心が満ちる山歩き

美しい自然と、健康な身体に感謝。2019年に日本百名山を完登しました。登山と、時にはクラシック音楽や旅行のことも。

屋久島・宮之浦岳(6)

2016年06月09日 | 中国・四国・九州の山


屋久島・宮之浦岳(1,936m) ((5)のつづき)


 登りとまったく同じ道を戻ります。
 雲が出てきました。今日は一日快晴を期待していましたが、ここは「月に35日雨が降る」と言われる屋久島。天気予報は晴れでもそれが一日中続くのは難しいのでしょう。

 「~ 「やはり屋久島は自然がいっぱいだね。原始林て、凄いよね」などと言いながら、今は縄文杉を目指すおびただしい観光客が通過する場所だ。トロッコ道を足早に通過せず少しでも周辺を見まわせば、数限りない厚い苔に覆われた大きな切り株に気づき、あらためて屋久島の自然に感心するだろう。しかし、それは人間が容赦なく森を伐採した結果、生まれた景観なのだ。 ~」
 (『島 日本編』長嶋俊介・仲田成徳・斎藤潤・河田真智子(講談社))

 屋久島では登山道のことは「歩道」と呼ばれています。当然、すべての「歩道」は人の手によってつけられたものですが、今日の歩道は、人の手が入った感じがしない道でした。そして宮之浦岳では、かの有名な縄文杉ほどの賑わいはなく、「おびただしい観光客が通過」するのを見る必要はありません。


 屋久島に石塚、小杉谷という廃村があります。昔は林業で栄え、昭和40年代に入り林業の終焉によって人がいなくなった集落です。どちらにも行けなかったものの、ホテルの本棚に置いてあった写真集でその集落の姿を見ました。「昔の伐採はよくて、今の伐採はだめ」というわけではありませんが、昔そこで行われていた林業に対して否定的な気分にはなりませんでした。何とも言えないいい時代だったんだなと思いました。その写真集に、自然と人が共存している姿が、ありのままに映し出されていたからです。 

 屋久島の森が素晴らしいのは、遠い未来にわたっていつまでも残り続けるものだからだと思います。そして、昔の林業の跡、伐採の跡、そして集落の跡が残り続けるものに含まれると考えても、ごく自然のことのような気がします。

 「~ は、自分が存在しなかったかもしれないと感じる。なぜなら〈私〉というものは、考えることによって成立しているのだから。したがって考える私は、私に魂が吹き込まれる前に、母が殺されていたとしたら、存在しなかったはずだ。したがって私は必然的な存在ではない。同様に永遠でも無限でもない。しかし自然の中には、必然的で永遠かつ無限の存在があることが、私にはよく見える。 ~」
 (『パンセ(上)』パスカル・塩川徹也訳(岩波文庫))




 (登頂:2016年4月下旬) (つづく)



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。