北条義時、姫の前 碑
静岡県伊豆の国市南江間 江間公園
鎌倉幕府、二代執権となる北条義時の人生は、主君の源頼朝の死後、急変しますが、義時の私生活において、最も幸せだったのは、最初の正妻である姫の前と暮らした日々だったと思います。
義時には、阿波局という御所で官女を務めていたという身分の低い女性との間に一男を設けていました。
後の3代執権、北条泰時です。
母となった阿波局とどの様な生活を送ったのかは定かではありませんが、阿波局は義時と泰時の元を去りました。
義時は、源頼朝の最側近という立場から幕府内で多忙を極めていましたが、頼朝の悲願だった平家を滅ぼし、懸案だった奥州 平泉の藤原氏は義経を討ち取らせた後で滅ぼし、頼朝自身も上洛を果たし、1192年、建久3年に頼朝は征夷大将軍に任じられたことで武家の頂点に立ちました。
頼朝が征夷大将軍に任じられる前、約1〜2年程さかのぼる頃から、義時には恋文を送る女性が居ました。
頼朝を長年支えてきた乳母の比企尼に連なる縁者、比企朝宗の娘〜姫の前でした。
姫の前は、頼朝が生活する御所で働く女房の一人として頼朝からも格別の信頼を得ている女性で、なお、容姿も美しく、【吾妻鏡】には〜権威無双の女房なり、殊更に御意に相叶う、また、容顔甚だ美麗と云々〜と絶賛されています。
義時は姫の前に恋文を送り続けるもまったく相手にされませんでした。
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