新型コロナの感染増大と大雨警報警報発令が4県になったそうで、
困難の中にある方々のことを思うと簡単には書けず、祈るばかりです。
今日8月15日は終戦の日。ニュースも静かに感じます。
ブロ友さんのところでお母様に聞き取りをして書いた去年の
今日のリンク記事を読ませていただきました。
✿…・*゜'*,…。✿。.*…: ✿…・*゜'*,…。✿
十数年前に私も母に聞き取りをしてまとめた経験があります。
私の実家の西原町は沖縄戦で約半分の住民が亡くなった場所です。
母の体験記は西原町が平成23年に発行した「平和への証言」記載されています。
とても長いので掲載は難しいですが、
一部をご紹介します。
あと、時間のある方は、NHKが 2004年3月31日に
放送した番組をご覧いただけたら嬉しいです。
番組の中で城間期一さんが何度も出て証言しておられます。
現地召集、16歳でした。その時、兄は数え5歳でした。
戦後、城間さんは兄の担任になり、兄に目をかけてくれた先生でした。
母の体験記より
・・・・・・・・・・・・
4月4日頃、私の家のすぐ近くの道で沖縄の初年兵、4人が道の横に
並んで立っていて、上官からビンタを張られるのを見ました。
其の理由は占領されたイトカマの陣地に決死隊、言わば切り込み隊
として行かされていたのですが米軍に機関銃で反撃されて攻める
ことが出来ず戻ってきた所を上官に見つかったのです。
米軍の電波探知機が余りにも優れて近寄れないと古参の兵隊さん
同士が話しているのを聞きました。そこへ初年兵たちは行かされた
のですが、戻って来た初年兵に上官は
「何故戻ってきた。此所は貴様等が生まれ育った地元じゃないか、
真っ先に貴様等が守るのは当たり前じゃないか。」と
さんざんに絞っていました。
こんな状況でしたから、当時の沖縄出身の初年兵は
私のでも生き残った方はいません。
ですから、戦争は絶対やってはいけないと思います。
・・・・・・・・・・・・
長女は家から持ってきたミルクもなくなり、
大事に取ってあった黒糖を水に溶かして飲ませました。
私の乳は全然出ません。
哺乳瓶は吸い口を噛み切ってしまっていたので
湯のみ茶碗から飲ませました。
其の内お腹を壊して水を欲しがりました。
茶椀を見せたら砂糖水と分かって飲むのを嫌がり、
右からあげようとすると左に首を振り、
左からあげようとすると右に首を振り、
砂糖は飽きているようで急須を見せると
水と分かって、口をあけてハアーハアーハアーしてくるのです。
その顔は、骸骨みたいになってしまっていました。
其の頃の次男と長女の顔は、何時までも忘れる事が
出来ず、私の心の中に生きています。
(二人とも栄養失調で亡くなりました。「今なら死なせずにすんだのに、」
と母の口癖でした)
・・・・・・・・・・・・・
当山から6月の暑い日、砂利を固めて地ならしされている道は
照り返しがきつく、おまけに裸足なので足の裏は火傷しそうな程でした
。名前も知らず何処をどう歩いたかも憶えていませんが、
2里近くは歩いたでしょうか。
やっと百名の収容所に着きましたが、収容所の前で係りの人が
手を振って、
「此処はいっぱいだから、もっと南へ行きなさい。」
と言うのです。
気を取り直してまた、歩き出しました。
私の長男は、数え5才でありながら義兄に手を引かれ、
夏の焼け付くような道を歩きました。
長男は漏れそうになる嗚咽を飲み込み、
声を立てずに涙を少しづつ流しながら歩くので、
義兄は、「もう少し行ったら、アメリカさんが車に乗せてくれるよ。」
となだめながら
歩き続けて、夕方4時頃に知念の収容所で落ち着くことになりました。
実は、知念の収容所も
いっぱいで安座間と屋比久あたりに行けとの事で、私たちは其の場へ
へ垂れ込んで座っていました。
・・・・・・・・・・・
戦争の苦しみは筆舌で言い表す事は絶対に出来ません。
娘を亡くし、残った次男も日毎に痩せていきますので、
知念から一里以上も離れた百名の診療所に負んぶして行きました。
次男の病気は栄養失調と言われました。
此所では、朝の8時に係の人が115名に診療の順番を紙切れに
書いて渡しますが、これから外れた者は帰されますので、
朝5時半頃に家を出ました。
百名の診療所で私の隣に4才位の男の子を抱いて座っている
嫁姑さんがいて、母親に抱っこされている男の子の顔色は、
まるで死人の様な真っ青な顔をしていました。
このお婆さんの話によると、米軍がすぐ後方に
迫って来ているという事で、一緒にいた衛生兵が、
小さい子が泣くと一緒に入っている大人の人たちまで危ない、
と言って注射して死なせたり、お婆さんの孫には親が
拒むのも聞かずに、水に浸したハンカチを無理に口の中に
押し入れて肺を悪くしてこうなったんだと
話されました。そのお婆さんの話では、その兵隊さんは
お婆さんの隣の真壁の人で
お婆さんがよく知っている人だそうです。
お婆さんはその時大変興奮なさって、もしこの子が
助からなかったら
「どうせ命は一つ。刺し違えて死ぬ。」と言われましたが、
その後、一度も会わなかったものですから、多分あの子は
助からなかっただろうと思います。
お婆さんの話では、注射されて死んだ子供の親達は、
その5分くらい後で捕虜にされたそうです。
なんとも背筋が寒くなるような話です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
その時 歴史が動いた さとうきび畑の村の戦争~新史料が明かす沖縄戦の悲劇~
2004年3月31日放送
お出でいただきありがとうございます。