カルマとは輪のことだ、そう今もその輪を回している。
君は輪の内側にいるハムスターだ。
この水車のような輪の内側にはプレゼントが置かれている。
良いものもあるし悪いものもある、それは体験というプレゼントだ。
良いプレゼントが回ってきたとき君は輪を止めたいと思うだろう。
実際に止めてそのプレゼントをしっかりと味わう。
その体験が永遠に続いてほしいとさえ思うかもしれない。
しかしどんなに美味しいもの食べればなくなる。
やがてそのプレゼントを食べつくしそこには何もなくなってしまう。
ある人はそのプレゼントへの執着から歯車を回すことをやめてしまう。
そこにはもう何もないわけだから何もなく時間を過ごす。
殆どの人はそこに何もなくなれば輪をまた回す。
回すとまた次の体験が近づいてくる。
中には君にとって全くうれしくないプレゼントもある。
君はそれは食べたくない、速く時が過ぎてほしいと思う。
だから輪を回す。
しかし輪は輪だ、食べ残されたそれはまた回ってくる。
そのようにぐるぐる回しているうちに好きなものは食べつくし、
嫌いなものだけが残ってしまう。
この嫌いなものとは何なのか、
それは自分の中にある好きになれない部分のことだ。
実はこの輪は君自身で出来ている。
ハムスターの心の世界を外部に投影したものがこの輪だ。
君の中にある染みが嫌いなものとして輪の中にくっついている。
君はそれを外部に出すことで自分の受け入れられないものを観察することが出来る。
じっくりと観察するとは味わうことに他ならない、
嫌いなものを味わうなんてとんでもないと思うかもしれない。
しかしそれは本当のところ悪いものではないんだ。
また同じようなことが起きたと落ち込みたくなるのだろう、
しかしそれは良いことだ、君にはまだ進化する余地、
より大きな喜びを味わう余地があるということだからだ。
君は嫌いだった食べ物の美味しさが突然分かり、
好物に変わったことはないか?
あるね、納豆はまさにそれだ。
そういえばジャズもそうだ、昔は嫌いだった、
ある時突然分かり、そう今までにない面白さを感じた。
世界が広がったんだ。
あらゆる嫌いなものを好きになることはないが
君の人生に頻繁に表れてくるものは君自身だ。
その中に本当の本当に美味しくないものはない。
神は君にプレゼントしか与えない。
美味しいものは味わい方をすでに知っているものだ、
人生の妙は不味いものの中にある、
それはまだ味わい方を知らないもの、
それを知った時、君の世界は広がる。
世界が広がるとはまた一つ自由になるということだ。
それは不可逆変化、元に戻りたいとは思わない変化だ。
ただし、くれぐれも無理はしないこと、やせ我慢で美味しいと言ってみても無意味だ。
理解は深まってきた
カルマから降りるというのはどういうこと?
訳も分からず回すことを辞めること
法則を理解すること
実体を認識すること。
降りるというイメージと違うね。
僕はてっきりカルマの法則が働かないところへ行くのかと思っていたよ。
カルマは法則だ。
法則がないところはない。
法則は神の心だ。
こうありたいと願う人の心だからだ。
それは縛りではなく自由な選択、願い、そういうものだ。
そうか、その自分の願いに反する気持ち悪さが!
そう、それが輪に反映され黒い染みを作っている。
君は自分の願いに反する行いをしない方がいい。
それは気持ちの悪くなる結果をもたらす。
なぜなら気持ちの悪い行為だからだ。
何もかも自分の思い通りには行かないという声が聞こえてきそうだけど。
そのような人たちは自分の願いを、本当の願いを世に放ったことなどない人たちだ。
本当の願いは常にかなえられる、それは人の心と神の心が融合する地点にあるからだ。
人はエゴの声を自分の声と勘違いしている。
エゴの声はかなえられない。
かなえられているかのように見えるのは全て偽りだ。
その証拠に彼らはいつも怯えている。
それが幻であることを知っている。
消えることを怖れている。
真実は消えない、幻は消える。
カルマを受け入れなくてはいけないのが苦しいんだ。
逃れられないものなのかな。
こんな苦しい思いをしてまで進化する必要はあるの?
苦しんでいるのは君だ、苦しめているのも君だ。
私は君に苦しめるのを辞めたらどうかという話を持ちかけている。
君はそれを、苦しみを引き受けなくてはいけない、と解釈している。
答えはイエスだ、君が君を苦しめていることを理解しなくては苦しみは終わらない。
何をしているか分からないまま、していることを辞めることは出来ない。
自分のしていることを認識することに何の苦痛があるのか、
それはエゴの悲鳴だ。
正しい認識はエゴの間違いを露呈させるから。
そしてエゴと同一化している部分が大きければ大きいほどエゴの苦しみを自分の苦しみに感じる。
黒い染みはエゴと同一化している部分と言うこと?
そう、そこに魂の光を遮るものがあるということ。
魂は電球の光を発している部分、君の心は電球を覆っているガラスだ。
ガラスの染みが外に映し出されたものを君は見ている。
そうか!今すごくよく分かった!
その黒い染みを見て染みを消そうと壁を拭いても無意味なんだ。
その染みを見て自分の心を知ればいいのか。
いい線まで行ってるよ。
僕はつい黒い影を消そうとしてしまう。
労力ばかりで効果なんて分からない。
そしてまた忘れたころにやってくる。
同じようなことが。
本体の染みはどうやって消せばいいのかな?
見ること、壁に映った影はいわばダミーで本体は君の心に張り付いている。
その本体を見る。
壁に映った影ほど大きくないよ。
とるにたらない小さい染みだ。
心は頭で考えるようには変わらないし変えてはいけない、
それはエネルギーの歪みを生じる。
小さな染みを確認したらそれはそれでいいのだ。
見た目ほど大きくないことを知れれば十分、
なぜならもうその影を見て怯えることはなくなるから。
心が変わる時は一瞬にして変わる。
張り付いた黒い染みはエゴそのもので、
エゴは君の怖れを糧にして存在しているから、
君が怖れなくなると栄養を補給できずに枯れてしまう。
そして消える。
現実に起きていることがその黒い影っていうことだよね。
見た目ほど大事ではない、ということ?
その通り。
現実と呼ばれるスクリーンに集中していると、
とてつもなく大きいものに見える。
光、フィルター、スクリーン、
と言うように現実を横から見るとからくりが見える。
これがカルマを降りると言われる行為だ。
理解できた。
直ぐにその理解を試す体験が来るよ。
もう来てるのかな?