直政の次男である2代藩主・井伊直孝は大変信心深い方で、井伊直政の法事の毎に大信寺に参詣されたといわれています。
万治2年(1659)に死去。
遺骸は世田谷の豪徳寺に葬られましたが、直孝の歯骨の一部が、大信寺の御廟に祀られています。
歯のお墓としては随分立派な御廟です!
地蔵堂
本堂平成大修復記念の瓦
こちらにも井伊家の家紋が見えます。
直政の次男である2代藩主・井伊直孝は大変信心深い方で、井伊直政の法事の毎に大信寺に参詣されたといわれています。
万治2年(1659)に死去。
遺骸は世田谷の豪徳寺に葬られましたが、直孝の歯骨の一部が、大信寺の御廟に祀られています。
歯のお墓としては随分立派な御廟です!
地蔵堂
本堂平成大修復記念の瓦
こちらにも井伊家の家紋が見えます。
彦根の夢京橋キャッスルロードから少し入ったところにある大信寺の創建は、井伊直政が開いたのが始まりと伝えられています。
直政は、天正18年(1590)の徳川家康の関東移封に伴い、高崎城主になっていましたが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの戦功により、佐和山城主となり、慶長8年(1603)、現・群馬県高崎市の大信寺の住職・照誉和尚が現在地を寺領として大信寺を建立。
元禄6年(1693)、元禄14年(1701)の大火により全焼しますが、元禄から寛永年間に5代藩主・井伊直通が本堂を再建しています。
本堂
山門の両脇の石垣は、彦根城の残石を利用した牛蒡積みで築城時のものだといいます。
観音堂
広隆寺を見学し、太秦映画村に向かって歩いていた途中に通りかかった大酒神社。
気になったので、覗いてみることに。
広隆寺を創建した秦河勝を祖神とする秦氏の神社なのですね。
大酒神社は、仲哀天皇の頃、秦始皇帝の子孫の功満王(くまおう)が来朝し、「秦始皇之祖神」を勧請したたのが始まりとされています。
秦の始皇帝と聞いて、真っ先にキングダムの嬴政を思い浮かべました(^^ゞ
祭神は、秦始皇帝、弓月君(ゆづきのきみ)、秦酒公(はたのさけのきみ)、呉織神(くれはどりのかみ)、漢織神(あやはどりのかみ)。
現在は広隆寺の東隣にありますが、明治の神仏分離以前は、広隆寺の桂宮院内に鎮座していたとのこと。
霊宝殿は、広隆寺の文化財を収蔵展示する施設で、昭和57年(1982)に建てられました。
国宝の弥勒菩薩(半跏思惟像)をはじめ寄木造の千手観音(藤原期)、聖徳太子16歳像(鎌倉期)など、飛鳥、天平、貞観、藤原、鎌倉それぞれの時代を代表する仏像が安置されています。
霊宝殿前の庭
桂宮院本堂への入口
※桂宮院本堂は通常非公開
奥の院。境内の西側、塀で囲まれた一画にあり、聖徳太子が建てた楓野別宮(かえでのべつぐう)が起こった所とされる。聖徳太子像を祀る堂で法隆寺夢殿と同じ八角円堂であるが、建築様式的には純和様で檜皮葺きの軽快な堂である。正確な建造年は不明であるが、建長3年(1251年)、中観上人澄禅による当堂建立のための勧進帳があることから、おおむねその頃の建立と推定される。堂内の八角形の厨子も堂と同時代のもので、国宝の附(つけたり)として指定されている。本尊の聖徳太子半跏像(鎌倉時代、重要文化財)は霊宝殿に移されている。建物は原則として非公開となっている。(Wikipediaより)
広隆寺の本堂である上宮王院太子殿は、享保15年(1730年)建立されました。
入母屋造、檜皮葺きの宮殿風建築で、厨子内にはご本尊の聖徳太子立像が安置されています。
木造聖徳太子立像 - 像高148センチメートル。像内に元永3年(1120年)、仏師頼範作の造立銘があり、聖徳太子が秦河勝に仏像を賜った時の年齢である33歳時の像で、下着姿の像の上に実物の着物を着せて安置されている。その着衣は、天皇が即位などの重要儀式の際に着用する黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)で、広隆寺では天皇より贈られたその袍を本像に着せるならわしが平安時代より現代まで続いている。上皇明仁も天皇時代に袍を下賜されており、この像に着せられている。本像は秘仏であり、11月22日のみ開扉される。(Wikipediaより)