令和2年2月20日(木)、「青草」の新春句会が開催されました。
アミュー厚木において真剣そのものの句会のあと、懇親会をレンブラントホテル厚木に移して、
華やかにも大いに盛り上がりました。
主宰作品
金塊のただつるつるの寝釈迦かな 昌子
日輪に顔を曝して梅見かな
磐石につぐ磐石や梅見頃
主宰選評
もの言はぬ日も十日目や春の水 佐藤昌緒
上五中七と読み下ろしてゆくと、果たしてどうしたのだろうかと、句またがりの感覚もあって、「十日」という長さに驚き、そのうす暗がりの雰囲気をさびしくも危ぶむものである。
そこへ下五に「春の水」とくると、杞憂を吹き飛ばさんばかりに鮮やかな真っ青な水がひらけてしばし得難い安堵につつまれた。
春水に出会った今日からはもう元気はつらつである。
「春水四沢に満つ」という詩情に満たされたのである。
人の世にはいろいろのことが降りかかってくるが、いつの時も、
なぐさめをもたらすのは永遠の今という自然との出会いである。
「春の水」のうるわしい感覚が一句のどこにも染み入るようである。
春ショール扇のやうな藻の揺れて 日下しょう子
水にひらいた藻を扇のようだと見届ける心には、春の日中にあってふわりと羽織ったショールのよき感覚があってのものであろう。
つまり、扇のようなという比喩は頭で考えたものでなく作者の直感でとらえたやさしさである。
言葉数が多いと思われるフシもあるが、ショールを通して春到来のよろこびが匂い立つものである。
春寒や水鳥の羽舞ひ上がり 平野翠
富士山を源流とする相模川は四季折々自然の宝庫である。
我らが青草俳句会の面々は、どれほど相模川と大山阿夫利嶺の恩恵にあずかっていることだろうか。
これからも感謝をこめて風土のありがたみを詠い続けていきたいものである。
掲句も相模川での一句ではなかろうか。
水鳥」は冬の季語だから季重なりなどというのは野暮ったい。
「素直に本当のこと」を詠いあげただけのこと、それが韻律のよろしさに表れている。
何鳥であろうか、川から飛びあがった瞬間にひろげた羽の白さに、思はずはっと寒さを覚えたのである。
冬の寒さではない。
「水鳥の羽舞ひ上がり」の表出には「春」の感覚がゆきわたっている、春寒料峭である。
「春寒」は「はるさむ」でなく、「しゅんかん」とやや強い響きをもって読み上げたいと思う。
雛菓子の一つ二つと増えてをり 堀川一枝
3月3日にさきがけて雛人形は立春から飾って、一か月はゆうに楽しませてもらうものである。そこには桃の花や菜の花も活けられるであろう。
そして雛壇に供えられた雛菓子は、はじめ菱餅だけであったのに、日の経つうちに桜餅があり、雛あられがありといろいろのお菓子やお餅が増えていったというのである。
老いて雛飾りをしない者であっても、せめてもとばかり色とりどりの美しい雛菓子だけは揃えたくなるものである。
この折に来客のもたらすものもまた雛菓子である。
掲句は人の動きも感じられ、愛らしくも明るいなごやかさが溢れている。
桃の節句をこういう角度から詠いあげることもできるのかと感銘しきりである。
蕗の芽のあと一週間は太らせよ 湯川桂香
「一週間は長過ぎないか」という意見も出たが、俳句における一週間は実数としての一週間ではない。
大まかな、手につかみ取れる程度の空間をそう言ったまでのことである。
実際のところ一週間もすれば蕗の花となって呆けてしまうかもしれない。
とにもかくにも、蕗の芽大事の気持ちを、今引き抜くには時期尚早ということを、
詩情たっぷりに表出すると掲句のようになるのである。
桂香さんはまぎれもなく詩人である。
かたかごの花や小雨の詩仙堂 古舘千世
詩仙堂は石川丈山が詩歌三昧の隠遁を送ったという美しい庭をもっている。
詩仙堂というと即座に〈初冬の竹緑なり詩仙堂 鳴雪〉が浮かび上がって、
もう他の句は要らないというものであったが、この片栗の花に出会って、
ひそやかなる吐息がもれたものである。
内藤鳴雪とは別種の、こんな表情も見せてくれる庭であったかとしみじみする。
「小雨」の詩情がゆきわたっている。
花咲くや仕舞ひしままの車椅子 佐藤健成
以前は使っていた車椅子だが、いまは不要になって倉庫か納屋に仕舞ったままになっているのだろう。
桜の美しく咲くある日のこと、しばしそのありように引き寄せられたのである。
「花咲くや」からは車椅子のそこに在った人へのなつかしさというか、
面影が濃く漂っているように思われる。
作者自身が過去に使っていた車椅子であれば「桃咲くや」でも「梅咲くや」でもいいだろう、
「花咲くや」は作者にとって取り換えのきかない季題ではないだろうか。
感情は一切述べず、車椅子という具体的なものを提示しただけであるが、
分かる人には分かる、これが俳句である。
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