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解説-8.「紫式部日記」定子崩御

解説-8.「紫式部日記」定子崩御

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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定子崩御

  だが、こうした緊張状態は長くは続かなかった。同年十二月十六日早朝、第三子を出産した直後に、定子が崩御したからである。
  この事実は貴族社会に衝撃を与えた。自らが迫害に加担してきた罪悪感もあってか、当時の蔵人頭で「紫式部日記」には侍従の中納言として登場する藤原行成(ゆきなり)や、当時の参議で「紫式部日記」には権中納言として登場する源俊賢(としかた)が同情の意を示した。

  そればかりか、若年層には定子の四十九日に合わせ、連れだって出家する者まで現れた。道長の妻である源倫子の甥で道長の養子となったいた権中納言源成信(なりのぶ)と、右大臣顕光の子である藤原重家である。道長と顕光は二人のいる三井寺に急いだが、後の祭りだった。

  定子を喪った一条天皇は、永く心の空洞を抱えることとなった。「栄華物語」(巻八)は、彼が定子の末妹である御匣殿(みくしげどの)を寵愛したと記す。彼女が姉の遺言に従い敦康親王を養育していたことがきっかけであったという。おそらくは、彼女を身代わりにしてまでも定子を求めたのだろう。

  道長はこれを聞くや敦康親王を彰子のもとに引き取り、彰子と天皇の関係を促そうとした。これには将来彰子が男子を産まず、敦康が即位する事態に備えて、自ら養祖父の立場を確保しておこうという目論見もあった。しかし天皇は御匣殿を愛し続け、彼女は懐妊した。だが長保四(1002)年六月に、出産に至らず亡くなった(「権記」同月三日)。

  その後、一条後宮の動きは途絶えた。後宮には彰子のほかに、公季(きんすえ)の娘である弘徽殿の女御義子、顕光の娘である承香殿(じょうきょうでん)の女御元子、また長徳四年に入内した、故関白道兼と内裏女房で兼家の異母妹である藤三位(とうさんみ)繁子との間の娘、暗部屋(くらべや:宮中の局の名。正確な位置は不明)の女御尊子がいたが、皆彰子の敵ではなかった。

  しかし彰子は一度も懐妊せず、月日が流れた。

つづく
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