記念艦 三笠
明治38年 5月27日〜5月28日
明治38年 5月27日、
東郷平八郎連合艦隊司令長官は、バルチック艦隊は必ず対馬海峡を通過してウラジオストクに向かうと判断し、朝鮮半島南端の鎮海湾に連合艦隊を集結させ、乗組員らに猛訓練を続けながら待ち構えました。
一方のロシア バルチック艦隊は、出航から半年もの月日をかけて大西洋からインド洋抜けて航海を続け、乗組員らは疲弊し、士気の低下も著しいものでした。
明治38年5月27日早朝、仮装巡洋艦「信濃丸」からの「敵艦隊見ゆ」との警報を受信した連合艦隊は大本営に対し、
【 敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。~本日天気晴朗ナレドモ浪高シ~ 】 と打電し、連合艦隊は出撃。
やがて対馬沖でバルチック艦隊と遭遇、司令長官 東郷平八郎は、艦隊を敵の直前でターン行動を開始、世に言う丁字戦法でバルチック艦隊の進路を塞ぎ迎撃し、バルチック艦隊旗艦 スワロフはじめ、戦艦、巡洋艦等を次々と撃破、5月27、28の両日にわたって激しい戦闘を繰り広げ、ロシア バルチック艦隊の艦艇の殆んどを撃沈、戦闘不能とさせ、艦艇降伏させました。
陸軍の二百三高地奪取に続いてのバルチック艦隊への勝利はロシアの戦意を著しく低下させ、アメリカの仲介により、戦争は日本の勝利となりました。