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日本歴史紀行

現代語釈 信長公記 3 信長の日常


織田信長 像
名古屋市緑区 桶狭間古戦場公園


3 信長の日常


信長の父、信秀はある月は美濃、また翌月は三河へと戦に明け暮れる毎日だった。

ある年、信秀は尾張の兵を総動員して、美濃へ侵攻した。

斎藤道三の居城 稲葉山城の城下近くまで攻め入り、村々を焼き払った。
さらに町の入口まで詰め寄ったところで陽が暮れ始めたため、軍勢を引き揚げたところで南から斎藤道三の軍勢がどっと押し寄せた。

応戦になったが、多くの兵が崩れたため、支えることが出来ず、信秀の弟 織田信康らが討たれ、足軽ら五千もの兵が討ち死にした。(加納口の戦い)大敗北であった。

信秀の留守を狙い、清洲衆が居城 古渡城を襲うことがあり、信秀は清洲衆とも戦うはめになり、これ以降 遠戦が困難となる。

やがて大柿城は斎藤道三に奪還され、同年 三河小豆坂の戦いで駿河 今川の軍師、太原雪斎にも敗れたことをきっかけに、美濃の斎藤道三と和睦を結ぶことにした。

信長の傅役、平手政秀の働きで、信長を斎藤道三の娘【帰蝶】を嫁とする縁組が整い、道三の娘を尾張に迎え入れた。

信長は、十六、七、八の頃までは、これといった遊びにふけることもなく、馬術を朝夕に稽古し、三月から九月にかけて川で水練した。

泳ぎは達者であった。
ある日、竹槍の訓練試合を見て、
【いずれにせよ、槍は短くては具合が悪い様だ。】
と言って柄の長さを三間、三間半に揃えさせた。

その頃の信長の身なり、振る舞いといえば、湯帷子を袖脱ぎにして着て、半袴、火打ち袋やら、沢山身につけて、髪は茶筅髷、それを紅色とか、萌黄色とかの糸で巻き立てて結い、朱鞘の太刀を差していた。

お付きの者には皆、朱色の武具の着用を命じ、市川大介を召して弓の稽古。

橋本一巴を師匠として鉄砲の稽古。
平田三位を絶えず召し寄せて兵法の稽古は欠かさなかった。

特に見苦しいこともあった。
町中を歩きながら、人目を憚らず栗や柿はいうまでもなく、瓜までかじり食い、町中で立ったまま餅を食い、人に寄りかかり、いつも人の肩にぶら下がって歩いていた。

その頃は、世間一般に折り目正しいことが良しとされていた時代だから、人々は信長を【大うつけ】と陰で罵っていた。


斎藤道三
油商人の身から美濃守護代の長井氏に仕え、やがて主人を謀殺して長井氏を名乗り、さらに美濃の守護、土岐氏の争いに加担し、遂に守護までも放逐し大名となる戦国下剋上の代表格。

帰蝶
斎藤道三の娘 濃姫。信長の正室となる。

大うつけ
大馬鹿者のこと。




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