ブログ やさしい雨が降る

片山日出雄さんのこと・その4

(写真も文章も「百万人の福音 2006年8月号月号」から転記しております。)


 片山日出雄は戦時中、海軍の若き通信将校としてインドネシア・アンボン島に配属された。その島で起こった連合軍捕虜の殺害事件に関連したとして戦後、BC級戦犯裁判に送られた。しかし、彼に死刑の判決を下したわずか四日後のスピード裁判は、いまだ多くの謎に包まれている。

 片山大尉とその部下に捕虜の処刑を命じた直属の上官たちは、なぜか罪を問われることなく戦後帰国している。
彼らは「そんな命令は出していないし、何の証拠書類もない」と関与を否定し、周到なアリバイ工作までしていた。

 一方オーストラリア側の軍事法廷は、上官の命令に苦悩しながらも、命令を拒否しなかった片山の責任を追及した。
その判決は進んで自首してきた片山のため、あえて情状酌量を訴えたオーストラリア人検事ですら驚愕するほどの厳しいものだった。

 戦犯刑務所の虐待は日々苛烈さを増し、かっての戦友たちの処刑が次々と始まるなかで、片山は周囲の人々の激しい苦悩を見て、自分の使命に目覚める。
得意の英語を駆使して人々の減刑のために奔走し、同時に周囲の死刑囚とともに聖書を読む集まりを始めた。
豪軍チャプレンに来てもらい、死刑前日に仲間が洗礼を受けるといったことも起こり始めた。
やがてその波紋は、次々に刑務所の中に広がっていった。

 自分の再審請求がかなわないことを悟ったと思われる1946年9月、片山日出雄は信仰の遺書ともいうべき「日本のキリスト者の皆さまへ」題する長文を著している。

 片山の筆になるその英語版「ToAll Japanese Christians」(全9頁)は、当時、豪軍兵士たちにも読まれ感銘を与えていた。現在、首都キャンベラの戦争記念資料館にもその全文が保存されている。

 片山大尉の処刑は、ラバウルで執行された最後から三人目であった。
収容所内全員の名前で提出された助命嘆願書は、ついに受け入れられなかった。
その後、彼を敬慕してやまない人々の手で、片山日出雄が遺した日記や遺書、手紙は詳細に書き写され、危険を冒してまでも日本に持ち帰られ、密かに遺族や関係者のもとに届けられた。

 戦争という人類最大の殺戮の渦の中に巻き込まれ、うめいた人々。その大きな闇のなかで輝いていた光。それを見た人々の心に、そのふしぎな光はいつまでも燃え続けることになったのだ。

                                                        続く

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