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『狭き門』は母より私にとって残酷な本だった。
「狭き門より入れ 滅びに至る門は広く
その路は易し」
聖書の一節であり、ジイドはここから題名を付けたのである。
こんな無理な倫理を美徳として頭の隅に置くのは、本来(多分)享楽的であった若い娘にとって葛藤を生みやすい。
ましてや肉体の愛は本当の愛じゃないと決めつけられると、「そうかも知れない」と思える。
相手はキリストである。
太刀打ちが出来ない。
しかし、遅すぎたが、この年になって、
『狭き門』も文学、田村泰次郎の『肉体の門』も文学と割り切れる様になった。
政治社会学その他と違い、何が正しい何が間違っているという事はないのが文学芸術だと思う。
この許容範囲の広さこそ文学芸術の最大の強みだと思う。
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さて、『狭き門』は実話であり、ジイドはアリサのモデルである妻を娶った。
そして二人は生涯肉体関係を持たない白い夫婦だった。
もっともジイドは肉体的に同性愛者であり、他の女性とも関係があったという。
こういう夫婦は日本でも現実にあった。
性的に不能なわけで無い。
岸田俊子は明治期男女同権を唱えた才女である。
彼女は初代衆議院議長の中島信行と結婚したがプラトニックラブを通したとか。
非常に仲睦まじく暮らしたそうだが、中島の肉体に欠陥があったとか噂は流れた。
思うに、肉体関係は馴れると飽きやすいが、精神的結びつきは馴れる程壊れにくいのか。
一口にこうと言えないものが男女の間柄である。
名作『狭き門』よりだいぶ逸脱してしまった。
ただ、純愛はいつの時代でも憧れとして若い世代に生きてると思う。
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母に恋人(ボーイフレンド)がいた事は確かです。
しかし果たして『狭き門』を彼が送ったかどうかは知りませんよ。
だから、凄い妄想の恋物語かも知れず、事実は結構面白くないものかも。
というのは、母はいつも母の姉に監視されて、結婚してからもですよ、幼馴染と会ってたのです。