源氏物語:夢の恋か闇のうつつか
馬場あき子氏著作「日本の恋の歌」~貴公子たちの恋~
第三章 「古今集」の恋 からの抜粋簡略版 です。
今回は難解かも。「うばたま」烏羽玉(むばたま)はサボテンのようですが、お菓子も販売されています。
うばたまの闇のうつつはさだかなる夢にいくらもまさらざりけり 恋三
(夢こそは二つの魂の出会いの場。燈火を消したまっ暗な闇の底で愛し合うのは、喜ばしいがもうひとつ物足りない。一方、夢の中で愛する人の姿をありありと見たりすると胸がときめいて、闇のうつつの手さぐりの愛にそれほど劣るとも思えない)
少し理屈っぽくうたっているが、くっきりした夢の逢瀬、それはやはり「闇のうつつ」と表現された性愛の場と同じ感覚を伴うものであろう。そうでなければ、「いくらもまさらざりけり」という詠嘆はなかなかうまれない。
この歌も「源氏物語」の「桐壺」に引かれている。桐壺更衣が亡き人となった後、帝が秋の夕べに更衣の回想にふける場面だ。「人よりは異なりしけはひ容貌(かたち)の、面影につと沿いて思さるるも、闇の現(うつつ)にはなお劣りけり」とある。ここでは、最愛の更衣の面影をくっきりといくらでも思い出せるが、それは何といっても、現実として愛し合えた「闇のうつつ」の方がはるかにすばらしいと、本歌の洒落た発見に異を唱えることによって、哀傷感(特に、人の死を悲しみいたむこと)を深めている。
しかしこの歌、「源氏物語」に材を得た能の「夕顔」では少しちがった引き方がされている。「闇のうつつ」は夢幻にまさるのでもなく、劣るのでもなく、もっと怖ろしく忌まわしい「死」が、ついさっきまで手に触れていた「闇のうつつ」を変貌させたのであった。「ーーあたりを見れば烏羽玉(むばたま:烏羽玉が黒いところから「くろ(黒)」にかかり、さらに「やみ(闇)」「よる(夜)」「ゆうべ(夕)」「かみ(髪)」「ゆめ(夢)」などにかかる)の闇の現(うつつ)の人もなく、いかにせんとか思ひ川、うたかた(水の上に浮かぶ泡:泡沫=はかなく消えやすいこと)人は息消えて、帰らぬ水の泡とのみ、散りはてし夕顔の、花は再び咲かめやーー」となっている。
ここでは闇の「現(うつつ)」が上下に働く言葉となっており、「闇の現」に手さぐりできた人が亡くなってしまった。それと同時に、闇の暗さの中で「現の人」として正気を保っている人はひとりも居ないという状況も表している。そういう「闇の現」の冷静さが、引き歌を思い出しつつ読むと、手さぐりの闇の底にある性愛のやさしさが、うらはらの怖さとして浮かび上がる。このように、引き歌はその引かれた場によって、意味に変化が起きるが、それも本歌の魅力が誘発した。広がる言葉の力といえるのではないだろうか。