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歴史 今日の出来事 皇極天皇2年 11月11日(643年12月30日) 山背大兄王が蘇我入鹿に襲われ自害〜上宮王家滅亡
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伝 山背大兄王 陵(富郷陵墓参考地)
奈良県生駒郡斑鳩町三井
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推古朝で摂政を務めた聖徳太子の皇子 山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、622年 推古30年、太子の死後、有力な皇位継承者となりました。
山背大兄王の一族は上宮王家と呼ばれ、蘇我氏と皇位継承者の擁立を巡り、暗闘が続きます。
蘇我馬子の子、蝦夷は、他の有力豪族に巧みに味方につけ、自身の推す田村皇子を皇位継承者とし、田村皇子が34代 舒明(じょめい)天皇となり、自身の子 入鹿と権勢を欲しいままに専横を極めました。
蘇我氏を継いだ入鹿は、自身の従兄弟で、意のままに操れると考えた古人大兄王皇子(ふるひとのおおえのみこ)を皇位に据えるべく、その中継ぎとして舒明天皇の皇后 皇極天皇を女帝として擁立したことで、上宮王家と蘇我氏の対立は決定的となりました。
両家の暗闘が続くも、祖父に用明天皇、父を推古朝の摂政を長年勤めて民衆にも支持された聖徳太子を父に持つ山背大兄王が代が変わろうと有力皇位継承者であることに変わりなく、643年 皇極2年、入鹿はその芽を摘むべく行動を起こします。
皇極天皇2年11月11日、
入鹿は軍勢を率いて斑鳩宮の上宮王家を襲撃し、山背大兄王はいったん宮殿の斑鳩宮から生駒山に逃れるも斑鳩宮に戻り、妻子愛妾一族とともに首を吊って自害、太子から続いた上宮王家は滅亡しました。
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山背大兄王の創建した法起寺に近い岡の原の丘は山背大兄王の墓と伝わる頂で、王の富郷陵として宮内庁に管理されています。