牧之原大茶園
大井川以南の島田市、牧之原市、菊川市
明治維新以後、徳川幕臣の約6千名が幼年ながら静岡藩主となった徳川家達(徳川宗家16代)が駿河 府中城(駿府)城主となって封じられたことに伴い、家達の居る駿府に入りました。
駿府城下の町は、江戸から追われる様にやって来た旧徳川幕臣の士族であふれ、城下に留まらず、駿府近隣の村々にも移住しました。
1869年 明治2年6月、
旧幕臣の多くが身の振り方も定まらない中、明治新政府は版籍奉還(土地と民を治めていた藩主の職を解き、朝廷に返還する)を断行し、藩主 徳川家達は職を解かれ、藩知事に改めて任命されたことにより、それまで藩主の家臣だった者達は役職を失い、路頭に迷うことが確実視されました。
これに先立ち藩知事、徳川家達が駿府70万石で封じられ、入府したことに伴い、水戸での謹慎だった徳川最後の将軍 徳川慶喜が駿府城下の宝台院に移ることとなり、慶喜を水戸から駿府へ護衛してきた幕臣の精鋭隊の名の一隊がありました。
この精鋭隊は、駿府に入って慶喜の護衛を果たした後に新番組と名を改めました。
隊長の名は中條金之助景昭、景昭は13代将軍 徳川家定 幕政時代に御書院番を期に役職を得、以来、いわゆる幕末を迎えた頃には、幕府か浪士組を集め、(そのうち近藤 勇ら、一部が上洛して新選組となった)その者達約100名以上の取り扱いを山岡鉄舟らと命じられ、幕臣中心に結成された新徴組の支配役と、江戸市中を守ってきました。
その中條金之助景昭が藩知事、徳川家達の治める駿府の領地ながら、水路に乏しく、耕作に適さず、百姓すら放置し、草刈り場にしかなっていない金谷原(牧之原)という台地があることを耳にします。
大井川は、水源を南アルプスに持ち、駿河国と遠江国の国境をなす大河で、かつてはこの地方を支配した駿河の戦国大名の 今川氏が没落した際に、三河から勢力を拡大して遠江に進出した徳川家康と、甲斐の武田信玄が今川氏を挟撃し、領土を分割したのも大井川を境に東の駿河を信玄が、西の遠江を家康が領有するという盟約を結び(この盟約は、信玄の欲のために破られましたが)、東海道の島田宿と金谷宿を結ぶ地域ながら、江戸時代を通じて橋を掛けられることもなく、雨期には度々氾濫するために川止めをなされ、川越人足が川を渡る人を渡していました。
その大井川の上流から流れる土砂が太古の昔から経年堆積(たいせき)して川際に洪積台地を形成し、さらに西を流れる菊川からも堆積土砂を受け入れ、大井川と菊川に挟まれる形となった堆積土砂が今日の牧之原台地を生み出しました。
この台地は大井川以南から始まって遠州灘の御前崎まで続き、結果的に5000ヘクタールという日本最大の茶の一大産地を作り出すことになりました。