私のつれづれ草子

書き手はいささかネガティブです。
夢や希望、癒し、活力を求められる方の深入りはお薦めしません。

介護の世界も金次第(4)

2009-05-13 | 3老いる
ここに書くことは事実であるが、決して批判や告発といった意図はなく、単に自身の思考を整理し、記録としてとどめることを目的としている。この点、明記しておきたい。

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そもそも、老人介護保健施設は切ない存在である。

施設のサービスが功を奏し、結果利用者の介護度が軽くなると、それは介護報酬の減額という形で還ってくる。

生死の境をさまよって後「決してよい状態ではないが安定している」という理由で、病院から老健へ居場所を移した場合、老健の立場はますます複雑だ。

移動後すぐに亡くなったり、病院へ逆戻りする程の悪化をみた場合には、施設の対応が問われ、施設内の利用者や介護スタッフのムードは悪化し、評判の良し悪しに影響する。

質のよい対応によって顕著な改善がみられ、よりよい状態で安定をみた場合、もちろん利用者側は感謝を示し、その評判は高くなるが、要介護度のグレードが最も高い層において、それが自発的居宅での生活へつながることはほとんどない。

結果、長期入所による介護報酬減額を見込まなくてはならなくなるからだ。

そんな現実を見ていると、ことさらに「命の重みには差がある…」と考えずにはいられない。

要介護度の高い父の命を考えるとき、生産性もなく、費用計上があるばかりで、国家や社会における彼の価値は、誤解を恐れずに言うならばマイナスでしかないだろう。

彼が存在することによって消費される金銭を、利益として享受する組織がある場合には別だが、それとても相対的により利益率が低いと評価されれば、彼の存在は賞味期限切れということになる。

それでも思うのだ。
数字や目に見える形での価値はなくとも、あの生命力のたくましく尊いこと…と。

水と油のように、わかりあうことのない親子で、相容れないことばかりだった父だが、あの生命力に敬意をはらわずにはいられない。
あらゆる不自由を抱えながら、それでも生きようとする意志。
そのゆるぎない力は私にはないものであり、とてもとても尊いものだと感じるのだ。
コメント
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