御養育係 川村純義
1901年 明治34年7月
かねてより裕仁親王(昭和天皇)の御養育については、御誕生以前より東宮輔導顧問会議において議論され、親王御誕生の場合は適任者を選任して御養育を委嘱し、内親王御誕生の場合は皇太子(大正天皇)・同妃が御自ら御養育なさるべしとの案が出される。
御養育担当者の候補として、男爵楫取素彦・侯爵西郷従道などの名も挙がるも、本年三月二十二日の会議においては、伯爵 川村純義を親王御誕生の際の御養育の最適任者とし、翌二十三日、東宮輔導 威仁親王は明治天皇に拝謁し、その旨を言上する。
その際 威仁親王は、内親王御誕生の場合であっても、皇太子妃にとっては初めての御養育となり、東宮御内儀においては御養育の経験を持つ者がいないため、今回は御養育担当者に委ねるべしとの意見を申し添える。
天皇はこれを御嘉納になり、親王・内親王に拘わらず御養育を委嘱すべしとの御沙汰を下される。
なお、川村が適任者とされたことには、伯爵松方正義の推挙及び宮内大臣田中光顕の推薦があったとされる。四月四日、威仁親王は東宮大夫中山孝麿と相談の上、改めて川村を御養育主任に推挙することを決定し、皇太子に拝謁して伺いをなし、皇太子はこれを可とされる。よって五日、威仁親王は右の旨を明治天皇に奏上し、御允許を受ける。
六日、皇太子は葉山御用邸における御昼餐に威仁親王と共に川村純義伯爵を召し、内々に御沙汰を下される。川村純義は夫人等に相談の上、九日に受諾の旨を言上し、五月八日、正式に川村伯爵へ御養育が委嘱される。
川村の御養育についての所信は、正式受諾を前にした五月五日付の【国民新聞】に掲載された以下の文が知られる。
〜川村純義 所信談話〜(原文のまま)
予固より才なく面して既に老ひぬ。
重任堪ゆる所にあらざれども殿下の御直命黙止し難く受けを致したり。
而して降誕あらせられたるは男皇子なりしかば慶賀禁ずる能はざると共に我が責任の更に重きを感ずること切なり。
予や聖恩に浴すること多年、せめては老後の一身を皇孫の御養育に委ねこれを最後の御奉公と
して鞠躬尽の至誠を捧げまつらむのみ。
皇長孫御養育の重任に贈るものは、殿下が後日帝国に君臨して陛下と仰がれ給ふべきを理想と
して養育し奉るの覚悟なかるべからず。
而して第一に祈念すべきは心身共に健全なる発育を遂げさせ給はんことなり。
人君たるものは御親子の愛情御兄弟の友情皆臣民の模範たらざるべからず。
されば御父たる皇太子殿下御母たる妃殿下が常に皇孫の御養育を監視し給ひ、御養育の任に当るものも常に両殿下の御側近くにて養育しまつるを勉めば御親子の愛情愈々濃かなるべく、而して今後降誕あるべき皇孫は御幾人あるとも同じ御殿に於て養育し奉り、御遊戯にも御食事にも御勉学にも机を同じくし草を同じくし庭を同じくせらるあらば、皇子女の御友情も敷く心身の御発達健全にして行くく臣民の模範となり給ふべし。
畏多きことながら封建時代に於ける大名教育の如き弊はゆめくあるべからず。
素駝師が植木を曲げて天然に反する発育をなさしむるは大名教育の著しき弊害なりき。
御養育の任に当るものは物を恐れず人を尊むの性情を御幼時より啓発し奉り、又た難事に耐ゆ
る習慣を養成し奉るの覚悟をなし、天稟の徳器に気儘我儘の瑕を一点にても留めまつるが如き
と決してあるべからず。
幼児の養育は此を以て肝要とす。尊貴の方々に於て特に然りとす。
日本も既に世界の列に入りて国際社会の一員たる以上は子女の教養も世界的ならざるべからず。
特に後日此の一国に君臨し給ふべき皇孫の御教養に関しては深く此点を心掛けざるべからず。
皇孫の成長し給へる頃に至りて彼我皇室間及び国際の交際愈々密接すべきことを予測すれば、
御幼時より英仏其他重要なる外国語の御修得御練習を特に祈望せざるべからず。
川村純義
川村純義伯爵への御養育委嘱は、皇太子が直々に嘱命されたものであり、正式な職名はなく、辞令も授けられなかった。
なお川村純義は、正式受諾後、今後誕生するであろう弟宮も御一緒に御養育申し上げるべきであるとの考えを天皇及び皇太子に言上する。
親王は、この後明治37年11月9日まで川村純義家における御養育を受けられる。
次回
1902年明治35年6月25日 雍仁親王 御誕生