今から約420年前の慶長5年9月15日(1600年 10月21日)、徳川家康率いる東軍と石田三成 率いる西軍の両軍合わせて10万以上の軍勢が、南北約4キロ、東西約2キロの美濃国(現在の岐阜県不破郡 関ヶ原町)の盆地、関ヶ原で激突しました。
主な流れ~
徳川家康と石田三成の対立の最終局面である関ヶ原の戦いは、徳川家康が会津の上杉征伐を大義名分に、上方を留守にした隙を突いて蟄居の状態にあった石田三成が挙兵を決意、これにより引き返せない事態となります。
家康は福島正則、細川忠興、黒田長政ら、石田三成とは反目する豊臣恩顧の大名らを従えて下野国の小山(現在の栃木県小山市)まで下りました。
石田三成は毛利輝元を旗頭に据えて親友の大谷吉継、小西行長、宇喜多秀家、島津義弘といった西国の大名を中心に味方引き入れて挙兵、徳川家康の政務の城である伏見城を落とします。
家康の元に三成の挙兵と伏見城落城がもたらされたのは小山の陣中で、家康は事の子細を率いた豊臣恩顧の大名らに告げ、軍議の席で上杉征伐を中止、三成征伐のために直ちに上方へ転身する決定をします。
家康は豊臣恩顧の大名らを先発させ、彼らが岐阜城を陥落せしめたことをもって西上し、本陣である美濃 赤坂の岡山には9月14日、関ヶ原本戦の前日になって到着しました。
家康着陣の報に西軍は動揺し、近隣の杭瀬川で島 左近が戦闘を仕掛け、勝利するも局地的な勝利に過ぎず、家康は東軍が三成の居城 佐和山城の攻撃と上方へ攻め上るという流言を流します。
この報を信じた三成は西国諸将と大垣城を出て街道筋の交わる関ヶ原で家康と東軍諸将を迎え撃つ決意をします。
西軍の布陣は午前5時、率いる石田三成が伊吹山系の山麓 笹尾山に陣を構築、最大勢力の宇喜多秀家が西部の南天満山、そして当初 西軍として参加した小早川秀秋は関ヶ原を見下ろす南の松尾山に布陣。
東軍の布陣は西軍の布陣から遅れること一時間、先鋒の福島正則が最左翼に布陣し、宇喜多勢と対峙。
黒田長政は最右翼に布陣し、妻ガラシャを失い三成に強い遺恨を持つ細川忠興も右翼側に布陣し、石田三成と対峙しました。
最大勢力 約3万の徳川家康は後方の桃配山に布陣。
午前8時頃、家康の意を汲んだ井伊直政が家康四男の松平忠吉を引き連れて福島正則隊を出し抜いて宇喜多秀家隊に発砲して開戦となりました。
序盤は福島正則隊が宇喜多秀家隊と激しく争い、黒田、細川隊は石田三成隊に迫るという流れでした。
西軍は石田隊、小西隊、宇喜多隊が必死に戦うも、家康の背後、南宮山に布陣した毛利秀元隊、松尾山の小早川隊が戦いに加わらず、戦況は一進一退ながら西軍がやや有利に進みました。
正午頃
小早川秀秋の寝返り参戦を待っていた徳川家康は、いつまでも動かないことに苛立ち、松尾山へ向けて発砲、家康の怒りを受けて小早川秀秋はついに決断、松尾山を雪崩れのように駆け下り、西軍の大谷吉継隊に襲いかかります。
この小早川秀秋隊の寝返りが戦いの流れを大きく変えました。
一度は持ちこたえた大谷吉継隊も、前衛に控えた脇坂安治、小川祐忠らが相次いで東軍に寝返ったために大谷吉継隊は壊滅、この寝返りの連鎖で戦況は一変し、最終的に東軍が勝利をおさめました。
西軍を率いた石田三成、三成の盟友 小西行長、毛利の外交を担った安国寺恵瓊は首謀者として斬首。
最大勢力を誇った宇喜多秀家は行方不明。
戦後、宇喜多秀家は出頭するも助命が叶い、八丈島への配流となります。
島津はしぶとい交渉と、島津と戦って負傷した家康の重臣 井伊直政の口添えもあって許されます。
この戦いで自身への反対勢力をほぼ一掃した徳川家康は、天下をほぼ手中におさめました。