今年の正月は年賀状、年始挨拶、正月飾り、初詣などの行事は控えました。
でもでも正月の3が日は親族が結構集まることになって
12月には豪勢な「おせち」をいっぱい注文しちゃって
「控えめなお正月だからね」と前置きしておきながら
実のところ わざわざ集まってくれた親族を歓待しようと
いつのまにか飲み放題・食べ放題の毎日を送ることになりました。
「喪中」は何処へやら....
みなが集まってくれた食卓そばにはアマル父の生前の写真があり
「父さん・伯父さん・おじいちゃん」ごめんねと
みなで断り入れながらご馳走・お菓子をムシャムシャ、
お酒も結構やっちゃいました。
そんな新年が始まって
気が付いたらもう間もなくアマル父の一周忌。
アマルは仏教徒ではないものの
お釈迦様の教えは好きなので
仏事には何かにつけて関心を持ってしまいます。
仏教には法要って多種多様なものがあって
忙しい毎日を送る者にとっては かかわることが
どこか煩わしくもあるのだけど...
【解説:法要・供養】
「法要」とは仏教用語で追善供養(ついぜんくよう)とも呼ばれます。
この世に残された者が、故人を偲び冥福を祈る行事です。
冥福とは冥途の幸福のことで、故人があの世でよい報いを受けてもらうために、
この世に残された者が供養をします。仏教では法要を行う日が決まっています。
「供養」とは仏や菩薩・諸天などの相手に尊敬の念から香華(こうげ)・燈明・
飲食(おんじき)などの供物を心から捧げることを言います。語源はサンスクリット語で、
「尊敬」を意味する語の訳。仏・菩薩・諸天などに対しての仏教の供養と、
死者や祖先に対する追善供養としての供養が広くみられます。
また、仏や人間にとどまらず動物など、死者に対してという意味で幅広く供養と呼んでいます。
さらに、人の生活に密接した物や道具に対しての供養も行われています。
動物供養、針供養、鏡供養、写真供養、仏壇供養、経典供養、印章供養、人形供養など。
故人が亡くなってから一年後の命日が一周忌。
家族や親族ほか、故人と縁の深かった友人や知人を招いて法要を営むというもの。
法要は命日の当日に行うのが理想。実際には参列者の都合もあって、週末に行ってるね。
必ず命日より早めの日に行うのが慣わし。
一周忌までが喪中(もちゅう)で、この日をもって喪(も)が明けることになる。
年忌法要(ねんきほうよう)は、年回法要ともいい、一般に法事と呼ばれているもの。
亡くなった翌年が一周忌、その翌年の2年後が三回忌。三回忌からは亡くなった年も含めて数え、
七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、五十回忌、百回忌と続くけれど
追善供養は三十三回忌を一つの区切りとするのが一般的のようだね。
はたして亡くなった人が向かった冥途とは?(西方浄土)あるものか?
故人があの世でよい報いを受けてもらうためにこの世の者が供養する。
インドから中国を経て日本に伝わり根付いた仏教(大乗仏教)は、お釈迦様の教え(釈迦仏教)と
大きくかい離している、というより別物で
お釈迦様が説いた教え(仏教)は、人が煩悩から解き放たれる世界を目指すもので、死後の世界は
ありません(説いていません)。
大乗仏教はその釈迦仏教を一転させて、お釈迦様の「仏格」に頼る救済仏教に変えてしまった。
お釈迦様は自分が死んでも自分を偶像化して「偶像崇拝」させる(仏を崇拝させる、偶像への祈りに
よって救済を受けることができる)ことを固く禁じていたのに...
私たちが現在行っている法事はお釈迦様の教え(原始仏教)とかけ離れた
後世の僧侶ほか大乗派の創作の世界と日本古来の信仰が結びついてできた行事ばかり。
そんなことを知りつつも仏壇のご本尊やご先祖様(位牌)に手を合わせ
冥途というものがあるならば(アマルが生きているのも何千・何万という
ご先祖様の命があったおかげで今があるわけで)
ご先祖様(亡くなった方々)への感謝、そして安らかであれと祈り敬ってしまいます。
法要や法事、しきたり(昔からの習慣・慣例)というものに
いつも懐疑の念を抱きながら乗っかってしまうアマルでした。
合掌。
昭和生まれの方には懐かしい顔ぶれがいっぱいですね。
動画のラストの方には美輪明宏さん(丸山時代)の若かりしころが...
