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日本歴史紀行

現代語釈 信長公記 4 織田信秀 病死





天文十七年、信秀は末森に山城を建て、古渡の城を破却した。

翌年三月、三河の松平広忠が家臣に殺害された。

松平家は二代続けて当主が殺されたことになるが、駿河の今川義元が素早く武将を岡崎城に派遣したので、松平家臣団が当家に靡く(なびく)ことはなかった。


九月、駿河の太原雪斎が大将として三河勢が安祥城を攻めた。

城代の織田信広 以下、必死の防衛で一度は撃退したが、三河勢の気迫凄まじく、十一月、ついに城は墜ち、信広は捕らえられてしまった。

間もなく太原雪斎の使者が信秀を訪ね、捕らえた信広と、人質として熱田にある松平広忠の遺児、竹千代の交換を持ち掛けてきた。

竹千代については、生前の松平広忠が竹千代は今川にくれてやった。生かすも殺すも好きになされよと、言い放って応じなかったため、処遇と扱いに困ったまま、加藤図書の屋敷に預けたままになっていたので、信秀は交換に応じると返答し、竹千代に護衛を付けて加藤図書の屋敷から笠寺まで送り、人質交換で信広を取り戻した。

天文二十年、流行り病に侵された信秀が病床に臥せるようになる。

いろいろ治療や祈祷も効果なく、三月三日 42歳で遂に還らぬ人となってしまった。

生死無常は世の常とはいえ、悲しいことである。

風がさっと吹いて来て草々の露を散らし、一団の雲が満月の光をを陰らせるようであった。

信秀は生前、一寺を建ててあった。
万松寺という。

信秀を前住職とすることにし、法名を桃巌とつけ、銭の施しをして、国中の僧侶を集め、盛大な葬儀を執行した。

折りから関東に上り下りする旅の修行僧たちも多数参加して、僧侶は三百人にもなった。

やがて信長が万松寺に駆けつけた。
信長の出で立ちは、髪を茶筅髷に巻き立て、長柄の太刀と脇差しを藁縄で巻き、袴など当然履いてなかった。

仏前に出た信長は、抹香を鷲掴みし、仏前に投げかけて帰っていった。

参列者が口々に~大うつけが~と罵っていたが、その中で、筑紫から来た旅僧一人が~あの方こそ、国持ち大名になる人だ~と言ったとか。

葬儀後、末森城は信長の弟 信行に譲られることになった。



家臣も柴田勝家や佐久間信盛、屈強な者たちである。


信長の家老 平手政秀には、三人の息子がいた。
長男の五郎右衛門は、優れた馬を持っていた。

それを駿馬好きな信長が所望したとき、私は馬を必要とする武士でございますので、お許し下さいと言って信長の機嫌を損じた。

信長の恨みは浅くなく、度々思い出して主従不和となった。

この頃、織田家の当主を、信長の弟 信行に推す動きが広がる。

信長の家老、林 秀貞でさえ同調する様になってしまった。

やかて平手政秀は、主従の不和と、家中のこの有り様を悔やみ、信長公を守り立ててきた甲斐がないと言い残し、自害してしまった。

信長も政秀の突然の死には悲しみ、政秀寺を建立して菩提を弔った。



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