読書の森

1995年1月17日



23年前の1月17日、早暁、阪神淡路大震災が起きた。
まさに我が国の泰平の眠りを払底した惨事だった。

その朝の私は何故かいつもよりずっと早く目が覚めて、ベッド脇のテレビを付けた。
目を疑う光景が画面に展開していた。
飴の様に曲がった線路、ぶら下がる電線、おもちゃの様にちゃちに傾いたビル。
シュールなんて言葉はその時全然浮かばない。

阪神方面に親戚が多いので、先ずそれが心配になった。
当時まともだった母は直ぐに自分の兄弟に電話をかけていた。
須磨に住む叔母も垂水に住む従姉妹も無事だった。
「仰山高う買った瀬戸物が割れてしもてかなわんわ」と裕福に暮らす叔母は呑気な返事をしていた。

「これじゃこの地震は大した事無いのかな?」とテレビ画面を見直すと阿鼻叫喚の地獄である。
引きつった表情の現地のアナがこれまた引きつった声を出している。
叔母のゆとりある言葉は新築で強度の強い住宅のお陰と肝の太い叔母の性格から出たものだったらしい。


この震災は断層帯の歪みに地盤が耐えきれず起きた型のものである。
東日本大震災のプレート型と違い、狭い範囲で起こり、しかも地域によって被害の差が大きいのである。



父方の親戚は西宮市にいた。
ここは被害がたいそう大きかったという。
大怪我を負ったいとこもいた。

ただ、奇跡的に全員命が無事だったのは何よりである。

米寿に近かった叔母はその時ごはんの支度を終えて、食卓に向かっていたとかいう。
大きな揺れが起きた途端、彼女は何故かすっぽりと食卓の下に入り、そのまま食卓毎押入れに揺れるままに押し込まれたと言うのだ。
その木造の家はほぼ全壊したが、壊れた家の押入れのその又下の食卓に守られ叔母はかすり傷一つ負わなかった。

これはごく稀なケースである。
ぐっすりと寝入った家族が家屋に押しつぶされ無惨な姿になっていた。そういうケースの方が多かった。

更に、酷い事に電源ショートなどで火事が多発していた。
神戸の下町、長田区は映画の中の空襲さながら街毎火の海だった。
テレビの中の、この世のものとは思えない光景は四半世紀過ぎた今も私の脳裏に瑕疵として残る。

ましてや、当時の感じ易い年頃の子供たちにとって、この地震はどれほどの深いトラウマを与えた事だろうか?

肉親や愛する人を助けようと引き返せば、自分の命がない。
例えば、親を生かそうとすれば自分の身も危ないという時、人はどういう行動を取るのだろうか?

生きるか死ぬかの瀬戸際に立った時、人は何を求めるものだろうか?
避難生活で窮乏した時に人の情けは嬉しいが、先立つ物がない事の不自由さが身に沁みた事だろう。
苦労して手に入れた我が家を奪われた家族の思いは如何許りだったろうか?



それから16年後、後東日本大震災が起きた。
当時、私は液状化した千葉市美浜区の分譲マンションに住んでいた。
その際の思いは前のブログに載せた。

さて、地震保険を利用して被害の査定を頼んだ。
その時来てくれた係のおじさんの親切は真情がこもっていた。
聞けば「阪神淡路大震災の被害者だった」
との事だ。
「困った時は相身互い」といいシワをきざんでその人は笑った。
ホッと癒される笑顔だった。


地震で命を落とされた方々に、深く哀悼の意を表します。

^_^
身内や親しい人に限らず、目の前で生身のの死を見なければならない時、人は激しい喪失感を味わいます。
生きる事の意味も分からず、気力も萎えてしまいそうになります。
ただ、誰の命でも、命はたった一つ、命大事に日々生きていこうと思うのです。

読んでいただき心から感謝します。 宜しければポツンと押して下さいませ❣️

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