紫式部は、中宮彰子のお産につき諸事を書き留めておくように命ぜられました。もしも皇子が生まれれば、必ずやいつかは即位し、道長家に揺るぎなき栄華をもたらしてくれる存在になるでしょう。その誕生は家にとって二つとない晴事となります。記録として残し伝えよとの命令です。他の仕事を免除されて、紫式部は取材と記録に集中しました。
1008年七月十六日、中宮彰子はお産に向けて道長の邸宅土御門殿に入られました。時に懐妊八か月。出産予定はは秋の終わり月、九月です。中宮彰子を待ち迎えた土御門殿は、草木も季節の色に染まり、お産への臨戦態勢に入っていました。
― 秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくおかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、おほかたの空も艶なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけはひに、例の絶えせぬ水のおとなひ、夜もすがら聞きまがはさる。 ―
[現代語訳
いつの間にか忍び込んだ秋の気配が次第に色濃くなるにつれ、ここ土御門殿のたたずまいは、何とも言えず趣を深めている。池の畔の樹々の梢や流れの岸辺の草むらは、それぞれに見渡す限り色づいて、この季節は空も鮮やかだ。そんな自然に引きたてられて、安産祈祷の読経の声々がいっそう胸にしみいる。日が落ちれば涼しい夜風がそよぎだし、風音は絶えることのない庭のせせらぎの音と響きあって、夜通し和音を奏でる。]
土御門殿は、東西一町(約100m)南北二町の広大な敷地に寝殿や東・西・北の対、廊が整然と並ぶ大邸宅です。庭には池が作られ、その畔には御堂もあります。かつてこの邸宅の敷地は北半分だけでしたが、源倫子が一族から相続し、倫子の夫である道長の邸宅になってから、二倍の面積に広げられて、ますます綺羅を増しています。
中宮彰子のお産所、この邸宅の寝殿を取り囲む自然のすべてが、お産の時期がもうすぐだと言っています。
それに応援されて、道長が招集した高僧たちの読経の声が、頼もしく響きます。一人一時(いっとき 二時間)ずつ読んでは交代し、一日中絶えることのない安産祈願の読経の声です。この者たちは、これから晩秋の出産本番まで、こうして絶やさず経を読み続けます。
緊張した空気がみなぎる中、最も張りつめた気持ちでいるのがお産をする当人の中宮彰子です。しかし中宮彰子は、心の乱れなどおくびにも出されません。
中宮彰子はなんと強いのでしょうか。誰もが知っています。この方の過酷な人生を。中宮彰子は、一条天皇の子供を産んで道長を次代の天皇の外戚とするべくこの世に生を受け、わずか十二歳で入内しました。
彰子は中宮の称号を授けられ、また定子が崩御され名実ともに後宮随一の后となってからも、懐妊されませんでした。また今ようやく懐妊なってからは、初産の怖さに加え、どうしても男子を産まねばならない重圧が」のしかかってきたことでしょう。こんな中で、一条天皇の支えもあるとは言えません。
紫式部は、ここにもまた「世」があり「身」があると思いました。中宮彰子は、最高権力者の娘にして今上天皇の妻という至高の地位にあり、今や懐妊中です。外から見ればこれほど華やかで幸せに満ちた人はいないでしょう。ですがその内側は、むしろ道長の娘、帝の中宮であるからこその苦を負うことになったのです。
参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り