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冷たい夜の事だった。
外の雨音が急に強くなった。
「今夜はもう誰も来ない」
小料理屋「海峡」の女将、瞳は店仕舞いをしようと立ち上がった。
繁華街を外れた裏通りに、瞳の店がある。
小料理屋と言っても、作り置きの料理を出すだけの安酒場と言っていい。
今は瞳一人で切り回す小体な酒場に、馴染み客がつき、かつかつの暮らしを営む。
瞳が店の暖簾を降ろそうとした時、男が飛び込んできた。
コートの衿から雨の雫が落ちていた。
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「熱燗一杯!」
男は粋な見なりと顔つきをしていたが、どこか荒んだ雰囲気があった。
瞳は「何処かで見たような感じ」を男から受けた。
ともあれ、気を立て直して愛想笑いを浮かべた。
「おつまみ出します?」
「ああ、裂きイカと酢の物な」
又、何処かで聞いた声に思えた。
「気にしない。気にしない」
この客を帰したら、店を閉めて、休もう。
温かい風呂と温い布団、色気のない願いだった。