でもでも正月の3が日は親族が結構集まることになって
12月には豪勢な「おせち」をいっぱい注文しちゃって
「控えめなお正月だからね」と前置きしておきながら
実のところ わざわざ集まってくれた親族を歓待しようと
いつのまにか飲み放題・食べ放題の毎日を送ることになりました。
「喪中」は何処へやら....
みなが集まってくれた食卓そばにはアマル父の生前の写真があり
「父さん・伯父さん・おじいちゃん」ごめんねと
みなで断り入れながらご馳走・お菓子をムシャムシャ、
お酒も結構やっちゃいました。
そんな新年が始まって
気が付いたらもう間もなくアマル父の一周忌。
アマルは仏教徒ではないものの
お釈迦様の教えは好きなので
仏事には何かにつけて関心を持ってしまいます。
仏教には法要って多種多様なものがあって
忙しい毎日を送る者にとっては かかわることが
どこか煩わしくもあるのだけど...
【解説:法要・供養】
「法要」とは仏教用語で追善供養(ついぜんくよう)とも呼ばれます。
この世に残された者が、故人を偲び冥福を祈る行事です。
冥福とは冥途の幸福のことで、故人があの世でよい報いを受けてもらうために、
この世に残された者が供養をします。仏教では法要を行う日が決まっています。
「供養」とは仏や菩薩・諸天などの相手に尊敬の念から香華(こうげ)・燈明・
飲食(おんじき)などの供物を心から捧げることを言います。語源はサンスクリット語で、
「尊敬」を意味する語の訳。仏・菩薩・諸天などに対しての仏教の供養と、
死者や祖先に対する追善供養としての供養が広くみられます。
また、仏や人間にとどまらず動物など、死者に対してという意味で幅広く供養と呼んでいます。
さらに、人の生活に密接した物や道具に対しての供養も行われています。
動物供養、針供養、鏡供養、写真供養、仏壇供養、経典供養、印章供養、人形供養など。
故人が亡くなってから一年後の命日が一周忌。
家族や親族ほか、故人と縁の深かった友人や知人を招いて法要を営むというもの。
法要は命日の当日に行うのが理想。実際には参列者の都合もあって、週末に行ってるね。
必ず命日より早めの日に行うのが慣わし。
一周忌までが喪中(もちゅう)で、この日をもって喪(も)が明けることになる。
年忌法要(ねんきほうよう)は、年回法要ともいい、一般に法事と呼ばれているもの。
亡くなった翌年が一周忌、その翌年の2年後が三回忌。三回忌からは亡くなった年も含めて数え、
七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、五十回忌、百回忌と続くけれど
追善供養は三十三回忌を一つの区切りとするのが一般的のようだね。
はたして亡くなった人が向かった冥途とは?(西方浄土)あるものか?
故人があの世でよい報いを受けてもらうためにこの世の者が供養する。
インドから中国を経て日本に伝わり根付いた仏教(大乗仏教)は、お釈迦様の教え(釈迦仏教)と
大きくかい離している、というより別物で
お釈迦様が説いた教え(仏教)は、人が煩悩から解き放たれる世界を目指すもので、死後の世界は
ありません(説いていません)。
大乗仏教はその釈迦仏教を一転させて、お釈迦様の「仏格」に頼る救済仏教に変えてしまった。
お釈迦様は自分が死んでも自分を偶像化して「偶像崇拝」させる(仏を崇拝させる、偶像への祈りに
よって救済を受けることができる)ことを固く禁じていたのに...
私たちが現在行っている法事はお釈迦様の教え(原始仏教)とかけ離れた
後世の僧侶ほか大乗派の創作の世界と日本古来の信仰が結びついてできた行事ばかり。
そんなことを知りつつも仏壇のご本尊やご先祖様(位牌)に手を合わせ
冥途というものがあるならば(アマルが生きているのも何千・何万という
ご先祖様の命があったおかげで今があるわけで)
ご先祖様(亡くなった方々)への感謝、そして安らかであれと祈り敬ってしまいます。
法要や法事、しきたり(昔からの習慣・慣例)というものに
いつも懐疑の念を抱きながら乗っかってしまうアマルでした。
合掌。
昭和生まれの方には懐かしい顔ぶれがいっぱいですね。
動画のラストの方には美輪明宏さん(丸山時代)の若かりしころが...
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