謡のお稽古は、土蜘蛛をやっと卒業して、初心本2冊目〈中〉の『竹生島』に入りました。
『大仏供養』という曲も1冊目〈上〉にまだあるのですが、今はとばしましょうとのことで、初心本〈上〉は「鶴亀」「橋弁慶」「吉野天人」「土蜘蛛」の四曲でもって、ひとまずは、さらい終えました。
終えてみて、強吟と弱吟を繰り返し学んできましたが、「こんなに音の高低の種類があるんだな」という認識がやっと。
『大仏供養』という曲も1冊目〈上〉にまだあるのですが、今はとばしましょうとのことで、初心本〈上〉は「鶴亀」「橋弁慶」「吉野天人」「土蜘蛛」の四曲でもって、ひとまずは、さらい終えました。
終えてみて、強吟と弱吟を繰り返し学んできましたが、「こんなに音の高低の種類があるんだな」という認識がやっと。
読み方記号の様々も、先生が丁寧に説明してくださいますが、とりあえず先生のお声を繰り返しながら追いかけるのがやっと。聴いた音をそのまま再現することは、なんとか、出来るのですが、字だけを追いながら詠み謡うことはまだできません。
ところが、お稽古がまた変化してきて、最初は一行ごとに繰り返し、だったのが、
1ページの大半を先生が読んでから「はい、どうぞ」と言われるようになり、
「えっこんなに長い詞章を」
と心の中では驚きながらも、
なんとなく口では詠めるようになっていることを自分がまた心の中で驚いている、
という現象が見られるようになってきて、お稽古の不思議を新鮮に感じています。
そうは言っても、「土蜘蛛」はストーリーがはっきりしているので、謡に比較的流れがあって、「吉野天人」ほど難しさに引っかかる箇所が多くはない。
土蜘蛛の精が恨みを持って源頼光に襲いかかり、頼光の部下たちに成敗される、というストーリーです。
感情表現の分かりやすいストーリーだけに、下手に感情を込めすぎて安っぽくなる、のを避ける努力が必要なのかなと感じました。
こないだイタリア語の個人レッスンで先生とフリートークしていて能の魅力について訊かれ、
「制約から自由であること」indeterminato
と話したら、哲学研究者である先生は興味を持ち、どういうことか説明を求められ、
「想像の余地が観る人に委ねられていること。
夜空が謡われているとして、月が晴れ渡っているのか、どんな形の雲が出ているのか、
舞台セットによって押し付けられることなく、本人の頭の中で自由な景色が展開できること」
そう自分で言ったりもし、
謡手には勝手な感情を込めず基本に忠実であり続けることが大事なのだと改めて思いました。
ところで先日、社中の発表会が終わり、先輩弟子さんたちのお舞台を拝見していました感想ですが、
感情を控えて舞台で舞うこと謡うことをすればするほど、その人の人間性や想いが露わになる。
人生が込められた舞は、舞によってそれが分かります。
視線、引き結ばれた口、扇を持つ手の角度や力の込め方、足の丁寧な運び、
これ以上の表現は要らない、そこにあるのがその人の全てです。
能は飾りがないだけに、その人の全てがあらわれる。ますますもって面白いなと思いました。