画家にはその画家だけが観える風景があります。
この風景は必ずしも「風景画」と呼ばれるジャンルのことではなく、
世界または時空とでも言い換えましょう。
その世界を描きだすのに、色は命のようなものです。
その色は描こうとする対象物の色もありますが、
現実にはそこに見えない、いわば心の中の色があります。
たとえば、「あのときのアノ空の色」だとか「薄汚れたあの露地の空気だ」
などと、具体的なイメージでありながら、現実に作り出せなくなってしまった色があります。
技術的にはどうにもなるのですが、肝心要の精神的なエキスを忘れてしまったのです。
ばくとして「アノ時のアノ色なんだ」と思い起こせるのですが、
ナニカその色にまつわるエキスの様なものがたりないのです。
それは色の組み合わせに微妙に違いが出てしまい「ナニカが違う」とかんじてしまいます。
以前の習作を取り出してみるのですが、単体に其の色が調合できてもチガウのです。
いまひとつ精神的なウラズケがなく、納得のいく色の組み合わせが
できないのです。
それは、作品の意図を左右するほどのことでもなく、製作中の精神的なことともいえます。
蛇足ですが「どうしてもコレダ」ということは何も画家ばかりではなく、
知り合いの音楽プロデュースの方は「アル音」にこだわり、
ココの音はバリ島できいた蛙の声でなくてはと、録音に出かけたそうです。
そのようなことは珍しくなく、人はどうでもよく自分が納得できなくてはならないのです。
其の時そのときの想いが、芸術家の財産なのです。
芸術家というのはまことにやっかいな人種なのです。
写真は「輝くもの」
完成はしているのですが、青色は秋のヨーロッパの空、しかもアノ部分の色をイメージしているのですが・・。
この風景は必ずしも「風景画」と呼ばれるジャンルのことではなく、
世界または時空とでも言い換えましょう。
その世界を描きだすのに、色は命のようなものです。
その色は描こうとする対象物の色もありますが、
現実にはそこに見えない、いわば心の中の色があります。
たとえば、「あのときのアノ空の色」だとか「薄汚れたあの露地の空気だ」
などと、具体的なイメージでありながら、現実に作り出せなくなってしまった色があります。
技術的にはどうにもなるのですが、肝心要の精神的なエキスを忘れてしまったのです。
ばくとして「アノ時のアノ色なんだ」と思い起こせるのですが、
ナニカその色にまつわるエキスの様なものがたりないのです。
それは色の組み合わせに微妙に違いが出てしまい「ナニカが違う」とかんじてしまいます。
以前の習作を取り出してみるのですが、単体に其の色が調合できてもチガウのです。
いまひとつ精神的なウラズケがなく、納得のいく色の組み合わせが
できないのです。
それは、作品の意図を左右するほどのことでもなく、製作中の精神的なことともいえます。
蛇足ですが「どうしてもコレダ」ということは何も画家ばかりではなく、
知り合いの音楽プロデュースの方は「アル音」にこだわり、
ココの音はバリ島できいた蛙の声でなくてはと、録音に出かけたそうです。
そのようなことは珍しくなく、人はどうでもよく自分が納得できなくてはならないのです。
其の時そのときの想いが、芸術家の財産なのです。
芸術家というのはまことにやっかいな人種なのです。
写真は「輝くもの」
完成はしているのですが、青色は秋のヨーロッパの空、しかもアノ部分の色をイメージしているのですが・・。