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読書の森

切なく懐かしい高田老松町

料理は「赤青黄」と捉えると楽、と言いましたが、これは肉、野菜、芋類のイメージですね。
見た目は良いしわかりやすいからです。

女子栄養大学から出た昭和40年代の料理本ではこんな感じです。鶏肉の唐揚げの献立。鶏肉、さつまいも、ピーマンの揚げ物、秋茄子を酢であえたもの、麩のすまし汁です。9月の料理でお手間要りですが、これがお手本の一つ。
昭和最盛期、電子レンジも無い時代、時間や労力をかけて、かなりボリュームのある献立を作ったのですね。

同じ本の4つの食品群で一日の摂取量の目安があります。それほど高価ではないですが、手間暇考えると、今はちょっと気が遠くなります。

もっとも、このような食事を作ってた奥様がかなりいらした時代。熟練専業主婦が非常に多くて、食生活が豊かになった時です。
それは若者が圧倒的に多い時代でもあります。

同時期、都内で両親と住みながら、諸事情に耐えかねて、勇躍下宿生活を始めようと決心したのが大学二年生になる春休みの事。
これは以前のblogでも何回か触れてます。

小学生の頃よりお年玉などガッチリ貯金してた私(ホントです。一人っ子で親類は殆ど全部年上でしたから、かなり貯めたそのお金を全部叩いて決意した独立生活です。大学の生協で紹介された物件を当たって、一番惹かれたのが、文京区高田老松町(当時の呼称)の普通の二階屋のお宅です。
一体は江戸時代の武家屋敷の名残りが残る閑静な住宅街、大家さんが60代の上品な未亡人、女性ばかりの下宿人が私を入れて4人、跡見女子短大、日本女子大出の姉妹、
そして早稲田の私。
都電早稲田車庫辺りから急坂を登って、ちょっと歩くと昔懐かしいその家の門です。(今は無い)
その場所の雰囲気がとても好きでそれで選んだ下宿でした♪

面影橋とはちょっと(かなり?)離れてます。以前近いような事言ってごめんなさい。

下宿のおばさんの甥っ子が別棟で住み用心棒役、門限が決まって、おばさんと女性は台所もトイレも共用でその古い家に住んで、夜は皆一緒にお茶の間でTVを観る事もあり、嘘みたいに古〜い道徳的(?)な下宿でございます。
ポン女出のお姉様たちは知性と教養豊かでおまけに金持ち、ちょっとお高い、親元に帰ればお見合いを迫られるので、花嫁修行と称して当時の女子栄養学校に通ってたのです。

私はこの女系家族的な雰囲気がとても快適で、この場所で心身共に危険な目に遭う事は100%近く無かった筈なのに、、、。
両親は目が届かない所に行った一人娘が気になって仕方ない。私もこのままじゃ貯金も無くなる(アルバイト収入はたかが知れてる)。
それであえなく大田区に戻ったのです。

由緒ある名の高田老松町の辺りは翌年(1947年)文京区目白台と変わりました。

その近くにある松聲閣は毎年サークルの卒業生の追い出しコンパの会場になった所です。
今現在は非常に敷居が高くなってます。
江戸の昔、細川様のお屋敷に立派な松の古木があって、「高田老松町」はそこからついた名前だそうですよ。


思い出の中でも、美味しい料理は出てきます。
が、最近はひたすら節約。
髭根を取ったもやしとハム、パブリカの炒め物。貝割れを彩りに添えます。

追記:今じゃ見る影も無い婆が若かりし頃の写真を出すのはかなりみっとも無いので削除しました。
昔のサークル仲間が当blogを読んでるみたいでつい出してしまいました。

諸事情についてバラすと、父親の仕事がかなり波があって親戚(大田区の工場経営に関わるおば達)の援助受けてたし、家が非常に狭かった為です。
なので父親は伯母の住むアパートの隣室の家賃を払って迄近くに住まわせたかった。
ところが子供の無い伯母が私に父母が離婚するとか(ガセネタ)言い出したのです。自分は工員と不倫してる。
工員さんは気の良い人は多いけど結構卑猥な環境だった為そこで育った小学校の頃性的虐待にあいます(なにしろ居候で誰にも打ち明けられない)。なのでこの環境最悪でした。
要するに私の血族(祖母、伯母、叔母たちの)の私の母への嫉妬から始まった話で、それに幼稚だった私がめちゃくちゃ傷ついた訳です。




読んでいただき心から感謝します。 宜しければポツンと押して下さいませ❣️

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