・1995/01/17 05:46
・我々は震源地より少し離れていたので被災はまぬがれたが、あの時を思い出して下記します。
・私は未だ2階のベッドで寝ていたが、突然、縦揺れが起こり身体が突き上げられて目が覚めた。地震だ!、屋根の瓦がガサガサと音がして、寝ていても、もう駄目だと思った。
・揺れが収まって、階下へ降りてみると、食器棚のガラスが割れて食器が散らばっていた。
・ここはプレファブメーカが開発したニュータウン内です。我が家はプレファブ住宅であったので、家の損壊は免れた。後からプレファブメーカーの発表では、このメーカーのプレファブ住宅の損壊はほぼ0とのことであった。(我が家の近くの木造住宅は数個が損壊していた。)
(ライフライン)
・水道は近くの道路で水を噴き上げて漏れていた。自治会から水を備蓄してくださいとの連絡があり、浴場のバスタブに水を張った。断水したが、夕方には復旧した。
・電気は停電したが、夕方には復旧した。
・ガスは停止せず。
・風呂はすぐ使えたので、翌日から、神戸市内から親類・知人が入りに来た。
(コンビニ)
・すぐ近くのコンビニは夕方には、水を含め、すぐ食べれる食材の棚は空っぽになった。
(通信)
・家の固定電話や携帯は使えず。 近くの運動公園内にある公衆電話が通じるのみ、近所の人たちと一緒に並んで順番待ちをして、安否確認を含めて連絡をとった。
(交通)
・公共交通機関は全滅だった。 3日後に開通した、神戸港から大阪へ海上交通が当面の唯一の移動手段であった。
・道路も家の倒壊やがれきで殆ど通行できず。
(仕事)
・神戸中央区にある本社ビルの建物は5棟とも倒壊で、仕事する場所が無くなった。
・会社からは、当分の間、自宅待機の連絡が入っただけだった。
・丁度、JICAのルーマニアの調査業務の報告書を作成中であったが、倒壊したビルの中へ入り、ガラスが飛び散り、ぐしゃぐしゃになった机や書棚から関連書類を取り出して、新幹線で東京支社に移動して作成した。
(給料)
・1/17に被災して1/25に給料が支払れるか、出社もしていないので、心配したが25日にちゃんと振り込まれていた。(この作業も東京で行ったらしい)
・この時、世間で問題とされたのが、コンピュータのデータの分散保存の場所をどのようにするか。
(従業員)
・会社の従業員では1人犠牲になりました。木造2階建て住宅で家族で1階に寝ていて、倒壊した家の下敷きになりご夫婦で亡くなくなられました。私の同僚でカタール、リビア、ベネズエラなどで一緒に海外プロジェクトで赴任した人でテニス仲間でもありました。
以上
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