳もなく涙がでてしまうことがある。

美容院に行って髪をカットしてもらっているとき。
また、自分以外の鍼灸師に鍼施術をしてもらっているとき。

相手に何ら語るべき感情が無いにも関わらず、しばしば目じりから涙がはらはらと溢れてしまうのだ。

そばにいる相手は面食らう訳だが、説明すべき何らの理由もないのである。
こうした状況を某番組では「魂の記憶が涙を誘うためだ」といった説明をしていた。

ほほぅ。
「魂の記憶」のなせる技の訳だ。

私の「魂の記憶」に何が刻まれているというのだろう。
その根拠となるドラマを、是非とも解いて聞かせてもらいたい気持ちにとらわれた。
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時事放談

2009-07-17 | 15雑観
子供のころ、日曜朝の我が家のテレビには「時事放談」が必ず映っていた。
チャンネル権をもつ父が、リビングのソファーに体をうずめて眺めていた。

細川隆元や藤原弘達といった和服の似合う爺様方が、日本の政治状況について「あーでもない、こーでもない」とやりあう番組だったという記憶がある。

政治評論家のはしりだったろうか。

ここに出てこられる爺様方が私は嫌いではなく、密かに「時事放談」ではなく「爺放談」と呼ばわっていたような。

このブログ「おばば放談」になっている。

言いっぱなしで、責任とれないしとらない。
もちろん金も力もありゃしない。
ただ、ギャアギャアと吠えるだけのことである。
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嫌いになってしまうと

2009-07-13 | 15雑観
嫌いになってしまうと、どうにもこうにもならなくなる。
(どうにもこうにもならなくなる…は方言か?ちょっと懐かしい響きだ)

数か月前、ある会議で(怒りにまかせてブログにも書いてしまったが)、その立場にあって、信じがたい残念な発言をなさった年配の女性に対する嫌悪感が収まらないのだ。

次第〃に老いが隠せなくなっていらっしゃるが、相変わらずお達者な声を響かせておられるその方の声を聞くや否や、こめかみがピクピクして、体全体がこわばるような気がする。

そんな時は、目を決して合わせないように会釈だけして、彼女の前を通り過ぎるのだが、またまた直接対峙せざるを得ない局面が訪れた場合、果たして私は耐えられるだろうか。

御自身の人生に対して確固たる自信をお持ちになっていて、派手に発信しておられるものの、衰えは隠せず…それとも、天然の御性格なのか、何度も何度も、同じ相手に対して同じ発言をなさる。
デリカシーのない君主型の発言を…。

「そのお尋ねは、このシュチエーションで確か3度目だと記憶しておりますが…」と、言ってはならない切り込み方を、私は止めることができるだろうか。

「押さえて、押さえて…」と、私をなだめる声を強くする必要がありそうだ。
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同じDNAに連なるもの

2009-06-29 | 15雑観
TBSのドラマ「ぼくの妹」最終回を見た。

千原ジュニアという、絶対に只者ではないはずのキャスティングがあったりして、サスペンス調のドラマの始まりだったが、回が進むにつれ、凡庸と言っていい位の淡々と心温まる兄と妹のエピソードになって、健全で、まっとうな日本人の兄妹愛を綴って終わってしまった。

オダギリジョーは相変わらずとっても上手くて、彼の演技が好きな私にとって、それはそれで良いドラマだったとは思うのだけれど。

同じDNAに連なるものが、同じ環境で共に成長し、過去の記憶と未来の可能性がしっかり保たれる時、ああした温かさが生まれるのだろう。

人間の生きる目的がDNAの継承と存続だとすれば、その過去と未来の間に連なっていることはこの上ない安心感を生む。

私のごとく、連なったあるDNAリレーのアンカーとなってしまい、過去はあってもこの先未来はないと覚悟する時、ひどく空虚で心もとない感じにとらえられるのは当然のことなのだ。

近頃感じる孤独感は、多分そこら辺に起因すると確信することだった。
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人間って孤独

2009-06-27 | 15雑観
人間って孤独な生き物だなぁ…と最近しみじみ思う。

昔から、そうしたことを感じない性質だったが、近頃周りにおひとりさまの覚悟を決めた人物が増えてきている為か、それとも、生物としての衰えが切実になってきている為か、降るでもなく、照るでもなく、鬱々とした季節の中で感じる想いである。
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需要と供給のバランス故?

