在宅の仕事が普及する時代になりました。
私は普通に歩く事が困難になった50代の終わりから在宅ワークを考えるようになりました。
添削指導員の仕事に就きましたが「収入が少ない、将来年金だけでやっていけない、どうしよう!」
そこで、行きついたのが「小説家」でした。
もともと夢見がちの両親で、父などは「小説家のお嫁さんになりたいんだろう。文筆業がむいてる」なんて本気で言ってました。
本人は、自分が夢見がちで、妄想(想像)力の人並外れて凄いこと、作文がちょっと得意なこと、以外に小説家に向いてる要素はないと早い内から諦めてました。
母の希望するようなキャリアウーマンなんて私の学生当時は無理、脚の弱い自分は平凡な主婦が一番安心安全と思ってたけど、運命は全然希望通りにいかなかったのです。
お陰で仕事を得て貯金もできて初めて自分の家(オンボロ中古マンション)を持てた時に母と二人で穏やかな守りの人生を決めればよかったのに、なんの因果か家は手放し、将来の不安を感じた時に、又も浮かんだ「小説家への夢」でした。
全然ロマンチックでない話です。
その後、ブログで創作を始めました。今までたまっていた懐かしい思い、憧れ、夢、をほんのちょっとの事実を元に膨らませ、書きだして読者がついたら、これが面白かった。
殆どフィクションなんですが、このアイデアが次から次へと沸くのです。多分とても切なかった時期でしたのでその昇華をする目的もあって、それを又読んでくださる方がいたから作れたのでしょうね。
推敲も不足して、量も小説と呼ぶには不十分でしたが、作ってた時は高揚感があってワクワクしてました。
最近、雑誌で小説を志す人のために作家がアドバイスする記事をよく見かけます。
花村萬月が「小説すばる」に連載している小説教室を読むと、「なるほど」と頷く事ばかりです。
執筆する時に一番大切なのは「本能で書く」だそうです。
「内容は問わず」「読んでいるさなか、読み手には昂ぶりがあり、陶酔がある。頁を繰るのがじつに快感だ」これが大切です。つまり読者を乗せる勢いを持て、というのです。
三浦しおんも同様のことを言ってます。
小説を書く上で何よりも大切なのは物語を作るのが「好き」という気持ちだと。それから読者により伝わるコツが付随すると言います。
素人の自分が言うのはおこがまし過ぎますが、書く情熱や高揚感、その嘘(虚構)を面白いという思い込みがなければ、いくら冷静に客観的に事物を分析する力があろうと、文章力があろうと、読者を惹きつける小説は書けないと思うのです。
かって売れっ子だった作家高橋克彦は最近全く書けなくなった、とコラムに載せてます。
筆の衰えを感じたこともない、書きたいものはまだある、自分でも書けないのが不思議だ、と。
それを自己分析して、「体力の衰え」「筆不精」とうまく締めています。
又おこがましいですが、自分自身は多分「書きたい」というリピドーが衰えてしまったのではないか、と思います。
コロナ禍で、多くの人々が「理不尽極まりない暴力」を感じてらっしゃるのではないでしょうか。その相手が判然としない苛立ちもあります。
そして、この苦痛をどこかにぶつけたいという衝動が沸く方もいるでしょう。
でも、普通はこの衝動を矯め、弱らせ、何より安全に生きていくために見て見ぬふりをするのではないでしょうか?
私にとってはそれが書く衝動と結びついていたのだと思います。結果的に時代が変化しても自分の状況は全然好転していないけれど、私の心の中の「あばれんぼう」は消えてしまったのです。