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日本歴史紀行

こどもの日 寄稿〜信長公記 2 吉法師元服


織田信秀、土田御前、吉法師親子の像
愛知県愛西市 名鉄勝幡駅前



吉法師 元服


1546年 天文15年、13歳になった吉法師は、林 秀貞、平手政秀ら家老が供をして、父、信秀の古渡城へ赴いた。

そこで元服の儀を行い、織田三郎信長と名乗ることとなった。

その夜の酒宴と祝儀はひとかたならぬものであった。

翌年、信長の初陣ということになり、傅役の平手政秀が支度を手配し、紅筋の頭巾、羽織り、馬鎧の出で立ちだった。

三河の吉良、大浜へ手勢を指揮して方々に火を放った。
その夜、夜営をして凱旋した。
勝ち戦に平手政秀らは大いに喜んだ。


夏になり、父 信秀が三河 松平家の嫡子、松平竹千代の身柄を、松平家を裏切った家臣から買い取った。

信秀は三河の当主 松平広忠へ手紙を書き、竹千代を人質にしたので、降伏を求めたが広忠は、生かすも殺すも好きにしろと応じなかった。

信秀はいずれ役に立つ日も来ようと、殺すことはせずにいたが、仕方ないので、竹千代の身柄は熱田の加藤図書に預けることにした。

敵国の御曹司に興味を持った信長は、加藤図書の屋敷に出掛け、様子を観に行った。


このときの対面から15年の後、信長は、今はまだ幼名の松平家の御曹司と終生 続く同盟を結ぶとは、思いもよらなかったろう。


吉良

現在の愛知県幡豆郡(はずぐん)吉良町
(忠臣蔵の敵役、吉良上野介義央の領地、吉良は領地で善政を敷いた名君として慕われた。)

大浜
現在の愛知県碧南市
尾張と三河の南部の国境



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