2009-06-08 | 15雑観
先日「ドライビング Miss デイジー」という映画をテレビで観て、大変気に入ったので即座にアマゾンで検索をかけたところ「只今お取り扱いできません(在庫切れ)」という表示が出ていたのだが、今日検索をかけると、デラックス版・通常版もと数点の出品がなされている。

新品は定価の数倍で価額が設定され、中古品もそこそこの金額。

ここ二~三日で需要が発生して、バタバタと出品が相次いだのだろう。

需要と供給、人気・不人気の道理がきっちりと実現していることに驚くのであった。
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魂のレベル

2009-05-24 | 15雑観
占いや霊的なものを信じる人間ではないのだが「魂のレベル」ってあると思う。

ある程度の社会的スティタスを持ちながら、地を這うような商売をしている人たちが好きで、そういう人たちとばかり関わる人がいる。

「君はもっとつきあう人を選ばないといけないよ」と、地位の高い年長者から言われた…と以前も言っておられた。

それでも、おそらくその年長者などに言わせれば、価値が低いと判断されるような人たちと関わることを好み、変わらずそういう交際が多い様子だ。

他者の人生なので、それに関与するものではないが、見ていて「惜しいな」と思わざるを得ない。

人間は「こうすればより良い成果にたどり着く」とわかっていても、それとは異なる方向で、生きやすく、より良い成果につながらない選択をすることがままある。

私などもそういうチョイスをしばしばするが、その先には残念な結果、残念な現実が待っている。

これ、理論とか観念ではなく、魂のレベルの問題のような気がする。
魂の引力にはあがらえず、不条理にそちらに流され、引きずられてしまう哀しさがある。
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潮目

2009-04-24 | 15雑観
後になってみると「あの時、潮目だった」と思うことがある。

団体の一員で、その団体のムードが急激に悪くなって行く端緒をとらえたとき。

会社に属していて、決算が黒字に転換するきっかけとなった取引。

夫婦や親子がいて、互いの気持ちが急速に冷めていく端緒となった出来事。

潮目が記憶に残るのは、物事が好転する時より、悪化する時に多い。
その潮目を捉えて、よりよく立ち回ることが出来たとき、人生は滑らかに回転する。
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平将門

2009-04-21 | 15雑観
平将門は平安前期に乱を起こして敗れた坂東武者である。
敗れて後は怨霊として恐れられ、後に神田明神などに祭られて江戸を護る守護神とされている。

ケーブルテレビの時代劇チャンネルで「風と雲と虹と」という昔のNHK大河ドラマが再放送されていて、加藤剛氏が麗しい将門を演じておられる。

時間帯がなかなか合わず、継続して見れていないのだが、滅びの美学や、生きることに不器用な一本気な武者を是として描く演出が興味深い。

「判官びいき」なんて言葉もあるが、昔の日本では弱い立場の者、不器用な人間に対して温かかったような気がする。

「結果はさておき、その心情に誠があればそれはそれで尊い」とする価値観を、今の日本は失いつつあるような。
淋しいことである。
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異なっている感覚

2009-04-15 | 15雑観
ブログは日記であるからして、しばらく自分の備忘録としての書き込みが多くなっているような気がする。

ここ数日で、明らかになったことがいくつかあり、幾分スッキリした想いの私なのだが、意思疎通の図れない時、そこにはゼネレーションギャップと言ってよい観念の違いが存在していた。

例えば戦前の教育を受けた人々の
「親の為に子があれこれするのは当たり前」という観念と、
戦後すぐの教育を受けた人の
「親が子のためにするのは当たり前」という180度異なる観念。

この二つの相反する立場が、いつも私に釈然としない感じを抱かせていたのだ。

すべての人がそうだというものではなく、これは私の周りの老年に差し掛かった限られた人々がサンプルなのだが、観念が全く異なる人同士がいるとき、その人間関係は決してしっくりゆかない。

基本的人生の観念は変え難く、相反する観念をもって生きる人々が、ぴったりと寄り添うような共感を得るチャンスは、恐ろしく少ないだろう。

そうした条件下で、現実が積み重ねられてきたことをじっと静かに眺める、どちらともつかない立場の私である。
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