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3.紫式部の育った環境 ひけらかし厳禁 (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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ひけらかし厳禁

  私は父に嘆かれても漢籍読みをやめなかった。それどころか漢詩や漢文に没頭した。そこに繰り広げられる壮大な歴史劇、心震える情愛の物語、深遠な哲学が私を虜にした。だがある時、人から言われた一言が胸に引っかかって、私はこの力を隠すようになった。

   「男だに、才がりぬる人は、いかにぞや、はなやかならずのみ侍るめるよ」と、やうやう人の言ふも聞きとめて後、「一」といふ文字をだに書きわたし侍らず、いとてづつにあさましく侍り、

   [誰かが「男ですら、漢文の素養を鼻にかけた人はどうでしょうかねえ。皆ぱっとしないようではありませんか」と言うのを聞きとめてからというもの、私は「一」という字の横棒すら引いておりません。本当に不調法であきれたものなのです。]
   (「紫式部日記」消息体)

  男でも、漢文の知識をひけらかす者はうだつがあがらない。それは誰のことだろう。父はどうか。そうだ、確かに父の地位は華やかとは言い難い。父の文人仲間とて、ごく一握りの人が摂関家におもねって出世している以外は、おおかた低い身分だ。

  そして、私が知る限り最も漢文の素養を鼻にかけた貴公子、伊周(これちか)様はどうだろう。二十一歳の若さで内大臣になるまでは世間を驚かせる出世ぶりだったが、一旦道長殿との政争に負けるや、自ら女がらみのばかばかしい事件を起こして失脚してしまった。
  先の帝である花山法皇を自分の恋敵と勘違いし、一味で矢を射かけて暗殺未遂の罪に問われたのだ。余罪も含め多くの連座者を出し、後に「長徳の政変」と呼ばれるに至った大事件だ。伊周様は内大臣の地位を剥奪され、大宰府にまで流された。やがて都に戻っては来たものの、最期は三十七歳の若さで、それは惨めな亡くなり方だったと聞く。

  男ですらこうなる。まして女は、ということだ。私はぞっとした。絶対にひけらかすまい。人には漢字の素養を見せるまいと心に決めた。このように私は、まことに世間に従順な人間なのだ。

  世の中には「男は漢文、女は和歌」という規範がある。だから「源氏の物語」の中でも、光源氏が漢詩を作る場面などを書きはしたが、その詩そのものは決して書いていない。そういう場面では、「女がよく知りもしないことを語るものではないので、省く」と逃げた。「源氏の物語」はちょうど女房が語っている形式なので、辻褄も合う。

  それにしても、漢学は私にとって二重にも三重にも複雑な意味を持つものだった。それが矜持(きょうじ)でもあったが、引け目でもあった。だから、救いとも感じたが嫌悪感も抱いた。

つづく
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